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2章『白よりも赤が好き』 その2

 孤独の塔の一室に、赤里が来訪者を最後に招いたのは、一体いつだっただろうか。

 最期に入れた人物が青依と翠佳だったことは確実に記憶していたが、正確な日付までは思い出せなかった。


「わぁ……! 綺麗!」


 ともあれ、久々の来訪者は、窓から見える夜景を見て幼子のようにはしゃいでいた。


「観覧車の頂上で止まってるみたい! こんな景色がいつでも楽しめるなんて、素敵なお家ね! 一緒に住みたいわ」

「褒めてくれてありがとう」


 高い所から見下ろす快感というものが赤里には理解できなかったが、とりあえず核心をぼかして返答する。


「ねえ、あなたも許してくれるしょう?」


 重ねて尋ねたのは、赤里に対してではなく、彼の飼い猫・ビアンコにである。


「ゴロゴロ……」


 ビアンコはグリに抱き抱えられた姿勢のまま、喉を鳴らしている。


(おいおい、俺にはそんな素振りをあまり見せてくれないのに)


 赤里の中で、ささやかな嫉妬心が揺らめく。

 が、すぐに吹き飛ぶ。

 ビアンコの餌や水の用意をし、トイレを綺麗にしていく。

 今後、外出が長期にわたってしまった場合は組織の人間に世話を頼むことになるだろうが、できる範囲では自分でやっておきたい。

 赤里は飼い主として、極めて真摯なスタンスの人物であった。


 ビアンコと戯れているグリをよそに、赤里は続いて空き部屋になっている洋室へ向かう。

 こちらの掃除は、ロボット掃除機が勝手にやってくれるだろう。


(ロボット掃除機……青依と翠佳は好きじゃないって言ってたっけ。"ものぐさの象徴"だとか何とか、意味の分からない理屈を……)


