誰もが揃って見ないふり。誰もが揃って生きたふり。
ひどく乾いた日のことだった。皇帝の居城たる火輪は相も変わらず虚空より下界を睥睨し、それを阻む雲も無い。それゆえ民衆はどうしたところで、どうしようもなく渇いていく。
今日も今日とて民は蠢く。抗うこともなしに、ぞろりぞろりと。空を見ぬよう地を這うのだ。貧民窟には砂埃が舞う。誰に顧みられることもないからだ。返って見るほどの機械もないからだ。
薄汚れた布製の家屋に囲まれた三叉路に少年が一人、座り込んでいる。乾いて油脂にまみれた黒髪はざんばらに切られ、光の無い焦茶の眼で一心に一つの機械を見据えている。纏った幌布には染料は使われていない。質の悪い貧民用の準重油が黒く染み、薄い黄であったその服は長年の使用に擦りきれ解れている。少年は浅黒い手に純正油に濡れた工具を二、三持って、灰褐色の都市部用軍用迷彩の施された内燃式機関二輪車と格闘する。
内燃機関は焼けついている。燃料保存部には罅が入り、薄緑に色付く軍専用の車両用純正油が染み出して碌に整備のされていない道に溢れる。
少年の背後には背の高い男が一人立っている。優良民族の証しと言える金の髪に鮮やかな緑の瞳をし、陸軍の制服を着込むその肩の階級証は軍曹のもの。苛立たしげにくわえた紙巻の煙草を揺らす白い肌の男は、数分おきに整備が遅いと少年を怒鳴りつける。軍帽の陰に隠れた目元はつりあがり、苛立ちをぶつける対象を探さんと通行人を眺めている。
少年は手習いに通う数件先の工房から部品を取ってくることを諦め、傍らの工具箱からいくらか取り出して引き続き修繕にかかる。応急処置に過ぎないとしても早く終わらせることを選んだのだ。成功しても失敗しても彼のような少年はいくらでもいて、それゆえ百メートルも離れてしまえば軍人が少年を思い出すこともないだろうから。その百メートルさえ機関二輪車が耐えれば少年は助かる。少なくとも今この時だけは。どうせ雀の涙の金すら貰えないのだから、それで良いのだ。
男は別段この少年に修理させる必要は無かった。結局機関工兵の世話にはなるのだから、むしろ基地に連絡を取って回収させた方が好ましいくらいだ。これはただの気紛れで、そしてこの気紛れにあまり時間をかけるわけにもいかなかった。
道行く者達は何も言わなかった。そんなことをすれば命が危ないのは自分だけではない。軍人に逆らえば、地区ごと焼き払われても文句は言えない。なにせ軍人は皇帝陛下の代理人で、また正規国民の代弁者なのだから。貧民窟暮らしの未登録市民や劣等民族指定者などは、国中の全てをかき集めたところで一人の軍人とだって比べられない。
揮発油の臭いがする。誰もが慣れ親しんだ、しかしそれでもなお好ましいとは思わない臭い。
少年は炎天の直下で彼にしてみれば見たこともない類いの機関二輪と格闘している。汗の乾いた塩と薄緑の被着色燃料が身体中に染み込んでいくようだった。
男は吸い終わった紙巻煙草を革の長靴で踏み消して、ズボンのポケットからくしゃりと潰れた紙の箱を取り出す。箱から二本目の煙草を引き出して色の薄い唇にくわえて紙箱をもとの通りにしまい込む。上着の内側から出した海底のモチーフが刻まれたジッポーの蓋を開け、煙草に火をつける。つ、と顔を上げて少年を見やると、
「それ、やるよ。お前たちみたいな劣等種にゃあ勿体ねえがな!」と叫び、火が出たままのジッポーを少年に投げ渡す。
少年が振り返るだけの時間は無かった。
少年はたちまちに燃え上がる。燃料油を被っていたのだから当然に。
軍人は笑っている。良い見世物を見たとでも言いたげに。躊躇いが無かったのと同じくらい、後悔は無い。
少年は転げ回っている。しかし炎は消えない。服や体だけでなく、周囲の地面にも油は散っていた。そして揮発油の名の通り、気化したそれは少年の周りで空気すらも燃やす。
軍人の笑い声が響く。ひどく愉しそうに、その男は笑う。
少年は叫んでいる。転げ回るだけの力も段々に無くなっていく。火も段々に小さくなる。蒸発した燃料は殆どが燃えて無くなった。しかし少年はまだ燃えている。
軍人は少年の脇を通りすぎて、先へ行く。行き掛けの駄賃と少年を蹴飛ばして。
道行く者達は、そのまま進む。彼等を責めるなかれ。彼等もただ、生きたいだけなのだ。
少年はまだ、燃えている。
少年はまだ、生きている。
けれど軍人は、基地に着く頃には何も覚えていない。軍需品紛失のかどで責められる者すら、この男ではないだろう。
通行人は何も見ていない。
誰も、何も、見てはいない。