雲となり、雨となり / lying above その1
不安だった。倉庫の扉の隙間から漏れる彼女の清らかな声がとても恐ろしかった。いつかここに入ってくると想像するだけで身の毛がよだった。顔を合わすことなどもっての外だった。
キャジュには幾度となく説得された。自分の気持ちがどうであろうと相手の言葉に耳を傾けるべきだと言われた。無理だと思った。
一度でも壊れてしまえば関係の全てが終わってしまう。現実を目の当たりにしたあの人の顔を見るくらいなら死んだふりをしていたほうがまだましだった。キャジュは俺のことを卑怯者だと罵ったがそのとおりだと思った。
ほんのわずかな豹変だったとしても許すことはできなかった。なぜならキャジュに吐き捨てた言葉の全ては正真正銘自分の意思によるものだったからだ。機械の部品に残っていたナーバルエービーが体内で過剰に反応したことが原因だったとしても、死の恐怖に耐えられなかった事実を許すことはできなかった。
好きだと言ってくれた人に一生の傷跡を作ってしまったことを後悔していた。本人はもう気にしていないと言っていたが、自分はそうもいかなかった。
なんでもいいから償いたかった。そうしていかないと時間が先に進まなかった。
死にきれない身体の時間が止まることほど恐ろしいものはない。『拘束』を解く以外の願いならば全部聞き入れる準備はできていた。
だがキャジュはなにも求めてこなかった。彼女は俺の気持ちをそのまま受け取って介抱してくれるだけだった。それはいわば俺にとっての拷問だった。
キャジュの真意は一向に読み取れなかった。ただはっきりしていたことは『あの人』をそろそろここに招き入れるという意思を示していたことくらいだった。
これ以上の抵抗は不可能だとも言った。まるで死を宣告されたみたいだった。
……いっそのこと、殺してもらおうか。
我ながら冴えていると思った。
待望の眠りをあの人に導いてもらう。失敗は許されない。
……今度こそ、現実にさせてみせる。
そう思うと待ち遠しくなった。恋しいとさえ思えた。
かつて自分がそうしたように、あの人も絶対に救い出してくれる。
彼女となら、分かり合えるに違いなかった。
外出していたキャジュが帰ってきた。なにかを話しているようだったが、寝台から動けない俺は虚空を見つめることに慣れすぎて今回も聞き流していた。
部屋の中にキャジュ以外の人がいると気づいたのは、少し経ってからだった。
「……メイル、聞いているか。返事をしてくれ」
簡潔に答えた。聞こえてはいたがよく聞いていなかった。
キャジュは俺の応答に反応して張りのある声を出した。小声でなにかを話しているようだった。
「すまないがまた外出しなければならなくなった。スクネに呼ばれているんだ。困ったことがあったら『彼女』に頼んでくれ。じゃ、私は行くからな」
扉の閉まる音がした。
静まり返った部屋に控えめな足音が鳴り響く。
なにかを置いた音。おそらく椅子だろう。
その上から服の擦れる音がして、近くに体温を感じた。
「……あの時以来だね。思っていたより元気そうで、ほっとしたよ」
彼女だった。キャジュから話は聞いていた。
どうやら、無事に『動いている』ようだった。
「……いきなり押しかけてごめんね。どうしても、お礼が言いたかったの。あなたのおかげでこのとおり、元気になったよ」
嬉しそうな声だった。まるで別人に話しかけられているみたいだった。
あるいは、俺のほうが変わってしまったのかもしれないが。
「……キャジュからいろいろ聞いた。急に暴れ出さないように手足をくくりつけているんだよね。ずっと寝たままで辛くない?」
好きでやっているとしたら、それは変態というやつだ。
俺の場合、変態『行為』を防ぐためにやっているだけだ。辛いに決まっている。
「……返事、してくれないんだね。それとも、喋れなくなっちゃった?」
返す言葉がない。それを伝える気力もない。
だから、そう捉えて欲しい。
「……分かった。きっと辛いんだよね。じゃあ、キャジュに怒られるかもしれないけど、それ外してあげる。痛くなったら言ってね」
手足を寝台にくくりつけるように頼んだのは俺だ。
こいつは、馬鹿なのか?
