つつましき慈愛 / a confession booth その2
唇の感触を残したままだとなんだか申し訳ない気がしたので、気持ちを一旦落ち着かせることにした。
……。
キャジュのことも真面目に考えてやりたかった。でも今は自分の気持ちに正直でありたいと思っていたので、あの人のことだけに集中した。
呼吸の乱れがだいぶ安定してきた頃合いを見計らって、俺はやるべき作業を開始した。
製造区域でもらってきた大きな型紙を食卓に広げて小さく切り取る。あまり時間が残されていないので適当に切ってもよかったが、自分のためのものではないのでやはり丁寧に仕上げようと思い、直線の綺麗な四角に切り出した。
レシュアのことを思った。過去のこと、少し前のこと、そして今のことを考えながらゆっくり、慎重に筆記具を走らせた。
納得がいくまで何度かやり直し、とうとう出来上がったところで来客があった。
「ちょっと、いいかしら?」
レインだった。時刻は施術を開始する予定の一時間前を指していた。
ここへは洗浄場の帰りに寄ったみたいで髪の毛がまだ乾ききっていなかった。女物の寝間着姿に義足と仮面は不自然に映ったが、見慣れてしまったせいかどことなく可愛らしくも映った。
「シンクから、聞いているよな?」
「ええ、もちろん。だから来たのよ。あなたと話がしたくてね」
「予定の時間がそろそろなんだが」
「八時でしょ。そのことなんだけれど、今回も参加することになったから、よろしくね」
「アイテル止血係ってやつだな」
「私があなたを連れて行くことになっているから、話が長引いた場合は開始を先送りしてもらうようにお願いしているわ」
「あんたとそんなに長い話をしなくちゃならないのか。施術前から気が滅入りそうだ」
「まあまあ、そんなこと言わずにさ、楽に語り合いましょうよ」
「はあ」
入り口側の壁に凭れるように座り込んだレインは、義足の重みから解放されたように足を広げて俺を寝台の上に座るよう促した。
首にかかった体拭き用の布を頭にかけてくしゃくしゃと掻き回すのを黙って見ていると、彼女の話は突然はじまった。
「移植の件だけれど、どうしてそうしようと思ったの?」
「そんなの、レシュアを助けるために決まってるだろ。他に理由があるのかよ」
「だってあなた、死んでしまうかもしれないのよ。それでもいいの?」
「ああ」
「レシュアはきっと悲しむわ。私だって、そうよ」
「今さらなにを言っているんだ。俺をここに置いたのはあんただろうが」
「分かっているわ。でも、あなたを呼んだのはそこまでのことをさせるためじゃなかった。孤独に生きるあの子の心の支えになって欲しかったのよ」
「だからなるって言ってんだろ。あいつの壊れかけている『心』を本当に支える時が来たんだ。それだけのことだ。なにも戦っているのはあんた達だけじゃない。俺にだって命を懸けて戦うものがある。……正直に言うが、ずっとあんた達に後ろめたさを感じていた。自分だけが戦争から離れて生きていると思われているんじゃないかって。だから、実はほっとしているんだ。やっと同じ位置に立てる、胸を張って生きていけるってな」
「言ってくれるじゃないの。まあ、あなたのことをそんな風に見ているのはロルだけだと思うけれど」
「そいつ一人で十分堪えていたさ」
仮面の奥からけたけたと笑い声が出てきた。たぶんこの人の頭の中にも天才ロルの不敵な笑みが浮かんだのだろう。相当可笑しかったのか膝を叩いて喜んでいる。
喜劇の天才でもあるロルをしばらく堪能した後、気持ちをもとの場所に戻すように沈黙して、レインは続けた。
「あなたにも辛い思いをさせてしまったわね。配慮が足りなかったわ。今になって言うのは変かもしれないけれど、これからは気をつけるわ。ごめんなさい」
「その必要はもうないだろ。俺もしっかり足跡を残すのだし、結果が出たら誰も文句は言わないだろう。とにかくな、今は前だけを向いていよう。俺のことはレシュアを救ってから考えればいい。綺麗事に聞こえるかもしれないが、一番はあいつの人生を終わらせないことだ」
「……ありがとう、メイル」
「気にするな。で、話はそれだけか?」
「あ、そうだったわね。忘れるところだったわ。実はねメイル、今日はあなたに聞いて欲しいことがあるの」
