思い出の色 / echo the fait(h)
とても暖かい朝だった。
部屋から差し込む眩しい光が悠久の別世界を私に見せているようだった。
それは、鮮明な記憶だった。
「おはようございます、レシュア様。今日は珍しく早い起床でしたね」
アザミさんの快活な声が部屋に響き渡り、一日がはじまる。
まだ八歳だった頃の私は、永遠に続くだろう生活を心から楽しんでいた。
女王も姉も妹もみんなが笑顔で、私も笑顔だった。
誰よりも幸せに浸っていただろうし、誰よりもその大切さを理解していた。
初めて本当の笑顔を知ったあの日。あの頃が一番楽しかった。
その日は、とても暖かい朝だった。
朝食を軽く摂り着慣らした運動着姿になって部屋を出ると、ルウスおじさまが部屋の外で待っていてくれた。二人で『遠足』に行くためだった。
アザミさんから昼食を受け取る際に念入りな忠告をされる。それとなく聞き流しながらおじさまへいろいろな質問をしていると、二人とも困った顔をして、遊びに行くのではありませんと釘を刺してきた。
アイテルを使えない私のために、自然の怖さを知ってもらおうと女王とおじさまが考えた教育の一つとして考えたのがこの日の外出だった。将来の困難を生き抜くための大切な授業だったのだが、その頃の自分にとっては誰がなんと言おうと楽しい遠足だった。
「それじゃ、行ってきます!」
「ルウス様の言うことをちゃんと聞いてくださいね」
正門からではなく軍兵宿舎側の裏口から外に出ることを聞いた時、古い冒険の本に出てくる主人公と自分が重なった気持ちになって心が躍った。
春を少し過ぎた森の中は新緑の瑞々しい香りがした。世界がどんなに変わっても、これらの命は星が生き続ける限り尽きることはないとおじさまは教えてくれた。
優しさが生きる強さの源なのだと、言葉ではないなにかで感じていた。
「レシュア様」
「なに?」
「もしこの自然を壊そうとする者がいきなり現れたら、あなたはどうしますか?」
「みんなに相談する」
「ははは、そうですよね。では質問を少し変えます。もし自然を壊そうとする者があなたの前にいきなり現れたら、どうしますか?」
「どうしてそういうことをするんですかって言う」
「その人達はレシュア様の言葉が分かりません」
「ずるい」
「ずるくないですよ。この星にそんなことをする人は今もこれからもいません。つまり、この星の人ではないということです」
「じゃあ、どうやって話し合えばいいの?」
「ははは、レシュア様、それこそずるいですよ」
この時はまだ真意を掴めていなかった。力がなくても強い気持ちさえあればなにがあっても乗り越えられると信じていた。
ルウスおじさまはこの時点でまだ迷っていたのだろう。
これから起こることをきっかけに私を強くしようと考えたのではないだろうか。そして、彼の気持ちに共鳴して私も変わろうと思い立ったのではないのだろうか。
『あの』事件が起きたのは森を散策している時だった。おじさまに並んで草むらを歩いていると急に金属が鋭く擦れる音がして、私の左足になにかが突き刺さったのだ。
甲高い声を上げて痛みを訴えると、おじさまが手早くそれを外した。
「罠か。なぜこのような所に。ん!? 誰だ!」
「……それはこっちの台詞だ。あんたらこそなにもんだ」
森の影から現れたのは一人の少年だった。その頃はまだ十歳だった。
メイルと名乗った。彼は私の足の傷を見て、すぐに解毒しないと大変だから家に行こうと言ってきた。おじさまは彼の必死の表情を読み取ったのかその提案を受け入れた。
少年の家に向かう道中でおじさまは毒のことをしきりに尋ねたが、メイルは手製の毒だから自分にしか治せないと答えるだけだった。
彼の自宅は地上に建ててあった。小さな三角の屋根をした古めかしい平屋で、中に入ると木でできた寝床と小さな机しかなかった。
「知らない客を奥に連れて行きたくないけど、そうしたほうが手っ取り早いから今日だけは特別だぞ」
床に張りついていた木の板をメイルが滑らせると下りの階段が出てきた。
私を負ぶったおじさまは少年にうながされて後を追った。
「これはこれは珍しい。客人かの」
地下に降りると腰を曲げた老人が農作物を保存するための下処理をしていた。
