2章『白よりも赤が好き』 その3
「うるさぁーい! うるさぁーい!」
「むっ」
グリは、敏捷性と柔軟性を伴った動きで、赤里に絡みつこうとした。
全身を使って締め上げにかかる考えだ。
本人からすれば単なるじゃれ合いの一環なのだろうが、実際は生易しいものではない。
サイズ感こそ異なれど、大蛇が獲物を締め上げる感覚に近い。
しかしグリにとって誤算だったのは、アルコールが予想以上に体内に浸食していたことだった。
「は、はれ……?」
伸びる手足は、柔らかいだけで芯がない。
あっさりと赤里に捕獲され、逆に体勢を入れ替えられ、押し倒されてしまう。
「立場が逆になったな」
ソファ上の格闘は、赤里に軍配が上がった。
「やぁーだ! やぁーだ!」
グリは駄々っ子のように抵抗を試みるが、跳ね返すことができない。
「……っ、困ったパートナー様だ」
言葉とは裏腹に、赤里は少しずつではあるが、グリに対して親しみを感じつつあった。
仕返しに成功したからではない。
気を抜いたら押し返されそうな彼女の力や、指先のじんじんとした痛みが、彼のビジネスライクな心をつっついてやまなかった。
「ばかぁ……赤里のばかぁ……でも、そういうところも、好き」
グリも下の立場にいるのは満更ではないようだ。
甘い呟きに比例して段々と、抵抗力が弱まっていく。
対照的に赤里の方は、やや冷めた目で彼女を見下ろすようになっていた。
右手を離したのは、彼女にもう歯向かう意思がないことを感じ取ったためだ。
空いた方の手でグラスを引き寄せて、
「ほら、もっと飲めよ」
ワインを口に含み――グリの小さな唇を指で強引にこじ開け、舌を通して流し込んだ。
「んっ……」
喉を鳴らす音が、波打つ喉のラインが、垂れる一筋の薄い赤色が、官能的だ。
「どうだ、もう一口」
「……もう」
ごく少量だったが、効果はてきめんだったようだ。
「やっと強引になってくれたわね……待ってたのよ」
長い睫毛が濡れるほどに瞳を潤ませ、グリは恍惚の表情を浮かべる。
先程のもつれ合いの余波でできた、衣服のはだけを強調させ、
「ねぇ……もっとして……」
もの欲しそうな甘ったるい声を漏らす。
「はいよ。ほら、どんどん飲んで食いな」
赤里はあえて肩透かしを食らわせた。
体を引き起こして座り直させ、グラスと皿をグリの前に突き出す。
いわゆる"男女の駆け引き"でそうしたのではない。
「……もうっ、バカっ!」
グリは頬を膨らませ、赤里と飲食物から顔を背けた。
本気で怒ったのか、冗談で拗ねているだけなのか、赤里には理解できない。
彼が静かに考えていたのは、全く別のことであった。
――酒で黙らせるのも有効な手か。
互いの静かな息遣いまでもが聞き取れそうなほど、照明の消えた部屋は静まり返っていた。
カーテンを開きっ放しにしている窓からは、おびただしい数の高層建築が放つ光が銀河を作り出しているのが見える。
グリは、既に平静に戻っていた。
アルコールの余熱も冷めつつあるようだ。
ソファに座り、仰向けに寝ている赤里の頭を膝の上に乗せ、髪を愛おしそうに梳かしながら、夜景ではなく赤里の顔をじっと見つめている。
赤里は安らぎとも心地良いとも言えない、微妙な表情で見つめ返していた。
かといって別段不快そうでもない。まさしく猫のような態度であった。
猫といえば、ビアンコは空き部屋の方へ行ってしまっており、現在リビング・ダイニングにいるのは二人だけである。
気持ちいい? グリが目で問う。
好きなパスタはミートソースだ。赤里が目で答える。
二人は幾度となく目で質問と回答を繰り返していたが、全てがこのような具合であった。
「時々、虚しくなる瞬間があったりしないか」
更に少し夜の闇が深くなった後、先に声を発したのは、赤里の方だった。
「全然? 私、満ち足りてるわよ」
グリは目を細める。
「すまん、全然言葉が足りなかった。"殺り手"として仕事を続ける人生の中で、だ」
「またその手の質問? 答えは今さっき言った通りよ。どうしたの? やっぱりナーバスになってるの?」
「いや、今回のことが原因じゃない。大分前からそう感じる時があるんだ」
赤里は、グリの透き通った目を見たまま、静かに語り始める。
弱音を吐きたくなった訳ではないが、本能では誰かと話をしたがっていたのかもしれない。
グリは無言で、続きを促す。
「組織が支払ってくれる報酬のおかげで、欲しいと思った物は大方手に入れられた。家具も、服も、車も、グリが褒めてくれた家もワインもな。
……なんだけど、虚しくなる時があるんだよ。欲しかったものを手に入れた瞬間、それがすぐどうでもいいものに変わっちまう。
原因は分かってる。多分、手に入れてきたものは、本当に欲しいものじゃなかったんだろうな。それか、心の隙間を埋めるための単なる衝動買いだ。
