明日を重ねる唄 / for your trace, my dear その1
目が覚めるとそこは医療室の寝台の上だった。
死んだはずの意識があることに疑問を覚えて何度か瞬きをしてみた。どうやら、命令どおりに動くみたいだった。
首を動かしてみた。枕に染み込んだ汗の臭いがした。私に生を分からせようとする異様な不快感があった。頭が少し痛かった。
ゆっくり上半身を起こすと意識はますますはっきりしてきた。
散乱している機械の部品。床を這う無数の黒い紐のようなもの。古びた木製の椅子。そして薬品から発する独特な匂い。
全てが生きていた頃と変わらない光景だった。
なぜ生きているのだろうか。あの時私は間違いなく死を見た。苦しさと儚さが充満する七色の孤独を、この目で確かに見たのだ。
なのに私は、どうしてここにいるのだろうか。
喜びは感じなかった。不安しかなかった。生きていることが罪であるかのように感じた。
早く確かめたかった。誰でもいいからこの場所を否定して欲しかった。あの苦しいだけの世界を夢想しているだけだと教えてくれさえすれば、暗く果てしない淀みの世界に戻れるような気がした。
人を探すために寝台から降りて立ち上がってみた。頭が多少揺れたがその他は問題なさそうだった。
右腕を見ると赤色の長い管がついていた。過去に見たことがあるものだった。信じたくはなかったが管と腕の繋ぎ目に微かな痛みがあった。
不要な情報から咄嗟の回避をしたくて管を引き抜くと、生きていた頃となにも変わらないものが繋ぎ目から垂れた。一番見たくないものだった。
腕についていた管の反対側の先に置かれていた大きな機械が耳障りな音を出していた。荒々しく鳴り響くそれは警告を発しているようだった。
私は生きている。認めてしまうのが怖かった。
なにもかもを失ったこの世界に希望なんてものは一欠片も残されていない。待ち受けているものは周囲の幸福を眺めながら味わう孤独だけだった。なのに私は、まだこんなところに立っている。
機械から発せられるけたたましい警告音が、自分を非難しているみたいだった。
……お前はなぜ死ななかったのか?
……なぜ周囲の期待を裏切ったのか?
そのとおりだと思った。もう誰も裏切りたくなかった。
あの時の激しい胸の痛みをもう一度起こせば、気づかれることなくまた眠りにつくことができる。それがみんなのためになり、自分のためになるのだ。
……。
不思議な感覚だった。身体の中身が全然違うものになってしまったかのような、奇妙ななにかを感じた。心音に明らかな異常が見られる。やけに穏やかなのだ。
私は本当にかつての自分なのだろうか。それともかつての自分が今日まで嫌な夢を見ていたのだろうか。
捨ててきた記憶を頼りに事実を復元してみる。どこかに夢らしき出来事がなかっただろうか。
一つだけあった。それは『彼』が残した言葉だった。最後に意識を失う寸前に彼は確かにあの名前を呟いたのだ。
ずっと聞きたかった『彼だけの名前』を最後の記憶に刻めたことはまさに夢だった。あれだけは、忘れたくても忘れられなかった。
……。
やはりあの時までの自分は夢を見ていたのだろうか。幼い頃の思い出が叶わない現実を見せてくれていたとでもいうのだろうか。
だとすると、今ここにいるのは誰なのだろうか。どうしてこんなところで寝ていたのだろうか。
頭の痛みが強くなる。過去を追いかければ追いかけた分だけ痛みが増していく。
立っていることが辛くなって首を下に折り曲げると、視線の先の床が真っ赤に染まっていた。右腕の管を抜いたところから漏れていたらしかった。
反射的に左手を傷口に当てた。自分でもなにをしているのか理解できなかった。
左手の指の隙間からはみ出したものが右腕を湿らせる。強く抑えると抵抗の脈が全身を一周した。
警告音の中を割って入るように医療室の扉が開く音がした。人の気配を感じつつも意識が朦朧としていたので、そちらに気を向けている余裕はなかった。
「レシュア!? どうしたのそれ! ちょっと、見せなさい!」
レインの声だった。彼女は重々しい足音を立ててこちらに近寄ると、赤く濡れた右腕を手にとってアイテルを放出した。どういうわけか右腕の出血はすぐに治まってしまった。
「驚かせてごめんなさい。気分はどう? なんならもう少し寝ておく? とりあえずシンクを呼ぶわ。血が抜けて辛いでしょ?」
なんでもいいから喋ろうと喉に力を入れてみたが声は出なかった。原因は分からない。無理して出そうと思ってもかすれた空気が出てくるだけだった。
この様子を見たレインは即座に察してくれた。声を出せなくても意思表示はできるから、やって欲しいことがあればいつでも教えるようにと言われたので、私は風呂に入りたいと伝えた。
断られるかと思ったが意外にも明るい返事が返ってきた。
レインと洗浄場に行くのは久しぶりだった。風呂の入り方を覚えてからはアイテルを使えない私でも一人で行けるようになっていたので、それ以来ということになる。
服を脱ぐ時はいつも距離をとるようにしていた。彼女の『足』を外した後のアイテルによる浮遊を邪魔しないためだった。
着ているものを全て脱いだ時のレインには両足がなかった。厳密に言うと足首から先が切り落とされたみたいになくなっていた。どうしてそうなってしまったのかは分からない。本人に聞いても教えてはくれなかった。