「どうした、恋の悩みか?」
「全く違うとは言い切れないわね。でも、そうじゃないわ」
「なんだよ、もったいぶるな、言えよ」
「今日あなたに聞いて欲しいのはね、先代女王のことよ」
薄暗い部屋の明かりに照らされたレインの仮面に、一瞬だけ美しい女の顔が見えたような気がした。誰の顔かも分からないその相貌をレインの本当の顔のように思ってしまい、そこから滲み出てくる表情に哀愁みたいなものを感じてしまった。
彼女から思い込みの素顔が消えると、レインは部屋の温度が高いことを理由に仮面を外したいと言い出した。俺は当然、断った。
今の状況と先代女王の話にどのような関係があるのだろうか。貴重な時間を使ってまで話すのだから、きっと俺にとって重要なことなのだろう。
期待して彼女を見ていると、柄にもない震えた少女みたいな声で、あのね、が漏れてきた。
「……なにも言わずに聞いて頂戴。あなたは先代女王をたぶん一度も見たことがないと思うけれどそれには理由があってね、彼女はとても人見知りな人だったの。自ら進んで女王になったのに、自分は人の上に立つ器ではないからと都市の住民達に顔を見せようとはしなかった。恥ずかしがりやだったのね。面白いでしょ。でね、そんな彼女だけれど、昔好きな人がいたの。初めて出会ったのは今日みたいに大雨が降る日だった。仕事を終えて帰ろうとした彼女はその日雨具を持ってこなかったから、少しでも雨を凌ごうといつもは通らない森の中を走っていた。急いで帰りたかったし近道にもなると思ったのね。でもそこで傷ついた子犬を抱える男の人を見つけてしまったの。その人は今にも凍え死んでしまいそうな子犬を両腕でしっかり温めていた。当時動物専門の医者をしていた彼女は素通りすることができなくて、その人と一緒に職場へ引き返したの。子犬はお腹を空かして衰弱していただけだったから簡単な傷の手当をすればすぐに元気になった。でも今度は男の人のほうがわんわんと泣き出してしまってね、それを見ていた彼女は一瞬でその人のことが好きになってしまったの……」
倉庫の中は穏やかな時の流れに包まれていた。
まるでこの空間だけが世界から切り離されているかのような感覚を覚えた。
「……それから二人は頻繁に会うようになって、自然と恋人同士になった。彼女はその人のことをとても愛してね、相手も彼女のことをとても愛してくれた。でも、運命がいたずらをして二人は離ればなれになった。彼女が愛した人は遠い空の彼方へ行ってしまったの。その当時彼女のお腹には子供が宿っていてね、無事に出産したのだけれど喜びを分かち合う人がいなくてあまり喜ぶことはできなかった。でもその子は愛した人にそっくりな男の子だったから、彼女はいなくなった人の代わりに自分の子供を命懸けで愛することにしたの。それで、すくすくと成長した男の子は、愛する人を失った彼女の悲しみを笑顔に変えてくれた。彼女はとても幸せだった。世界が平和を求めるように彼女も平和を求め、この星を心から愛せるようになったの……」
だからなにが言いたいんだと問い詰めたかったが黙って聞くように言われたのでそのとおりにした。
先代女王の話。……本当にそうなのだろうか。
「……それから長い年月が過ぎて、彼女はこの世界の女王になったの。とても長い年月だった。……そして彼女は年をとりすぎてもいた。産まれた子供は男だったから、城の規則にならって女を産まなければならなかった。でも彼女はかつて愛した人以外の子供を産むつもりはなかった……。そこで悩んだ女王はある決心をした。自分の身体を複製してそれを我が子にしようとしたのよ。初代女王もかつてその方法をとったことがあると昔聞いたことがあった。複製した人間をクローンと呼んでその身体に世界を支配させていた時代があることを知っていた彼女は、この時代に三人のクローンを産んだ。そう、あなたが知っているあの子が、そのクローンの一人なの……」
レシュアは先代女王のクローンだった。
彼女が翳りを見せていたのは、きっとそのことを気にしていたからだろう。
それならそうと、言ってくれればよかったのに……。
