第3話 2本目の万年筆 セーラー プロフィット Ms
主人は大学4年生となった。理系の学科である主人は前にも増して研究に費やす時間が長くなり、最近ではパソコンで文書を書くことも多くなった。研究のメモや記録用にはノートに常備されたSARASAノックが利用された。筆入れは従前どおり持ち歩かれているが、その中にはサイドノックシャープペンシルはもういない。1本少なくなった筆入れは余裕があるというよりも少し寂しいくらいだ。
学校ではパソコンを利用する時間が増えた主人であったが、自宅やカフェで考え事をするときには常に万年筆があった。何か書くわけでなくてもキズモノの万年筆が手に収まっていた。何かひらめくと、A6サイズのMDノートが開かれる。最近の万年筆の相方はこのMDノート。少なくともこの半年、このペン先がMDノート以外に触れた記憶はない。そのくらいお互いの信頼度は高い。ペン先を走らせるとまるで銀面を滑るかのようにスムーズ、その上で裏写りすることなく万年筆を受け止める強靱さを併せ持つ。主人は思いついたキーワードをメモし、キーワード同士を線で結び、その関連性について考察していく。A6のノートはその考えを受け止めるには狭いとも思われるが、主人は気にもとめていないように見受けられた。
ある日、主人は「上野文具」と書かれた紙袋を持って帰ってきた。その外出には珍しく私たち文房具は同行していない。
主人は帰ってくるとまず筆入れから万年筆を取り出し、インクが残っているのにもかかわらず、カートリッジを抜き取り、ぬるま湯が張られた超音波洗浄機にそっと入れられた。主人はスイッチを入れた後もかたわらから立ち去らず、水の色が濃くなると交換を繰り返した。何度か交換したのち、体を拭かれ、机に戻る。ここまではカートリッジを交換する2~3回おきにしていただいているので何も疑問に思わなかった。ところが、机に向かった主人は緊張していた。そして万年筆の命ともいえるペン先にセロハンテープを貼っていくではないか。これにはさすがの私もびっくり。さらにそのセロハンテープごとペン先を軸から外されてしまった。軸から外されたペン芯とペン先。主人は紙袋から向こうが透けて見える紙(主人はトレーシングペーパーと呼んでいた)を取り出した。それがカッターで小さく切られ、ペン芯やペン先の隙間を清掃していく。かれこれ主人に仕えて7年弱。自分でも気づかぬうちに体内に汚れを蓄積させていたらしい。このトレーシングペーパーというのは細い溝に入れても汚れを書き出すだけのコシがある。かれこれ10分程度も汚れをかき出していただいた。仕えるべき主人に我が身を晒し、挙げ句の果てに清めてもらうなど、どこの世界にいるだろうかと思い、今後も主人への忠誠を誓うのであった。その後、さらに超音波洗浄機に浸り、体を拭かれた。
主人が紙袋に手をさし込み、次に取り出したのは長さ20cmほどの箱。きれいに包装紙を取り外すとセーラーと刻印された黒い箱が見えた。胸が締め付けられる。そのような私の思いをよそに主人はそれを開ける。私の金属部分が金色なのに対して、箱に入っているそれは銀色。それ以外には大きな違いは見られない。主人がキャップを外す。するとそこにあったのは太いペン先。やはり万年筆・・・。銀色のペン先にはセーラー特有の錨マークではなく風見鶏が描かれており、側面には「MS」と刻印されている。首から胴を外す。さらに黒い箱にある小さな細長い箱から取り出した空のカートリッジのようなもの、あれはコンバーターだ。初めて見るものであるが本能がそうであると確信させた。それが首に差し込まれる。さらに紙袋から取り出された箱。これは包装紙に包まれていない。銀色の箱に上から被せたようなオレンジ色?赤色の帯。そこに【夕焼け】と書いてある。下には「iroshizuku」。箱だけ見ただけでは分からなかったが、箱から出された瓶を見て納得した。それは万年筆用のインク。今までブルーブラックしか見たことない私はその美しさに魅了された。あの銀色のペン先を持つ彼には一日の終り、その有限の時間を永遠とも感じさせるオレンジ色?赤色の液体が充填されるのだ。そう考えていた私の耳に届く主人のつぶやき。
「あぁ、こっちじゃないな」
もう一つ出される同じような箱。ただし今度は茶色の帯に【山栗】と書かれていた。こちらも目を見張るようだ。ただの茶色ではない。色の加減で黒にも見える。今まではブルーブラックが主人の常用インクであったが、十分日常的な利用が可能だと思われた。そして銀色の君にはこちらのインクが吸入された。一度では入れ切らず、一度逆さまにして空気を吐き出し、再度吸入。ペン先と首に付いたインクをティッシュで拭う。主人の指先に付いたセピア調の色合い。主人は一度、ティッシュに押し付けた後、紙にこすりつけていた。
胴を取り付けられた銀色の君はペントレーに置かれた。いつからそのペントレーはあったのだろう。数年前まで定位置だったペントレー。そこに銀色の君が「コトリ」と小さな音をたてて横たわらせられた。
続いて紙袋からもう一つの小さい箱、先ほど黒い箱から出されたものと同じ箱、が取り出された。当然、中に入っているのはコンバーター。これが私の首、これまでカートリッジしか刺されたことがなかった場所に挿入される。主人は【夕焼け】と書かれた瓶を開ける。私は感謝した。誰にか?この世に文房具の神がいるのならその神にだろうか。ただただ、私にそのインクが入れられるのがうれしかった。
その日から考え事をする際に手にされる万年筆は銀色の君となり、その新人を指導する立場に私は昇格したのだった。