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14章『青写真、引き裂かれて』 その2

 呼吸が荒くなる。

 冷たい汗が吹き出る。

 流れる血が増えていく。

 愛と哀、迷いと惑いがぶつかり合う。


 赤里とグリの殺し合いは、未だ決着が見えず、互いに傷ばかりを増やし続けていた。

 示し合せた訳でもなく、ナイフと体術のみで命を奪わんとしているのは、手心の表れではなく、単に至近距離で銃を用いるのは非合理と判断したためである。


 腕を組み、不遜な笑みを浮かべて観戦していたネクロは、最初の内はさも愉快そうに観ていた。

 しかし己がけしかけたにも関わらず、決着がつかないことで段々と飽きを表面化させていく。


「二人とも、手を抜いているのではないかね?」


 煽るが、一瞬たりとも気を抜けない死闘の最中である二人は、完全に右から左へ聞き流していた。


 ネクロに言われずとも、二人は決して手を抜いてなどいなかった。

 彼の言葉を忠実に守っているからではなく、手を抜けば即座に死ぬからだ。

 注入されたアルコール、精神状態諸々の変数によって、現在の赤里とグリの実力は伯仲していた。

 そもそもネクロ自身、全て分かった上で発言していたのだが。


「急いでくれたまえ、私とて暇ではないのだ。今後の組織再編などについて考えなければならんのでな。この部屋などいくら破壊しても構わんぞ、赤里君」


 ネクロに言われるまでもなく、グリの嗜好を最大限に取り入れた執務室は、戦いの余波で損傷が目立つようになっていた。

 純白の絨毯は泥混じりの雪のようになり、椅子は壊れ、壁にも傷が走り……物盗りにでも荒らされた後のような様相を呈している。


 視界の端へ荒廃の経過を映していたグリの心に、濃い悲しみの影が差す。

 将来的には赤里や子どもと、ここで一緒に暮らそうと思っていたのに。

 真面目な話をしたり、バスルームで疲れを癒し合ったり、愛くるしい赤ん坊を見て微笑み合ったり……

 仕事と家庭を両立させられる、理想を追求した愛の巣が、下賤な侵入者に踏み荒らされただけに留まらず、他でもない愛する赤里との衝突で壊されていく。


 また修繕すればいいと頭で分かってはいたが、心の方が素直に納得しなかった。

 プライベートとパブリックを兼備した部屋を穢されることは、グリにとって非常な屈辱だったのである。

 その精神的ダメージを、現在進行形で行われている戦いに決して反映させなかったのは、彼女の図抜けた戦闘能力の賜物と言えよう。

 それと、まだ隣室は無事なはずという思いが、彼女を踏み止まらせていた。


 赤里もまた必死であった。

 やらなければやられる。その一言で全てを言い表せた。

 青依と翠佳を助けるためにも、絶対に生き残らなければならない。

 それだけを思って刃を振るい、軋む体を駆動させる。


「よしよし、押しているぞ。あと一歩だ。気張りたまえ赤里君」


 聞きたくもないのに、時折耳に入ってくる男の声が耳障りでしょうがない。

 今すぐ標的を変更して、古傷を上書きするように顔面をズタズタに切り刻んでやりたかった。


 ネクロの歪んだ嗜虐心が次に吐き出した台詞は、更に赤里とグリの苛立ち、焦燥を加速させる。


「とはいえ、疲れているだろう。そこでだ。一度休憩がてら、これを見るといい」


 ネクロがすぐ脇、卓上に置かれたコンピュータを操作すると、壁の一方に巨大なスクリーンが下りてきた。

 この展開もあらかじめ彼の脚本に書かれていたのだろう。

 すぐさまプロジェクタが、そこへ映像を映し出す。


「……青依、翠佳」


 それを見た赤里が、荒い息をつきながら幼なじみの名を呟く。

 映像は二分割だった。


 一方は今日見たばかりのもので、まだ記憶に新しい。

 闇医者の産婦人科、腹を膨らませ、ベッドの上で寝かされている翠佳の姿。