「……ここから先の話はとても言いづらいけれど勇気を出して言うわね。それは彼女達三人が生まれる少し前の朝の出来事だった。城のすぐ近くの空を眺めていると正体不明の飛行物体が高速で落ちてきて、女王は急いでその場所に行ったの。そこには古代文明の機械のような物体が地面にめり込んでいて、その中を調べると人間が『二人』入っていた。彼らは私達と同じ言葉を話せて、しかも女王のことも知っていた。もっと話を聞いてみると彼らの機械を傷つけたのは地球に近い宇宙空間から監視している巨大な物体だということが分かった。女王は彼ら男女二人組を秘密裏に城へ招き入れて自分の側近に置いた。具体的な理由は想像に任せるわ。結果を話してしまうと、地球を監視していたものこそが今のカウザだったというわけ。つまりね、その時から戦争が起こることは事前に予想できたことなの……」
……やっぱり、全部知っていたんじゃないか。
……まあ、今さらそんな事実を打ち明けられても、もう遅いが。
「でね、話を戻すわ。クローンとして生まれる子達には戦争に負けない強い身体を持って欲しかった。アイテルというのは身体への浸透具合によって基本的な強さが決まるのだけれど……、たぶん知らないわよね。そういうことなの。特に生まれる前からアイテルに慣れさせておくと高い潜在能力を持つことができると言われていて、女王として生まれる子には必ずそれをさせられるのよね。詳しい方法については説明しても分からないだろうから、まあ、そういうことをするための機械があると思って頂戴。それでね、女王は三人のうちの『ある一人』に普通では考えられない量のアイテルを浸透させてしまった。それは愛情だったのか興味本位だったのか本人も分からなかったらしいわ……。それでね、クローン達は三人とも異なる処置を施されたのでアイテル能力もその性格も別々なものになった。……そして、三姉妹の真ん中にあたるレシュアのアイテル能力だけが不遇の超能力として開花してしまった。異常な量のアイテルを浸透させてしまったせいで、本来見られるはずの能力上昇が振り切れて反対方向に作用してしまったの……」
人類最強の秘密は、事故によって引き起こされたものだった。
これはさすがに気の毒だと思った。
気づいてやれなかった自分を呪ってやりたかった。
「……アンチアイテルはそうして生まれてしまったの。レシュアはアイテルを使えないけれど、潜在的には人類の想像を超える能力を持っている。潜在能力に合わない身体だったから無理が祟ってしまったのかもしれない。反省しているわ。近くで見ていたのにこんなことになるまで気がつけなかったなんて。あなたの血をもらい続ければよくなると思っていた私が愚かだった。本当にごめんなさい。……話はこれで終わり。最後まで聞いてくれてありがとう。あなたがいてくれて、あの子は幸せだったと思う。じゃあ、行きましょうか」
義足を床に突き立てるようにして立ち上がるレインを片手で制止した。
嫌がる様子を見せたが構わず話を続けようと思った。
「レイン、ちょっと待てって。それだけでは納得がいかない」
「……もう全部話したわ。お願い、その手を離して」
「話の中の、レシュアが俺の血をもらい続けるとはどういう意味なんだ? 教えてくれ」
「言葉のとおりよ。私はあなた達が結ばれればそうなるだろうと思ったのよ」
「結ばれる?」
「これ以上、言わせないでよ。あなただってもう大人なんだから、その意味くらい知っているでしょ?」
最後の一言でなんとなく分かった気がした。そのような意図があったのであれば、レシュアと同じ家に入れた理由も説明がつく。
やはり、はじめから仕組まれていたことだったのだ。
「もう一つ聞きたい。十一年前に俺とレシュアを会わせたのもあんた達の計画だったのか?」
「誤解しないで欲しいわ。私達はあなた達を操ろうなんてことは一度も考えたことはないし、してもいないわ」
「じゃあ、どうやって俺の身体のことを知ったんだ。あれは爺さんと俺しか知らないことだったんだぞ」
「あなたのお爺さん、ゲンマルっていうでしょ?」
「そうだが、それがどうしたんだ?」
「……先代女王の名前も、ゲンマルっていうの。『弦間流アシュリ』、それが彼女の本名よ。あとは、分かるわよね?」
なんてことだ。
うちの爺さんが、先代女王のたった一人の、子供だったのか。
