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明日を重ねる唄 / for your trace, my dear その2



 倉庫の扉の前で立ち止まると、心臓が唸るように跳ねた。

 彼がこの中にいる。考えただけで視界が揺らいだ。

 震えた手が意を決する間もなく呼び鈴を押す。

 ほどなくして頑丈そうな扉が横に開いた。


「……レシュア、目を覚ましたのか」


 キャジュだった。いつものおっとりとしたあどけない表情がかなりやつれているように見えた。私はそんな彼女に精一杯の作り笑顔をしてみせた。愛くるしいお返しを期待していたが、虚ろな目をした真顔の彼女しかそこにはいなかった。


「……レインから聞いてきたのか?」


 首を横に振った。そして今は声が出せないことを身振りで伝えて、中にいるだろうもう一人のことを聞いた。


「……すまない。メイルは今寝ているんだ。また今度にしてくれないか」


 首をまた横に振った。寝顔を見るだけでもいいから中に入れて欲しかった。

 私は出せない声をなんとか絞り出せないかと試してみた。すると、かすれた吐息の中にわずかな音が漏れた。

 ……。

 どうやらキャジュには届いていないみたいだった。


「……レシュア、お前もまだ休んでいたほうがいい。声が出せるようになったらまた来てくれ。その時までは、すまない、我慢していてくれ」


 もどかしさでどうにかなりそうだった。扉を押さえつけているキャジュの手を強引に振り払って中に入ってしまいたかった。そこにあるものを、ここがあの時と同じ世界である証拠を見ておきたかった。

 でもそれは彼女の物憂げな表情を否定することでもあった。たとえ会いたい気持ちが抑えられなくなっても、それだけはできなかった。



 キャジュという存在は私が人間であり続けるための大事な心の一つだった。それを壊してしまっては彼女と出会ってから積み上げてきた精神がもとの形に戻ってしまう。今の自分の存在理由を捨ててまで起こす行動とは思えなかった。仮に強い意思が働いたとしても、身体はきっと動かないだろう。



 結局、キャジュには扉を閉めてもらった。

 彼女の言うとおりなのかもしれない。まともに喋れない今はなにをするにしても不自由だった。少しでも早く出直せるように大人しくしていたほうが彼らのためにもなるのではないかと思った。



 気がつくと倉庫に来る前まで乱れていた思考がなぜか鎮まっていた。おかしいくらいに冷静な自分がそこにいた。

 おかしくなったのは身体の調子だけではなかった。意識というか感覚というか、勘のようなものが強く働いているみたいだった。それは私自身の意思ではない、違う誰かの心が教えてくれるような不思議な感覚だった。

 ゆっくりでいい。そう言ってくれているような気がしたのだった。




 あれから三日が過ぎた。レインには戦闘の参加を止められていたので一日のほとんどを各区域の手伝いに費やした。一つの場所に留まらず、全ての区域を回って様々なことを学んだ。

 彼がかつてそうしていたように、その温もりを少しでも感じ取りたかった。



 アイテルを使えるようになってできることが増えた。一人でも食事を取れるようになったのだ。

 知らない人間に囲まれて生活することに抵抗があると思っていたが、いざ実践してみると案外心地よいものがあった。不自由なく生活できたことが少なからず精神の安定に繋がったのだろうと思った。



 声のほうは相変わらずだった。原因をシンクライダーに調べてもらっても身体的な異常はないとのことだった。それはつまり、精神的な部分が脳に悪影響を与えていることを示唆していたが、シンクライダーはそこまでの言及を私にしなかった。無理して出そうと思えば出せないこともないくらいには回復していたので、焦らずに待っていればそのうち元通りになるだろうと励ましてくれた。



 夜になるとあの頃を思い出して不安になることがあった。激しい胸の痛みがまた襲ってくるのではないかと思うとなかなか寝付けなかった。

 そういう時は『彼』が作った空色の夏服を抱くことで気を紛らわした。彼が側にいると思うだけで眠れる自分の想像力は我ながら大したものだった。時折滑稽に感じて笑ってしまうこともあった。



 一人でいる時に笑うことなんてかつての自分では考えられないことだった。近くには誰もいないはずなのに誰かが側にいてくれる……そんなありもしないことを最近よく考えるようになった。