私が一番見たいと思っていた仮面の中身は、恥ずかしいという理由からいつも確認することはできなかった。
「今日は一緒にいられそうね。身体、洗ってあげる」
彼女はそう言って私に近づいてきた。
右腕の止血……さっきから疑問だった。なぜ私にアイテルが効くのか。不思議に感じていたので質問してみると、レインは湯船の中で説明してくれた。
原因ははっきりしていないが、私の寝ている間にそれができるようになったのだという。心臓の治療をしていたシンクライダーが最初に気づいたのだそうだ。
アイテルが効くということはアンチアイテルが消えたということになる。もとに戻るかどうかは分からないらしい。
「レシュア、生まれて初めてのアイテル、使ってみたら?」
いきなり使えるかどうか不安だった。レインはなんてことないと言いたげに髪を洗っていた。実際にできたことのない自分には納得できない言葉だった。
両手に集めたシャットアイテルを恐る恐る湯船のお湯にかざしてみた。お湯を少しだけ浮かせる様子を頭に思い描く……。
湯船の底に溜まるお湯が小刻みに揺れる。
次の瞬間、物凄い音と水圧が全身を包み込んで、それが空中に弾けた。
「あらあら、やってくれるじゃないの。ほんとにこれがはじめて? すごいじゃない!」
洗浄場を出て医療室に戻っても不思議な感覚が続いていた。自分ではないみたいだった。レインがいなければとっくにおかしくなっていた。
たった二日が過ぎただけでこんなに人は変われるのだろうか。心臓を治したとのことだったが、シンクライダーは私になにをしたのだろうか。レインに聞いてもはぐらかされるだけだった。
私に輸血したものについてもそうだった。世界に二人といない特殊な血を持つ私に誰の血が適合したのだろうか。考えれば考えるほど混乱していくばかりだった。
シンクライダーとロルは私の回復をとても喜んでいた。ロルは目に涙を溜めて自身が犯したことを未だに悔やんでいるようだった。大丈夫だという気持ちを笑顔で表現するとロルはとうとう泣き出してしまった。シンクライダーも悲しみを含んだ笑窪を作っていた。
そこにいるみんなが生きている私を見ていた。これほど喜ばれた経験は今までなかったかもしれない。誰かに必要とされる以前に、ただそこにいてくれることを純粋に求めてくれたことはなによりの救いだった。
晴れやかな気持ちだった。今までの苦痛が嘘だったみたいに目に映るもの全てが輝いていた。生きていることを本当に嬉しく思ったのはあの頃以来だった……。
なにかが変わってしまったとしても、ここにあるものはかつて求めていた世界そのものだった。
医療室に集まった面々とありふれた話をしていると、ふと気になることが頭に浮かんだ。ここにいない人達のことだった。
レインを近くに呼んでそのことを聞いてみた。
「ヴェインは今スウンエアに行っているわ。応援を頼まれたのよ」
それだけだった。もっと詳しく聞きたかったが追々話すからとそれ以上のことは教えてくれなかった。
……まだいたはずなのでさらに聞いてみた。
「キャジュは、メイルのところにいると思うわ」
意味ありげな回答だった。深く聞くべきかどうかを躊躇してしまいそうな、そんな声色だった。
私には言いたくない、もしくは言えないことがある。そんな意味合いを含んでいるような気がした。分かったふりをして笑顔で頷くと、気まずい相槌が少し遅れて返ってきた。
「……しかしメシアスさんも水臭いですよね。あんなにすごい身体を持っておきながらずっと黙っていたんですから。もっと早くに言ってくれれば俺もちょっかいは出さなかったんですけどね」
ロルの発言に続く人はいなかった。それと引き換えに冷たい空気にも似た異様な雰囲気が医療室を覆った。これは過去の経験からして、ロルが余計なことを口走った時に起こる現象と等しかった。
メイルがすごい身体を持っている。初耳だった。私は意図的に避けようとするレインに身体がつきそうなくらいまで寄って問い詰めた。彼女は回答を避けたがっている様子だった。
「ごめんなさい。今は話さないほうがいいと思うの。お願い。分かって」
納得できなかった。ならば直接会って話がしたいと伝えてみた。
「どうしてもそうしたいというのならば、いいわ。行ってきなさい。キャジュだったらきっと、出てきてくれると思うでしょうから」
レインの言葉を最後まで聞かずに医療室を出た。後ろから発せられる気遣いの言葉は聞こえなかった。
右腕の傷は自分のアイテルで治せることが分かったので一人になっても問題はなかった。むしろそんなことよりももっと大きな問題が心にわだかまっているような気がした。
二人が同じところにいる。そういう単純な嫉妬ではなかった。近くにあったものが雲の上のさらに上まで遠ざかってしまったような、そんな喪失感と焦燥感だった。
自分がここにいる意味があの倉庫の中にあるのだとしたら、この目でしっかり確かめておきたかった。それが私に絶望の一つを与えたとしても、それでも感謝しようと思った。
私を生かしてくれたこと。それが同情によるものであっても受け取る気持ちは変わらない。手の届かない場所に行ってしまう前にそれだけは伝えておきたかった。
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