「……爺さんが、城と、女王と繋がっていたのか……」
「そうよ。あなたを拾ったのも彼だしあなたを精密検査したのも彼。そして、あなたを育てると言ったのも彼よ。城で育てることも考えたけれど彼が言うことを聞かなくってね。でも結果的に彼の判断が正しかったわ。あなたは素晴らしい人間に成長してくれた。彼にも感謝しきれないわ」
「……俺は、何者なんだ。あんたは知ってるんじゃないのか?」
「残念ながら。あなたは謎の人よ。どうして生まれたのか、どうしてこの星にいるのか。調べてみたけれどなにも分からなかったわ。さあ、もう時間よ。行きましょう」
「待て。これで最後だ。あんたのことを教えてくれ。あんたは、誰なんだ!」
「……それは、秘密よ」
レインの正体。なぜなのか、俺は以前からそこに執着しているような気がする。
この不思議な感覚は、おそらく一つの答えによって導き出されると思っていた。
だが、正体に辿り着くための重要な鍵となる真実はさっきの話で二つに分かれてしまった。
こんな時に試したくはなかったが、今だからこそ後悔しないように事実を整理しておきたかった。
「……あんた、さっきの話に出てきた正体不明の飛行物体に乗っていた人間の一人だったんだろ? そしてもう一人の男こそが、ヴェイン、そうなんだろ?」
レインの動きがぴたりと止まった。
「……想像に、お任せするわ。私はレイン・リリーという名の戦士だから。それ以上の肩書きなんて不要なのよ……」
否定しなかった。それが彼女の答えだった。
優しさだったのだろうか。事実を口にすることはたとえ対象が俺であっても世界にとっては許されないことだ。
おそらくは、レシュアにも秘密にするつもりだろう。
……それならば、俺もこの不器用な『親心』を黙って見守ろうと思った。
「レインらしいな。確かにそのとおりだ。悪かったな、言いづらいことまで言わせてしまって」
「あなたは、いつだってそういう人よ」
「まるで恋人みたいな発言だな。むず痒くて仕方がない」
「あら、知らなかったの? 私これでも一応女子なんだけれど」
「はいはい。承知しておりますとも」
「……嬉しいよ」
「なにが?」
「……あなたみたいな人が、レシュアを選んでくれたことよ」
「あんたらって、ほんと、勝手に盛り上げるの好きだよな」
「真実を言ったまでよ。レシュアは他の誰よりもあなたを信じているし、求めている。前に話したわよね、あの子のことだけは全部信じてあげてって。もうあなたは全部、気づいているんでしょ?」
「……ああ」
子供の頃に交わした約束を十一年も忘れなかった。
どんなに酷い嘘をついたとしても、もう欺くことはできない。
レシュアの胸の苦しみを、解いてやれるのは俺だけだ。
「……あの子のこと、どのくらい好きなの?」
「これからしようとしていることを考えれば馬鹿でも分かるだろ。いちいち言わせるな」
「素直じゃないわね。まあ、いいわ。いざという時にとっておきなさい。緊張しないように練習しておくのよ。失敗なんかしたら一生馬鹿にされるんだから」
「余計なお世話だ。もういい。行くぞ」
「……メイル」
「なんだよ」
「……あなたは一人なんかじゃない。戦うのはみんな一緒だよ。だから、頑張ろうね」
「……分かってる。ありがとうな、レイン」
「よし、行きましょう。仲間が待ってるわ」
「ああ」
倉庫を出る前に完成したばかりの『例のやつ』をレインに手渡した。
面倒な質問をされたくなかったので中身を見るかどうかは本人の意志に任せた。
すぐに見るだろうと予想していたが、彼女は無言でそれを懐の中に入れた。
「俺が目を覚まさなかったらそれをレシュアに渡してくれ。頼んだからな」
「あらそう。じゃあこれ、あとで食べちゃっていいわね」
「なんで食うんだよ!」
「だって、そんなこと絶対にさせないからよ。つまり、これは私が食べても全然問題ないというわけ。分かる?」
「分かるか!」
こうして二人で並んで歩くと、あいつとの思い出が蘇ってくるみたいだった。
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次の話はレシュアでもメイルでもない『ある人物』の視点に変わります。