「ああこれ、うちの爺ちゃん。……なあゲンマル爺ちゃん、この子罠にかかっちまった。毒抜きすっから爺ちゃんは消毒の準備しといて」
罠にかかった左足は金属の棒に強く挟まれていただけで痛みは治まっていた。足の甲には小さな針のようなものが刺さっていたが、出血も無くて平気だった。
でもルウスおじさまはこの時相当慌てていたらしい。私は床に降ろされたあともずっとメイル少年の行動を見ていたので、青ざめているおじさまの顔を拝むことはなかった。
少年は密閉型の小さな透明の容器をどこかから引っ張り出してきてゲンマルお爺様が持ってきた消毒液を傍らに置くと、素手で力任せに針を抜いた。
「うっ」
「わりい。痛いだろうが我慢してくれ。こういうのは時間との勝負だから」
解毒はものの数分で終わった。
塗り薬を傷口に擦りつけて綺麗な布で巻きつける。それだけだった。
おじさまは訝かしんですぐに城へ帰りたがったが、少年は完全に解毒するまで定期的に薬を塗ったほうがいいと主張した。ゲンマルお爺様もそのほうが安全だろうというようなことを話すと、おじさまも観念したらしく、ではその薬を少し分けて欲しいと言った。
「駄目だね。これあげちゃったら罠の意味がなくなっちゃうじゃんかよ。帰りたいならおじさん一人で帰りなよ」
結局メイルの家に泊まることになった。早ければ明日の夕方には完全に解毒できるというのでルウスおじさまも渋々了承した。
私はこの上なく喜んだ。城の人ではない人間と同じ空間で時間を共有できることに興奮を覚えたのだ。その日の夜は未知の経験も立派な授業だと言い聞かせてしっかり楽しもうと思った。
メイル少年は決して綺麗とは言えない容姿だった。ぼろぼろに破れた布を身に纏い、顔に黒い土をつけて、裸足で、不揃いな坊主頭だった。
城を出なければこんな人に出会うことはなかっただろう。そんな彼が私の目の前で鼻を啜りながらにこにこと笑いかけてくる……。
知らない男の人に初めて足を触られた瞬間、妙な感覚が全身を駆け巡った……。
全てが新鮮で全てが衝撃だった。
地上に人が生きていることはアザミさんから聞いていた。でもそうではなかった。彼は本当に生きていて、この星と生きていて、普通の人には見えていないなにかを見ていた。
小さな私は、そんな彼が持つ秘密を本気で知りたいと思った。
夜が明けて目を覚ました私は、これから外に出るという彼の後をついていった。
どこまでも続いている緑の大地が、城からでは聞こえない自然の声をさらさらと発する。私はその景色にとてつもなく大きな星の命を感じた。
彼とは草原に生い茂る草の話や近くを流れる川の話や森に聳え立つ木の話などをした。木の登り方を教わって二人で太い枝に寄りかかってこの世界の話なんかもたくさんした。
これも、鮮明に記憶している。
「……人間はどうしてこの星に生まれてきたんだろう。メイルは知ってる?」
「知らないね。知りたくもないね。そんなことを言うんならこの星があることだって不思議なもんさ。世の中なんてほとんど意味の分からねえもんでできてるんだよ。不思議が何回も重なってそれが俺達の知らねえ昔からずうっと繰り返されて、その途中でたまたま俺達みたいなのが生まれて、まあそんなもんだ」
「そうなのかなあ。意味がないなんてことはないと思う。なにかを感じることはない? 例えばアイテルから響いてくる宇宙の声、みたいなの」
「お前、難しい言葉使うのな」
「お前じゃない。マーマロッテ」
マーマロッテとは『遠足』で使用を許されている私の名前だった。
王族は基本的に城の外を出てはいけない決まりになっている。あの日は女王の特別許可をもらっての外出だったので、地上の人間に素性を知られないように別名を名乗っていたのだった。
「お、おう。んじゃ、マーマロッテ。言っとくけど俺、アイテル使えねえから。そういうの分かんねえんだ」
「え? 嘘でしょ?」
「本当だって。嘘をつくならそんなことわざわざ言わねえって」
「もしかして、アンチ、アイテル?」
「なんだそれ。全然美味くなさそうだな」
アイテルを使えない人間が地上で生活していることなどありえない話だった。ならば彼も私と同じように無効化の能力を持っているのだろうかと思った。
でもそれは絶対にありえないことだった。地上の人間に私のような能力を持っている者などいるわけがないのだから。
