朝露と消ゆ言霊 / My Abomination Revive In Anguish その2
少し厄介なことが起きた。いつものように機械兵と戦っている時だった。
『血を吐いた』ところをロルに見られてしまったのだ。
彼は自分の戦況が不利になってくると誰かの近くに移動する癖があった。私の近くに来てはいけないとレインに忠告されていたにも拘らず来てしまったのだ。
咄嗟の判断で機械兵の攻撃を受けたように見せたが、都市に帰った後もロルは怪訝そうな顔をこちらに向けていた。
このまま別れてしまうのが怖かったので、私は二人だけになった時を見計らってロルに話しかけた。
「もしかして、見ていました?」
「……はい」
「もう誰かに話しました?」
「……いいえ。まだです」
「私が誰にも話さないで欲しいと言ったら、あなたはそうしてくれますか?」
「……分からないです。でも気になります。レシュア様、あなたは……」
「お願いします。このことは黙っていてください。私と、あなただけの秘密にしておいてください」
「……一つだけ、聞いてもよろしいですか?」
「内容にもよります。なんでしょう」
「……あれが、初めてでは、ないんですよね?」
「はい」
「……それだけです。俺、黙ってますから、帰ってもいいですか?」
「はい」
居住区域へと消えていくロルの背中はとても小さく映った。あの調子だときっと明日には誰かに言ってしまうだろう。
今日が最後の戦闘になるのなら手を抜かずにもっと本気を出しておけばよかったと後悔した。
ロルが指摘したとおり、血を吐くことは過去に何度も経験していた。
最初の経験はまだ城にいた頃、十八歳の誕生日を迎えた直後の夜だった。いつものように胸が苦しみ出したと思ったら急に喉が詰まる感覚がして咳き込むように少量の血が出てきた。それから夜中になると度々咳き込むようになった。
この都市で暮らすようになってからはほとんど毎晩その症状が出た。おそらく精神的な苦痛が影響していたのだと思う。
彼が夜は別々で寝ると言い出した時、この事実を隠せると分かって内心ではほっとしていた。誰かが側にいてくれたらここまで悪化しなかったかもしれないけれど、彼にだけはこんな自分を見て欲しくなかった。
朝になって彼が戻ってくる時に家の呼び鈴を鳴らすように頼んだのは、血のついた布を水でしっかり洗い流すためだった。
いつかは知られてしまうだろうという心構えはできていた。叱られることの見当もついている。早めに知っていれば治す方法が見つかったかもしれないのに、と説教されるに違いなかった。
そんなことは当然分かっていた。私だって治せるものなら治したい。それが叶わない願いだなんて、自分でも本当は信じたくなかった。
私の血は特別な型式に分類されていた。アイテルが効かない私を治療するには輸血が必要不可欠になる。でもその血はどこにもない。この世界のどこを探しても、この身体を受けつける血など存在しないのだ。
だから、助かる方法なんてもうないのだ。
その時が来るまでは自分を必要としている人のためにこの時間を捧げる。それが人生を終える前の理想の姿そのものだった。
都市に住む人達の笑顔を守り続ける。誰かのためにできることは戦うことのみであり、戦場で果てることが私の本望だった。
……だがそれも、今日で終わるかもしれなかった。
居場所がいよいよなくなる瞬間が来るのかと思うと、目の前がほのかに輝いて、知らない誰かが近づいてくるような気がした。
……寂しさを忘れた、悠久のきらめきに導かれるように吸い込まれていく意識の集合が、愛で満たされたその指先に触れて、全身が涙を流しているみたいだった。
その日の夜は死んだように眠った。
こんなに気持ちよく意識を落とせたのはいつぶりだっただろうか。
もう分からないくらいに久しぶりのことだった。
翌日、医療室に行くといつもと変わらない声の挨拶だけが返ってきた。ロルのほうを見るとすごい剣幕でこちらを睨みつけていた。どうやら黙っていたみたいだった。
レイン達は新しい武器の使い心地に気分をよくしていて、シンクライダーは絶賛する彼らの前で照れ臭そうに白衣の襟を弄っていた。
「ねえレシュア。今日の日課が終わったら、久しぶりにやろっか?」
ヴェインが鬼教育と呼んでいるあの手合わせのことだ。どういう風の吹き回しだろうか。たぶんばれているだろう私のから元気を一応気にしてくれているのだろうか。それとも本当はロルから話を聞いているのか。
ここ最近塞ぎ込んでいた彼女のご機嫌を損ねるのは現場全体の損失に繋がるだろうと思ったので、とりあえず相槌を打っておいた。
