感嘆は混沌の渦を巻いて / lead me from nothing その1
愛するものを守るための犠牲は、時として悲しい結末を呼んだ。
人の心を翻弄する運命は、現実という過酷な空間に無慈悲の回答を提示し、素知らぬ顔で通り過ぎてしまう。それが最高の結果だったのか、最低の結果だったのかを告げることはしない。
残された私達は先の見えない未来に向かってもがき苦しみながら答え合わせをする。正解に辿り着かないかもしれない。正解そのものがないのかもしれない。
それでも人は歩み続ける。生きている限り、現実に置かれている限り、いつか光が差し込む日が来るのを信じてそれをやめない。
彼らがそうであるように、私にももがき苦しむものがあった。
そのことを思い出すと勝手に涙が流れた。長く生きれば生きるほど切なさは増大していき、不安が胸を詰まらせる。彼らの姿を見るとあの頃のことを思い出してしまい、いつも泣いていた。
『仮面』をつけている理由の一つがそれだった。私はとても泣き虫なのだ。
自分でも手がつけられないほどにもろく、軟弱だった。仲間達を牽引する立場がそんなことでは示しがつかないと思い、強い女でいるための顔を上に被せていたのだ。
彼らの施術を終えた静まり返る医療室の中で私は泣いていた。シンクが差し入れた黒い液体がすっかり冷めてしまった後も、ずっと一人で泣き続けた。
二人が命を落とさなかったことに安堵している自分も確かにある。けれどこの涙はそういうものではなかった。
彼の、メイルの生き様に対する哀れみと感謝の涙だった。
彼にはどんな薬物を投与しても効果がなかった。万能の身体はシンクが準備した睡眠剤や痛み止めをことごとく跳ね返したのである。その結果彼は口と目と耳を封じ、全身を寝台に縛りつけるという手段を選んだ。
メイルの施術を担当したキャジュは、これから起こることを直感で理解し泣き崩れた。私は彼の止血をすることになっていたので近くにいるキャジュをなんとか説得してはじめることになった。
自分の心臓をもぎ取られる感覚を私は知らない。彼はその痛みを私達に教えてくれた。それは壮絶というより狂気だった。彼に、目も見えないようにしろと言われた意味を理解した時、自分の弱さが爆発しそうになった。
施術がはじまると彼を乗せた寝台が小刻みに飛び跳ねた。いくら頼まれてやっていることだとしても、必死で押さえつけている自分が残虐であるように思えた。
封じられた口からわずかに漏れる咆哮を近くで聞いていたキャジュは、自分にだけは負けまいと毅然たる姿勢で手を動かし続けた。発狂しそうな精神を奥歯で押さえつけるような彼女の形相が今でも頭を離れない。
メイルの心臓と引き換えに埋め込まれたのはカウザの機械の部品だった。循環器として応用可能のそれを彼の血管と結びつけることで、恒久的な心臓としての役割を果たすのだそうだ。
メイルの心臓を受け取ったシンクはすぐにレシュアの施術を開始した。アイテルによる止血ができない問題については、メイルの血液を随時注入することで解決できた。
シンクのほうは取り乱す様子もなくむしろ異常なくらいに冷静だった。のちに聞いた話だと、メイルの心臓はまるでそれ単体が生きているかのような動きを見せてレシュアの胸の中で勝手に納まったらしい。『自分』に必要な血管を探してそれを見つけると吸い寄せてくっつけてしまったのだという。
シンクはその出来事を『あそこに彼を見た気がする』と表現した。シンクの発言がもしそのとおりだとしたら、きっと彼はレシュアの胸の中にいるのだろうと信じたかった……。
不思議なことがもう一つ起きた。レシュアの周囲からアンチアイテルが消えたのである。メイルの心臓がそうさせたのか、レシュアが弱っていただけなのかは未だにはっきりしていない。いち早く気づいたシンクはレシュアにアイテル止血を施してみた。効果はすぐに現れた。
彼女の胸に傷を作らせまいとする彼の意思が働いたのだと思った。その後レシュアの身体はみるみるうちに回復し今も穏やかな寝息を立てている。彼の思い描いた未来が見事に結実したのであった。
キャジュはメイルの施術が終わってからもずっと取り乱していた。彼の身体は超人的な回復力で大きく開かれたものをあっという間に塞ぎ、一見すると成功したかのように見えた。ところがキャジュにはそう感じなかった。傷がなくなったことで痛みを感じなくなったであろうメイルの様子がおかしいと言い出したのだ。
口、目、耳を封じていた布を取り除いて彼に直接身体の状態を尋ねたが、一向に反応を示さなかった。目は開いているし呼吸もしている。顔色も悪くない。それなのに彼はキャジュの問いかけを無視して虚空を眺めるばかりだった。
私が声をかけても反応は一緒だった。再度全身をくまなく調べて異常のないことが分かると、まるで抜け殻のように静止した彼を見つめていたキャジュがとうとう正気を失ってしまった。
顔を近づけて何度も彼の名を叫び、塞がったばかりの胸を揺らし、頬を叩き、首元に顔をうずめて泣き叫んだ。命を捨てる覚悟でその身を犠牲にした男を守れなかった彼女の悔しさが痛いほど伝わってきた。
彼がいなくなる……。
そのことを思うと寂しい気持ちが波のような勢いで押し寄せてきて、仮面の中がしゃくり上げた。