「……あれ、うまく外れないな。すごくきついよ。どうしよう。……あ、そうだ。アイテルだ。あのねメイル、実はね、使えるようになったんだ、アイテル。まだ調整に慣れてないけど、メイルだったらちょっとくらい怪我しても大丈夫だよね?」
言いたい放題だ。だがそれは事実でもある。
俺の身体はちょっとやそっとでは駄目にならない。
……。
それにしても乱暴だ。下手をすると本当にもげてしまうかもしれない。
「……ええと、これを、こうして、と。はい、解けたよ。どう? 少しは楽になった? それとも、起き上がってみる?」
俺はなにをされているのだろうか。
返事もできない。抵抗もできない。表情を変えることもできない。
これではただの玩具みたいじゃないか。
「……メイル、やっぱり私とじゃ、嫌?」
いや、そうじゃない。こいつは俺が玩具でいることに不満を持っている。
話をしたところで、なにも生まれないというのに。
もう、あの時点で手遅れだったはずなのに。
……ん? そうじゃない? なにに対してだ?
俺は今、なにを考えていたんだ?
「……私が死にそうになった時、近くにいてくれたよね。あの時にした話の、続きをしたいの。ずっと嘘をついていたことを、謝りたいんだ……」
嘘? なんのことだろう。
俺を利用していたことだろうか。
身体はよくなったのだから、もう必要ないはずだ。
それとも、今頃になって良心が痛みだしたとでもいうのか。
……忘れてしまいたいことを、掘り返すのか?
……もう、同情なんて、たくさんなんだよ。
「……私ね、本当は殺される予定だったんだ。城の人達にはアイテルを使えない私はお荷物だったみたい。それでさ、逃げ出してきちゃったんだ。……でもね、そのあと私を守ってくれていた人が死んでしまったり、機械兵に地下都市侵入を許してしまったことでたくさんの人を死なせてしまって……、とても後悔したんだ。ただ生き延びたいと思っていただけなのに、目の前で何人もの人が死んでしまって、なんで私だけ生きているんだろうって。あの時は本当に死んでしまいたかった……」
……なに話しはじめているんだよ。
それも作り話なのか? もう分からないんだよ。
「……結局、レインさんに止められたんだけどね。へへへ。とにかく前に進んでみなさいって言われたんだ。そうすればいつか必ず生き続けたいと思うものを見つけられるからって。……それでね、あなたの家に行ったんだよ。宿を探していたレインさんとヴェインさんを案内したのは私なんだ。心が壊れてしまってもメイルにだけは会いたかったから。十一年前の約束を覚えていてくれたら、きっと私を救ってくれるんじゃないかって勝手に想像しちゃった……」
……なんだよ、それ。
なんで今なんだよ。なんで今話してしまうんだよ。
「……実際のメイルはちょっとだけ頼りなかったけど……、ああでも、ちょっとだけだからね。ちょっとだけだから、うん。……でもね、見た目はかなり変わったなあって思った。男らしくなって格好良くなったよね。あの時は興奮しちゃってさ、表情でばれないように必死だったんだ。だから、なんていうか、ずっと夢中だった。見つけなければならないものがすぐ近くにあって、これだったら生きていけるって思ったんだ……」
……やめろよ。もう冗談はよしてくれ。
分かってるんだよ。俺はそんなに鈍感じゃないんだよ。
「……だから、あの時の私は本当の私だよ。あなたを都合よく利用しようなんて考えてなんかいなかった。むしろ利用して欲しいくらいだった。死ぬつもりでいた私に生きる意味をくれたあなたにだったら、私の全部をあげてもいいと思った。本当にそう思ったんだよ。それでね、この都市で暮らすことが決まった時、あなたと同じ家に住めるようにこっそり頼んだんだ、レインさんにね。今までずっと黙っててごめんね……」
……もう、俺は裏切られたくないんだよ。
怖いんだよ。苦しいだけなんだよ。