キャジュは日を増すごとに女性らしい美しさを纏うようになっていた。笑顔に至っては実に自然で、見るもの全てを溶かしてしまうのではないかと思うくらいに眩しく映った。あの日以来鏡を見ることを忘れた自分の顔がどうなっているのかを思うと、もうキャジュとは別の世界の生き物だと想像がついた。
穢れを微塵も感じさせないキャジュの美しい姿を目に焼きつけながら、心の底から祝福している自分がいることに感心した。人知れず葛藤していた殺戮の怪物への拒絶と決着をつけられたような気がして、はじめて自分らしさを手に入れられたのだと、ようやっと確信に行き着いたのだった。
シンクライダーから機械兵飛来の報告を受け、いつものように戦場へ赴く。今日は昨日のような失敗はしないと心に決めていた。
最後の戦闘が手を抜いたものであってはならない。一日一日を全力で終えなければ今までの全てが無駄になる。仲間の標的を横取りしてでもやりきろうと思った。
戦場には、大粒の雨が降っていた。
ロルは相変わらず苦戦している。
手が空いたので速攻で始末してあげた。
感謝されただろう言葉を聞き流して次々と襲いかかる敵を掴み、捻っていく。
そして、最後の一体が残った時だった。
急激な胸の痛みとともに目の前が薄暗くなっていった。
膝を突いたかどうかも分からないまま、視界が全身の寒気に連動して色彩を奪っていった。
意識がなくなりそうになる寸前、無意識が口にした言葉を頭のどこかで確かに聞いた。
「……メイ、ル」
これが最後の声になるのだろうか。怖かった。
このまま死んでしまうのがとても怖かった。
死ぬ瞬間の孤独の恐怖が、顔に吸いついてきそうな距離にあった。
せめて、温もりが、欲しかった。
……。
(……レシュア!! ヴェイン!)
(……姫!!!)
(……急いで医療室に運んで!!)
(……駄目だ! あんたが連れて行け!! ここは『私』が片付ける!!)
(……ロル!! あなたは急いでメイルを呼んできて! 医療室よ! 早く!!)
(……は、は、はい!)
……。
……光。
……見える。
……なんだろう。
……熱を感じる。火傷しそうで、でも包まれているようで。
……汗が、たくさん出ている。臭い。
……光。
……もっと、入ってくる。
……ああ、これは、知っている世界だ。
部屋の天井から照らされるほのかな光が目の奥を刺激する。とても眩しくて瞼が持ち上がらない。
ここはどこだろうか。誰かの家の中だろうか。人はいないのだろうか。
声は聞こえない。でもなにかの音がする。耳鳴りだろうか。はっきりとは分からない。
目が少し慣れてきた。でもどうしてだろう、天井の光が強すぎて周囲が見えない。
おかしい。前しか見えない。いつもこんな感じだっただろうか。少し狭い気がする。
首が、動かない。なにかで固定されているのか。それとも動かなくなってしまったのか。痛みはない。でも自由に動かない。なんでだろう。
今は何時だろうか。そういえば、どうしてここにいるのだろうか。
私は寝ていたのか。いつ眠くなったのだろうか。なんだか、まだ眠い。
とても熱い。身体が焼かれてしまいそうに熱い。
なにかが私に入ってきたような、不思議な感覚。
まるで、生きているみたいだ。
そうだ。戦場で倒れたのだ。
胸が物凄く痛み出して息ができなくなって、頭が空っぽになってしまったんだ。
私は生きているのだろうか。見えるものがぼやけていてよく分からない。
ここは、あの時の世界なのだろうか。
声を出してみようと思った。うまく出せるか自信がなかった。
喉がとても痛くなった。腹に全身の力を集中させて、空気を出してみた。
出た。耳の穴からかすれた音がほんの少しだけ入ってきた。
「……目を、覚ましたか」
懐かしい声だった。全身の力が抜ける、温かい声。
ずっと聞きたかった声だった。
「……レシュア、俺だ。分かるか?」
分かる。でもどこにいるのだろう。目の前にはなにも映ってこない。
とても不安だ。早くしないといなくなってしまうかもしれない。
声だ。とにかく声を、出さなければ。
「……メイ、ル」
「聞こえるのか。そうだ。俺だ。なんか返事しろ」
「……聞こ、える、よ。メイル。どこ?」
「ここにいるぞ。すぐ近くにいるぞ」
「……見せ、て。顔が、見た、い」
彼が視界の中に入ってきた。間違いなく彼だった。
とても悲しそうな目をしている。どうしたのだろうか。
「……ここは、どこ?」
「シンクのところだ。レインが運んできた」
「……私、生きてる、の?」
「ああ。危ないところだったが、間に合ったみたいだ」
「……そう、なんだ。よかった」
声を出すことで意識が蘇ってきた。
私の存在がたちどころに組み上がっていく。
知りたいものから、知りたくないものまで綺麗に整頓されていく。