 確信には至らないものの、それは私の胸の中に潜んでいるような気がしてならなかった。

 とても温かくてとても大きななにかが私を包み込んでいる。それはまるで孤独に生きていく私を泣かせまいと見守る愛の塊のようだった。




 五日が過ぎて私はとうとう声を出せるようになった。それは無言で過ごした日々に感じたものの正体に気がついた時でもあった。

 この胸の中にあるものが『彼のもの』で間違いないと分かったきっかけは、スクネちゃんがかけてくれたなにげない言葉だった。



「……レシュアおねえちゃんからメイにいちゃんのにおいがする」



 それは彼がいる倉庫の近くを通った時だった。スクネちゃんは一人倉庫の前に立っていたのだった。


「スクネ、ちゃん?」


 遠くから声をかけると、小さな女の子は人差し指を口元に当てて私を注意した。


「メイにいちゃん、おきちゃうから、めえだよ」

「スクネ、ちゃん、も、気になって、来たの?」

「うん。とってもくるしそうだから、げんきをわけにきたの」

「そう、なんだ。偉いね」

「おねえちゃん、くるしいの? おこえがへんだよ」

「ちょっと、ね。でも、大丈夫、だよ。あり、がとうね。心配して、くれて」

「おねえちゃんも、メイにいちゃんとおなじなの? くるしかったの?」

「私は、平気。スクネ、ちゃんは? お兄、ちゃんが、いなくて、寂しく、ない?」

「とってもさみしい。はやくだっこしてほしい」

「早く、元気に、なると、いいね。お兄、ちゃん」

「うん。でもね、スクネいいこだから、がまんする」

「強いん、だね。羨ましい、よ」

「おねえちゃんは? さみしいの?」

「うん。早く、会いたい」

「おねえちゃんは、いいこにしないの?」

「一応、頑張って、る。でも、スクネ、ちゃん、みたいに、強くは、ないから、悪い子に、なっちゃう、かもね。へへへ」

「レシュアおねえちゃんとスクネ、おともだちだからわるいこはだめ」

「そう、だったね。ごめん、ね。私、頑張るよ」

「そうだ。おねえちゃん、あれやろうよ」

「なに?」

「おなかポコポコ、だよ」


 『おなかポコポコ』とは身体の各部位を歌に合わせて手で押さえる遊びなのだという。二人が向かい合って、腹、肩、口、鼻、目、耳、頭という順番で手の平を添え、折り返したら今度は逆の順番で押さえることで一巡する。同じ動作を繰り返すことで互いの意思疎通を図るとともに、間違った動作をしたほうが負けという規則があるらしい。

 やり方が分からなかったので、スクネちゃんに一度やっているところを見せてもらった。


「どう? わかった?」

「うん。なんと、なく、だけど」

「じゃあ、はやくやろうよ。いい? せーのではじまるんだよ」

「せーの、だね。分かった」

「いくよ。せーの」



 ……ごーろごーろ おーなかーが なーてるーよ かあさん


 ……はーいはーい もーすこーし まーててーよ ねー



「あれ?」

「おねえちゃんおもしろーい、くちとはながはんたいだよ。スクネのかちー」

「スクネ、ちゃん、もう、一回」

「うん。いいよ」



 ……ごーろごーろ おーなかーが なーてるーよ かあさん


 ……はーいはーい もーすこーし まーててーよ ねー



「あれ? まただ」

「うそー。おねえちゃんへたっぴなんだ。これじゃおもしろくないよ」

「ごめん、ね。もう一回、やろう?」

「うーん。いいよ」


 何度やっても上手くいかなかった。口と鼻がどうしても逆になってしまう。間違えないように集中してやってみても、今度は目と耳が逆になってしまった。


「ごめん、ね。これじゃ、すぐに、終わっちゃう、ね」

「メイにいちゃんはとってもじょうずなんだけどなあ」

「お兄、ちゃんも、これ、できるの?」

「うん。だってこれ、メイにいちゃんがおしえてくれたんだもん」

「スクネ、ちゃん」

「なに?」

「もう一回、お願い」


 この手遊びを通して彼の思いを感じたかった。両親を亡くした少女の寂しさを取り払おうとする彼の心を全身で感じ取りたかった。

 手を動かしている時のスクネちゃんの笑顔が、治ったばかりのこの胸に研ぎ澄まされた刃となって突き刺さってきた。

 彼も見ていたこの笑顔が、彼の望んだ少女の未来だったと思うと、かつて私が浴びせかけた言葉がどれほど下劣で稚拙であったのかを思い知らされた。



 ……私は、なんてことをしてしまったんだ。



「……おねえちゃんどうしたの? おなかがいたいの?」

「ううん。大丈夫。ちょっと、目が、かゆく、なっちゃった、だけ、だから」

「……おねえちゃん、ないてるの? スクネがいじめちゃったから?」

「そう、じゃないよ。でも私、ほんと、下手だね」

「レシュアおねえちゃん」

「どう、したの?」

「スクネ、だっこしてあげる」


 とても小さな身体のとても大きな抱擁だった。どこかを走り回ってきたのか、首の後ろからおてんばな汗の香りがした。

 彼女の無邪気な体温を胸で感じながら、心の奥のどこかで優しい笑い声がしたのを確かに聞いた。

 それは、聞き覚えのある大切な人の声だった。



 ……メイル、やっぱりあなただったんだね。




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