じゃあ俺が本当に欲しいものは何なんだって考えてみたりもするけど、それも良く分からないんだよな」
そこで赤里は一度、言葉を切った。
「……それで?」
赤里の視線がほんのわずかだけブレを見せたことにグリは気付いていたが、あえて無視した。
「心の底ではそう思ってるんだけど、欲自体は次から次へと、あれがしたいこれが買いたいって、同じ心の奥の方から際限なく湧いてくるんだ。延々と続くハムスターの回し車みたいだよな、キリがない。
そんな風に時々、自分の状況を客観的に見ちまうと、全部がひどく滑稽に思えてくるんだ。
仕事に嫌気が差したんじゃないし、辞めたいと思ったりもしてない。きっとこれからも多分、俺は仕事を続けていくんだろうと思う。失敗して死ぬのか、まともに動けなくなって引退するまでか、終わりの形は分からないけどな。
……悪い、今日会ったばかりの女にする話じゃなかったな」
赤里は顔を歪めて笑う。
「いいのよ」
"持っている"人間の退屈、ある意味での自嘲のふりなのは分かっていたが、グリは無条件に受け入れた。
赤里の額にキスをして、
「ムードはやっぱり大切よね。やっとあなたの本心が少しだけ聞けた気がするわ」
優しく囁いた。
「アドバイス、あるけど、聞きたい?」
「頼む」
「簡単よ。今その時、本心からやりたいことをただやればいいのよ」
グリは、しごくあっさりと言ってのけた。
「今やることにひたすら集中していれば、思い煩うことは減るでしょう? それか、仕事をする時と同じ心構えでもいいわ。訓練中に習ったでしょ? 感情は感情で切り離して脇に置いて、今することだけに意識を集中するの。
そもそも、別に欲を追いかけるばかりの人生でもいいじゃない。滑稽でもいいじゃない。不完全で欲塗れだからこその人間でしょ? 私だって完璧じゃないわ。
……こんなところでどうかしら」
「……フッ、ここまで本気で慰めてもらえるとはな」
赤里は目を閉じる。
目蓋の裏という完全な暗闇のスクリーンに描かれたのは、二人の男女。
「今、やりたいこと、か」
夜に一人でオールディーズを聴いた時のように、少しだけ哀愁的な気分になるが、それ以上の進行はない。
女からの優しい言葉で麻痺するほど、赤里は軟弱ではなかった。
そもそも、そこまで深刻に悩んでいなかった。
本気で厭世的になっていたならば、とうに自殺しているか、組織に反逆していただろう。
(……ああ、そうか)
赤里の頭に、閃光のようなひらめきが訪れた。
青依と翠佳も、きっとこんな心境に至ったから、組織から逃げ出したのだろう。
だからこの間、一緒に酒を飲んだ時、趣味がどうこうと聞いてきたのか。
「それでね、もっとアドバイスがあるんだけど」
赤里の心境などいざ知らず、グリは一層饒舌に言葉を連ねていく。
「赤里、今は恋人がいないんでしょう? ここで誰かと交際してみるとかどうかしら? 恋はいいわよ。人間に物凄い活力を与えて、人生に張りを出してくれるんだから。ちょうど組織も恋愛禁止をやめたんだし、いい機会だと思わない?」
「そうだな、考えてみる」
グリの意図とは異なる意味合いでだが、赤里は曖昧に肯定した。
しかし彼女の方も一筋縄では行かないもので、
「いきなり付き合えとは言わないから、まずはもっともっと仲良くなりましょうよ」
添えた手で赤里の頭をしっかりと固定し、ポイントを適切に突いてくる。
「これ以上、か?」
「ええ、まだまだ足りないわ。せっかくこうやって心の一部を晒したんだから、体の方も全部晒しちゃいましょうよ。そろそろ夜も遅いから、シャワーを浴びて一緒に寝ましょ。やっぱり男女の最高のコミュニケーションは」
「狭いのは嫌いなんだ」
赤里はにべもなく言った。
就寝時に使うリクライニングソファは一人用だ。
眠る時はスペースが欲しい。
「うん、そう言うと思ったわ」
予想通りだと、グリは頷いた。
「だから折衷案を出すわ。私は何も手を出さないことを約束するから、一緒に寝ましょう。それくらいならいいでしょ?」
「うーん……」
「一緒に寝てくれないと……あなたの大切な飼い猫を、絞め殺しちゃうわよ」
赤里の顔面の皮膚や眼球がチリチリと痛む。
グリは本気だ。発せられている殺気じみたオーラが、恫喝ではなく宣言として物語っている。
「……分かったよ。そんな風にまで言われたら、な。君の面子を傷付けすぎるのも何だし」
本来は言う立場が逆だろうと思いつつ、赤里は許可を出す。
が、グリは全く気にした様子もなく、赤里の頬を挟んで唇を飛び出させながら、無邪気にはしゃぐ。
「ありがとう! それじゃあ、どっちが先にシャワーを浴びる? ジャンケン? ジャンケンで決めるのがいいかしら? 赤里はどう思う? 意見を聞かせてちょうだい」
「ひゃべへたい」
せっかく一度綺麗にしたのに、二度手間になるのはごめんである。
ビアンコを殺されてしまっては、掃除や片付けが面倒だ。