……でもなんだか、嬉しかった。
……終わってしまう前に、話ができて。
「どうして黙っていたんだ?」
「……へへへ。ばれ、ちゃったんだ」
「笑い事じゃないだろ。みんな心配したんだぞ!」
「……みんな、か。そう、だよね。心配、しちゃう、よね」
「キャジュは泣いていた。近くにいたのに気づいてやれなかった自分を責めていた。ヴェインなんかはもっと酷かった。暴れそうになるのをみんなで押さえつけて、大変だったんだ」
「……みん、なは?」
「あんたの身体を調べ終わったから飯を食いにいった。キャジュにはその後スクネを風呂に入れてもらって、あとは爺さんのところで面倒を見てもらうよう頼んだ」
「……メイル、は?」
「俺は食べなくてもいい。それに、ここを離れるのが不安だから」
「……食べて、きなよ。お腹、空いちゃう、よ」
「あんたが心配することじゃない。それよりも、今はどんな感じだ? どこか痛むか?」
「……分から、ない。身体が、動か、ないんだ。へへへ。私、死ん、じゃうの、かな?」
「どうしたいんだ。生きたいのか?」
「……その、質問は、痛いね。なんで、そんなこと、聞くの?」
「生きたいやつがこんなになるまで黙っているわけがないだろ。どうしてだ、どうして黙っていたんだ!」
「……それは、言えない。無理、だよ。いくら、メイルの、頼みでも、それは、答えられ、ないよ」
「死ぬまで秘密にするつもりなのか」
「……やっぱり、私、死ぬん、だ」
「……」
「……ねえ、いつまで、持ち、そう?」
「明日だ」
「……そっか。さすがは、メイルだね。いつ、だって、正直、なんだ」
「本当は悔しいんだろ? 自分の思うとおりにいかなくって」
「……え?」
「俺みたいなやつに負けたと思われたくなくて、強がっているだけなんだろ」
……違う。それは違うよ。
……お願いだから、もっと笑ってよ。
……明日になるまでここにいて、笑ってくれるだけでいいんだよ。
「……正解。メイルは、なんでも、お見通し、なんだね。酷い女、でしょ? 私って。ほんと、呆れ、ちゃう、よね」
「ああ。あんたはどうしようもない女だよ。最低なやつだ」
「……ごめん、ね。こんな、やつの、ために。本当は、ご飯、食べた、かった、よね。へへへ」
「仕方ないさ。あんたを守ると約束してしまったからな。一時の感情ごときで投げ出すわけにはいかないだろ」
死ぬほど嬉しい言葉だった。
身体はろくに動いてくれないくせに、目頭だけはしっかり反応する。
流れたければ、もう勝手に流れてしまえばいい。
「……あの時の、約束、まだ、憶えて、いたんだ」
「あの時?」
「……十一年前に、大きな、木の枝で、交わした、約束の、ことだよ」
「ああ。確かに登ったな」
「……私は、あなたに、これからも、ずっと、守って、欲しいと、お願いして、あなたは、人は、守り合わな、ければ、一緒に、生きては、いけないと、教えて、くれた。だから、私も、あなたを、守るって、いう、約束だよ」
「そう、だったのか……」
「……でも、おかしい、ね。まだ、続けて、いたんだ。メイルって、ほんと、馬鹿だね」
「ああ。そうだな。馬鹿だったな……」
「……もう、いいん、だよ。そんな、こと、忘れちゃい、なよ」
「今まで辛い思いをさせて、悪かったな」
「……ん? なんの、こと?」
「これで迷いがなくなった。それだけのことだ」
「……ずるい、よ。教えて、よ」
「あんただって言わなかっただろうが。それとも、前言撤回するか?」
「……じゃあ、いいよ。もう、聞かない、よ」
「レシュア、話すのはこれで終わりにしよう。無駄に体力を使われても困る」
「……もう、ちょっと、話そうよ。久しぶり、なんだし」
「頼むから、言うことを素直に聞いてくれ。少し目を閉じてろ」
「……一つ、お願いを、聞いて、くれる? それなら、言うこと、聞く」
「なんだ。変なことはよせよ」
「……私の、こと、マーマロッテ、て、呼んで」
最後の思い出に、あなたが囁くその一言を、私にください。
ずっと、大切にしますから。
「……マーマロッテ」
「……メイル」
ありがとう。本当にありがとう。
世界でたった一人の愛しい人。私のたった一人の人。
とても短い間だったけど、幸せだったよ。
もうこれで十分。思い残すことはないよ。
あなたも幸せに生きてね。あなたは長生きしてね。
私、ずっと遠くで見守り続けているから。
今度会ったら、また木登りしようね。
約束だからね。絶対だからね。
……メイル。
私を見つけてくれて、本当に、ありがとう。
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