 そんなことを考えていた時である。


「――――ッ!?」


 体内で爆竹が弾けたように、突然、動悸が激しくなり始めた。

 間髪入れず、視界がぐにゃりと歪み出し、猛烈な吐き気が襲いかかってくる。


「うううっ」


 たまらず、その場に膝をつく。


 馬鹿な。完璧に抑え込めていたと思っていたのに。

 茶禅から命令を受けた時に生まれ、今までずっと胸中に燻っていたもの。

 パートナー・グリと出会い、共に行動している間もずっと消えずにいたが、耐えられていた。

 このまま任務達成まで凌ぎ切れる。

 悲しむのは、任務を達成してからにするつもりだったのに。


 そのはずが。

 外界と赤里の精神の境界に築かれていた、鉄の理性という名の防波堤が、前触れなく決壊してしまったのだ。


 深海で発生した泡が海面到達付近では何十倍何百倍にも巨大化しているように、意識の深層で発生した感情を伴う思考が、体のすぐ下の所で爆発寸前の激情に育っていた。

 次から次へと、止めどなく溢れ出てくる。


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 やりたくない。殺したくなんかない。

 一緒に育ってきた大切な幼なじみを。

 どうしてだ。どうして俺が殺さなければならない。

 悪趣味すぎる。ボスとやらは何を考えている。

 茶禅も茶禅だ。

 命令を出した時も落ち着き払っていたが、直々に手がけた教え子を殺すことに何の葛藤もないというのか。

 親のように、教師のように、あれだけ親身に寄り添ってくれていたというのに。

 何で反対してくれなかった。

 助けてやって欲しい。あの二人を。親友を。

 自分が心を寄せた女性を――


「赤里……?」


 すぐ背後から、少女の涼やかな声が鳴る。

 いつの間にかグリが、部屋の入口に現れていた。


「どうしたの? 具合でも悪いの?」


 足音なく赤里の前へと回り込み、心配そうに覗き込む。

 ひどく冷たい汗が滲む彼の歪んだ顔を見て、グリはすぐに理由を察した。


「やっぱり、嫌なのね? ずっと一緒だった家族のような存在を殺すのは」

「まさか」


 強がりなのは、誰の目にも明らかだった。

 それでも赤里は、


「俺は成績トップクラスの"殺り手"なんだぜ。相手が誰でも、完璧に仕留めてやるさ」


 無理矢理ニヒルな笑みを作ってみせる。


「無理しなくていいのよ。茶禅さんたちには言わないから」


 グリは汗がつくのにも構わず、そっと赤里の頬に手を添えた。


「正直、あなたの気持ちをよくは理解できないけど、負担を軽くする手助けはしてあげられる」


 掌を滑らせ、汗の雫を拭っていく。

 顔面の皮膚や唇を隈なく愛撫されるのは、シルクのハンカチでされるよりも気持ちいい。

 赤里は不覚にも快感じみたものを覚えてしまう。


「私の役目は、あくまでもあなたのサポート。決して監視じゃない。だから、弱い所を見せてもいいのよ。全部受け入れてあげるから」


 聖母のような包容力を見せるグリに、さしもの赤里も、少し心を動かしかけた。

 だが、それでも、彼は飲み込んでしまった。

 それが幸福なのか不幸なのかは、当事者を含めて誰にも分からない。


「……大丈夫だ」


 赤里は、ハンカチになってくれたグリの手を握って、ゆっくりと立ち上がった。


「もう落ち着いた。グリのおかげだ。ありがとう」


 既にこの時点で、虚勢ではなくなっていた。

 動悸も吐き気も頭痛も、本当に全て治まった。

 冷えた心が沸騰することもない。

 いや、もう蒸発してしまったのだろうか。

 もしかしたら一時的なものに過ぎないのかもしれないが……


「そう、よかったわ」


 グリもその辺りの機微を理解しているからこそ、微笑んだ。

 一抹の寂しさを含ませながら。


 手を洗った後、リビング・ダイニングに戻ると、グリが尋ねてきた。


「ねえ赤里、さっきから気になってたんだけど。あそこにあるのって、ワインよね?」


 彼女の指差す先、キッチン脇の棚には、調味料などと混じってワインボトルが無造作に置かれている。


「ああ。飲みたいのか?」

「いいの!?」

「構わないよ」


 二つの意味で赤里は承諾した。

 どこの何年ものかもよく分からない。とにかく良さげだから買ってみたのだが、開ける機会を逸したまま放置してしまっていた。

 役目を果たさせるには最適な夜だろう。

 このような形で開けるとは想定外だったが。


「やっぱり赤なんだ。車も赤かったものね」

「そりゃそうだ。紅白まんじゅうでも紅の方しか食わないくらいからな、俺は」

「……ってこれ、凄く高いやつじゃない!?」

「無視するなよ。寂しいだろう」

「私のためだけにこんな高級品を開けてくれるなんて……嬉しい」


 グリはすっかり酔っていた。飲む前から。

 赤里はそんな彼女の手を引いてソファに座らせた後、一人キッチンに戻ってグラスを取り出し、テーブルに置く。


「つまむものはどうするかな……」

「私は何でもいいわよ」


 冷蔵庫を開けてみると、おあつらえ向きにチーズやサラミが残っていた。

 多分ちょくちょく食べていたのだろう、こちらは既に開封済みだったが、恐らく賞味期限も大丈夫のはずだ。


 適当に皿へ盛り付け、グラス同様テーブルに置いた後、脇から取り出したのはオープナーではなく、仕事で使う愛用品のナイフ。

 メスに近似した形状のそれを指先ででくるくると回転させた後、ワインボトルのネック部分に、何の躊躇いもなく刃を走らせる。


 甲高い音が短く鳴り――ボトルの先端がぽろりと零れ落ちた。


「お見事」


 グリが拍手する。

 手招きに従って、赤里は彼女の隣に腰を下ろし、二つのグラスに赤い液体をなみなみと注いでいく。

 正式の注ぎ口とは口径が変わってしまっているため、やはり入れ辛い。

 横着すべきではなかったと反省する。


「乾杯しましょう。私達の必然的な出会いに」

「運命の間違いじゃないのか」

「違うわよ。運命なんてそんな曖昧なものに託したくはないわ」


 随分細かい所にこだわるものだが、まあいいか、と赤里が思っている間に、グリがグラスを当ててきた。

 それは厳密には好ましくない行為だぞ、と赤里が心中突っ込んでいる間に、グリはワインを口に含んでいた。

 波打つ喉の動きが、妙に艶めかしい。


「私だけに飲ませないで。赤里も、早くぅ」

「はいはい」


 赤里も口内を湿らせる程度含んで、飲み込む。

 熱を伴った酸味と苦味の複合体が、喉から胃へと移動していくのが分かる。

 不味くはないが、果たしてこれがもてはやされるほどの美味さなのか、彼にはさっぱり分からなかった。


 そのまま互いに、二口、三口と、少しずつ酒量を増やしていく。

 赤里はアルコールに強いため、全く問題はないが、グリの方はそうでもなかった。


「ナイフ、何種類も持ってるのねぇ」

「ああ、一応な」


 既に頬へ薄紅を差しているグリは、語尾を伸ばし気味にしながら、赤里にぴったりと身を寄せてきた。

 まるでキャバクラか何かのようだと、行ったことのない場所を勝手に想像しながら、さらりと答える。


「ねえ、私……もうお酒が回ってきちゃったみたい……ちゃんと座ってられないのぉ……」


 白く細い脚を腿に乗せて絡めてくる。

 もはやキャバクラを超えているのではないか。


「飲んでばかりじゃなくてチーズも食えよ」

「食べさせてぇ」


 赤里は無言で皿のチーズを手掴みし、グリの前に突きつける。


「やだやだやだぁ!」


 直後、赤里の指先に鈍い痛みが伝わる。

 グリが、拒絶の言葉を吐きながらも、彼の指先もろともチーズにかじりついたのだ。


「っつ……」


 ワインのせいではない。赤里は本能で理解していた。

 いや、ワインは鍵だ。

 強いか弱いかは曖昧だが、これだけは言える。

 グリは、わざと酒に飲まれている。


「あははぁ……赤里のワイン、とっても美味しい……」

「血が赤ワインなんて、ベタな表現をするなよ」


 音を立てながら指先をくわえたり舐めたりする姿は、見る者が見れば強烈な吸引力を感じるだろう。

 が、赤里は反応しなかった。

 出会いの時を彷彿とさせるグリにも一切物怖じせず、切り返す。


 あの時のように、あっさりやられる訳にはいかないという意地もあった。

 いかなる動作にも対処できるよう、神経を張り詰めさせる。

 この程度のアルコールで鈍るほど、赤里は脆弱ではない。

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