やはり彼は嘘をついているのだろうか……。
真実は分からなかった。だが少年の瞳は、純粋な輝きで私の目を見ていた。
温まりはじめたせっかくの仲を不必要な真実の追求で壊したくなかった私は、彼の言葉をそのまま信じることにした。
「ねえメイル」
「なんだ」
「その首にかけているもの、なあに?」
「ああこれか? これは自分で作ったお守りだ」
それは青く光る小さな石が吊るされた綺麗な『首飾り』だった。
じっと見ていると、その美しい輝きに意識が吸い込まれそうになった。
「ねえ、それちょうだい」
「なんでだよ。これは俺の大事な宝物だぞ。絶対にやらねえよ」
「へん。けちんぼなんだ」
「勝手に言ってろ」
「……ねえねえ、メイル」
「今度はなんだよ」
「メイルはさ、地球のこと、好き?」
少年は無邪気な笑みを浮かべながら眉をひそめた。
「変な質問だな。嫌いじゃねえよ。地球がなけりゃ今こうして生きていられないだろ。家族みたいなもんさ」
「愛してる、の?」
「お前、馬鹿なのか? んなわけねえだろ。そういうんじゃねえって」
「もしもね、この星を壊してしまう人がメイルの目の前に出てきたら、どうすると思う?」
「怒るだろうね」
「それでもやめなかったら?」
「殴ってみる。そんで勝てなさそうだったら逃げるよ。死ぬのはやだからな」
「この木もさっき見た広い草原も全部、駄目になっちゃうよ」
「しょうがねえし。弱いもんが強いもんに勝てないのは仕方のねえことだ。それが自然ってやつだ。俺達を守ってるのはその自然なんだ。自然より強いやつが出てきたのなら諦めるしかねえ」
「ふーん、そうだよね」
「ああ、そういうもんだ」
彼の答えの意味をあの時は理解できなかった。ぼんやりとした羨望だけで接していたので、初めて会った兄のようにしか見ていなかったのだ。
……それほどに、当時の彼は眩しい存在だった。
地上に降りて一旦家に帰ると言うメイルの後ろにくっついていると、私達を監視していたルウスおじさまのもとに捜索していた軍兵が安堵した様子で近づいてきた。
夢から覚める未来を直感的に感じ取った私は、メイルに気づいてもらえるようにわざとらしく泣いた。不安でいっぱいの表情になって身体の痛い箇所を確かめる彼を無視して泣き続けた。
次第に本当の悲しみが押し寄せてきて感情が抑えきれなくなると、素直になれない自分に耐え切れなくなって顔を両手で隠した。
不思議な気分だった。
大切な兄を胸の中心から引き剥がされたような感覚だった。
もう二度と会えないかもしれない。本能が私の隣で必死に叫んでいた。
……せっかく見つけたというのに。やっと出会えたというのに……。
「……レイン」
「なに」
「お目覚めのようだぜ」
顔を上げるとヴェインの虚ろな横顔が映っていた。
「降ろしてよろしいですか? お姫様」
私を抱きかかえていたヴェインはこちらの返答を待たずにそっと立たせた。
見渡すと辺り一帯に野原が広がっている。
二人の後ろで照りつける日光が目に刺さり、眼球の奥がズキズキと痛んだ。
「ここは」
「見ての通りよ。地下都市から約二キロメートルってところかしら。顔色少し直ったみたいね。一人で歩けそう?」
「たぶん」
「無愛想な返事。信用されてないって結構辛いのよね。まあ、若いってことで今日のところは許してあげるわ」
「ゼメロムは、地下都市はどうなったんですか?」
「なに焦っているのよ。会話もまともにできないの?」
「……そろそろ、時間だな」
「……あら、そうみたいね」
彼らが振り向く方向を目で追う。
遥か前方の地面がゆらゆらと照り輝いて地上を映し出していた。
黙って眺めている二人に倣って見ていると……ゆっくりと地面が盛り上がって、直後に白い光と砂煙が弾けるように噴き出した。
遅れて鼓膜が破れそうなほどの強烈な爆発音が鳴り響く。
その直後に地面が揺れて、真正面から砂粒を含んだ暴風が吹いた。
二人は私を庇うように覆い被さって、時折目を瞑りながら強風を受けていた。
なにが起こったのか分からずに混乱していると、女性のほうがぽつりと呟いた。
「あれが、ゼメロムよ」
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次回はメイル視点の場面となります。