医療室内に悲しみの声が響いて数分後、キャジュはなにかに気づいたような顔をして急に泣き止んだ。彼の口元に耳を近づけてなにかを聞こうとしているみたいだった。
私にも聞こえた。彼はなにかを言っているようだった。
キャジュは激しい口調でもっと大きな声を出すように要求した。
そして、彼は言葉を口にした。
「……お……の…………か……」
「なんだ! もう一度言ってくれ!」
「……おれ……ん……せ……」
「ほら、もう少しだ! 頑張れ!!」
「……おれの、」
「俺の、なんなんだ!!」
「……おれの、しんぞうを、かえせ……」
「え?」
「おれのおおおおお!! しんぞうおおおおお!! かえせえええええ!!」
「……メ、メイ、ル?」
「おれのしんぞう。かえせ。しんぞうおれのだそれはおれのだはやくかえせすぐにかえせよおまえがもってるのかだったらすぐにかえせよそれはおれのしんぞうだはやくしろそれはおれのものだいいからはやくしんぞうをよこせはやくしろ!!」
突然暴れ出したメイルからキャジュを強引に引き剥がした。対応が早かったので彼女に怪我はなかった。
そこにいる誰もが彼の言葉に混乱した。なにが起きているのか、どんな事実を飲み込めばいいのか、この私でも理解することはできなかった。
冗談ではないようだった。彼の行動が本心からのものであることを認めれば認めるほど、嘘であって欲しいと願わずにはいられなかった。
キャジュは悲しみを通り越したなにかを全身の震えで訴えていた。人間の理性が崩壊した目で睨みつけるメイルを見ていられなくなったのか、私の胸に顔うずめてまた泣いた。
この状況を収拾するための方法が思い浮かばなかったのでシンクに相談してみると、おそらく拒絶反応の一種だろうからしばらく様子を観察してみようという答えが返ってきた。さらにシンクは、レシュアと場所を離しておいたほうが健全だろうという提案を出した。私もそれに賛成した。
まず彼にもう一度口と目と耳を封じる処理を施した。そして身体に異常がないことをあらためて確認し、彼の住居に移してひとまず経過を見守ることになった。
私とキャジュで倉庫へ寝台を移動している途中で、キャジュがいきなり彼の身の回りの世話をすると言い出した。あの精神状態の彼をしっかり管理できるか分からなかったので一度断ったが、どうやら彼女の意志は固いらしく、彼の胸の機械を点検できるのは自分だけだからとあれこれ言われて押し通されてしまった。
それとスクネの件についてもキャジュのほうでうまく対応するということなので、彼女以外の人間を立ち入らせないようにしてくれとも頼まれた。さすがにそれは受け入れられなかったので、私だけはいつでも入室できるようにと渋々了承させた。
そして私は今、冷めた黒い液体の横でさめざめと泣いていたのであった。
「……レインさん。あなたらしくないですよ」
「ほっといてよ。いいじゃない、泣いたって」
「気持ちは分かります。ですが、そろそろ来る時間だと思いますので、一応、その報告です」
「この期に及んで気丈に接しろというのね。ほんと、鬼だわ」
「まさか、メシアス君のこと話すつもりなんですか?」
「話してしまったら都合が悪いことでもあるの? 私は全くないけれど」
「駄目ですよ。レシュアさんの耳に入るようなことだけはなんとしてでも避けないといけません」
「第三要塞、叩くのだったわね。いろいろありすぎて忘れちゃってたわ。そうね、あれにはレシュアを連れて行けなくなったのよね。……そうだ! シンク、あなたが参加しなさいよ」
「どさくさ紛れになに言い出すんですか。やめてくださいよ。僕には荷が重すぎますって」
「あら、だって最近新しい武器作ったじゃない。それ持っていけばなんとかなるわよ。いいわ、私からも推薦しておくから。じゃあ、そういうことでよろしく」
「簡単に決めないでくださいよ。僕がここを抜けたら誰が彼らのことを見るんですか。今が一番慎重な時期なんですよ」
「だったら襲撃の予定を変えればいいだけのことよ。私だっておいそれとあちこち振り回されたくはないわ。……そうね、少しお休みをいただきたいわ。どうかしら?」
「ほんと、あなたには勝てませんよ。分かりました。行きますよ。頑張らせてもらいますよ。でもですね、お休みは無理ですから。これだけははっきり言わせてもらいます」
「ふーん。つまんないの」
「あなたは駄々っ子ですか。もう、お願いしますよ」
「だって、シンクが私のこと、らしくないなんて言うんだもん」
「甘えたってお休みはありませんからね」
「はいはい。分かりましたよーだ」
「……やっとあなたらしくなりましたね。少し元気になりましたか?」
「ああ、あー。このやろう私を騙したなー。酷いやつだなー」
「あなたのためを思ってのことです。それと、お客様はすぐそこまで来ていますので、お願いですからその口調だけは直しておいてくださいね」
「はーい」
シンクの気配りがなかったら今も泣いていたと思う。それほどに自分は弱い人間だった。
……この『時代』人達は本当に強い。
今日はそんなことを実感させられる日になりそうだった。
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