「……ずっとあんな日が続けばいいのにって思った。あなたと食事をしたり、あなたといろんな区域で作業したり、つまらない話で思いっきり笑ったりしてすごく幸せな毎日だった。……でも、戦争が知らないうちに私を変えていった。少しずつだったから自分でも気づいていなかったんだ。……それで、キャジュの仲間だったカウザの人を殺してしまった。大切に積み上げてきた心が一気に崩れてしまって、なにもかもが終わったと思った。この事実をあなたが知ったらきっと私を人として見なくなる。最初は無理をして、次第に心が離れて、最後はいなくなると思った。私はあなたに辛いことを言わせてしまうと思ったんだよ……」
……頼む。それ以上、言わないでくれ。
俺は、疲れたんだよ。
「……悩み抜いた。そして、嘘をついたんだ。気持ちが私に向いていないうちに離れてしまえば、あなただけは軽い傷だけで済むと思ったんだ。……でも、そうじゃなかったんだよね。メイルも同じくらい苦しかったんだよね。あんなに近くにいてあんなに話す時間があったのに、なんで気づけなかったんだろう。……私って、本当に馬鹿だったね。取り返しがつかなくなってから気づくなんて、ほんと、馬鹿だよ……」
……俺は、眠りたいんだよ。
「……ねえ、メイル。私のこと、嫌いになっちゃった? ……やっぱり、そうだよね。へへへ。遅かったんだよね。ここまで酷いことされちゃったんだ。恨まれて当然だよ……」
……。
「……ごめんね。聞きたくなかったよね。こんなこと言うのずるいかもしれないけど、今話したことは全部忘れて。もう二度とここにはこないしあなたのことも誰にも言わない。……だから、絶対に幸せになってね……」
。
「……じゃあ、キャジュ呼んで来る」
「……待てよ」
「え?」
彼女の顔を見た。最後に見た顔に比べると見違えるほど若々しく映った。
二つに結ばれていない銀色の髪は胸元の辺りまで伸びていた。よく見るとあの時に作った服を着ている。どうやら本人のようだ。
……今まで話していた人の顔ではないものがそこにあるみたいだった。
「一つ、頼みがある」
返事はなかった。半開きの口と丸くなった大きな目が見つめてくるだけだった。
俺はその顔を真剣に見た。こんなに長い時間見つめ合ったことは、おそらくなかった。
次の一言で全てが終わるだろう。そう思った。
そして、かつての自分の顔が思い浮かんだ。
……あの頃の俺は、何回笑っただろうか。
……あれは、本当に俺だったのだろうか?
「……俺を、殺してくれないか」
「……!!」
両手で口を隠した。驚いたのだろうか。おそらくそうなのだろう。
返答が欲しかったのでもう一度同じ言葉を言った。大きく首を横に振られた。
「理由があるんだ。少し聞いてくれないか?」
「……い、いや、嫌よ! なんで、私が、あなたを、む、無理だよ!」
「無理じゃないだろ。その気になればやれるんだろ? なあ」
「……や、やめて!! 来ないでよ!!」
反射的に立ち上がっていた。何日ぶりだろうか。適応能力がいかに優れていてもさすがに足元はふらつくようだ。
地面についた足の裏の感覚が妙に柔らかい。くすぐったくて倒れてしまいそうだった。
彼女の肩に触れると力任せに振りほどかれた。諦めずに繰り返す。抵抗をやめる気はないようだった。
「ほら、頼む。やってくれ。お願いだ」
「いやだ! できないよ! メイ、ル!」
人類最強と聞いていた女の腕力は非常に弱々しかった。不規則に暴れる両腕を退かそうと揉み合っても全然負ける気がしない。こんなのがあの機械兵を相手にしているのだったら、俺でもやれるのではないかと思ってしまうほどだった。
しばらく子供の喧嘩みたいに揉み合っていると、彼女は視界を失ってしまったのか後退する足を踏み外して尻を床につけた。
ここで離してしまったら一生後悔すると思ったのでさらに詰め寄った。
そして、床に仰向けになった彼女をとうとう組み伏せることができた。
「話を聞けよ!!」
「いや! やめてよ!」
「おい! とにかく、冷静になってくれ!」
「だって、だって!」
「マーマロッテ!!」
ぴたりと止まった。
下から見上げてくる彼女の両目の端から、光るものが流れていた。
……こんなに弱い人間が、この俺を殺せるのだろうか。
……俺は、なにかを勘違いしてるのだろうか。
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