 そしてもう一方は、同じくどこかの狭い部屋で、医療機器に囲まれ、仰向けで拘束されている青依の姿。

 先刻電話越しに話した相手が本物である可能性が、更に100へと近付く。

 しかし赤里が感じていたのは、生きている姿を見られたことによる安堵などではなかった。


「こんな悪趣味な映像を見せて、何のつもりだ」


 声を低く鋭くした理由は、翠佳、青依、いずれの側にも、銃や刃物を携えた数人の見知らぬ男たちがベッド周りに立っていたからである。


「なに、君のことを激励してやろうと思ってな」


 ネクロは薄く笑うと、赤里に渡したものとは別の電話を出し、通話を始める。


「段階・三」


 とだけ言うと、青依側の映像にすぐ変化が表れた。

 男の一人がナイフを抜き、青依の耳元に刃を近付ける。

 青依は拘束された体をよじらせながら何かを叫んでいたが、音声が出力されていないらしく、無音のままであった。

 ただ唇を読むに、単に罵倒を並べているだけと思われる。


 それに構わず、再度通話を始めたネクロが同様の命令を出すと、翠佳側にも魔の手が伸びかかる。

 やけに慣れた手つきで衣服を剥ぎ取られ、膨らんだ腹や変色した先端器官が露わになると、赤里の顔がさっと青ざめる。

 眠らされているのか、瞳を閉じた翠佳は一切抵抗する様子を見せていなかった。


「理解できたようだな。疲弊した心身に力が漲っただろう。さあ心機一転して、速やかにグリを殺すのだ」

「……お前!」


 赤里は自他共に、滅多に怒りの感情を出さない人間であった。

 最後に怒ったのはいつだったか、本人さえも忘れているほどだ。


 そのような彼が、この時ばかりは激しい怒りに心を焦がしていた。

 心を動かすことなく人の命を奪う、殺り手としての立ち位置を超越した峻烈な殺意をネクロに向ける。


「ふはは、心地良い空気の震えだ。しかし相手を間違えているぞ」

「赤里」


 当の相手であるグリが、穏やかな声で彼の名を呼んだ。


「怒ったままでいいから、頭の片隅に入れておいて。こんな状況になっても、私は手加減しないから」


 修羅の如き形相で振り返る赤里に怯まず、グリは続ける。


「でも……もしあっちの二人が酷い目に遭ったら、せめて私たちがそこの男を殺しましょう。後悔する暇もないくらい、徹底的に惨たらしくね」


 実際は裏に牽制の意味合いが込められていたのだが、この時の赤里は額面通り受け取ることしかできなかった。


「……そうだな」


 空返事する赤里に、グリは懸命に目で『気付いて』というメッセージを送り続けていたが、届かない。


 ネクロにとって青依と翠佳は生命線なのだ。

 それを失ってしまえば、赤里がネクロに従う理由はなくなる。


(保身を最優先するような男が、安直に快楽にかまけるような選択をすると思う? お願い赤里、気付いて……!)


 しかし、グリもまた、かつて苦汁を舐めさせてやった経験があったゆえか、目の前の男を過小評価して読み誤っていた。


「教えてやったばかりの話をもう忘れるとは感心せんな」


 ネクロは妙に自信満々、泰然としていた。


「搦め手で行くと言っただろう。君の考えなどお見通しなのだよ」


 荒れかかった部屋を歩き、隣室へと繋がるドアに手をかけ、開く。

 一目見てみたまえ、と促された赤里とグリは、怒りと焦りを腹に溜めたままで部屋を一目する。


「あ、あああああ……!」


 悲痛な声を上げたのはグリだった。

 天蓋付きのベッドや鏡台、ガラスを張って隔てたバスルームなど、完全にプライベートな居住空間として設計されていた部屋は、見るも無残に破壊されて廃墟のようになっていた。


「私の……私の部屋が……居場所が…………ああああ!」


 単に部屋を失っただけにしては尋常ではない取り乱しようである。

 赤里には彼女の心情が理解できなかった。

 そういえば以前住んでいたマンションにもけっこうご執心だったなと、こんな事態にも関わらず頭の片隅に思い出す。

 

「ははは、少々疑問視していたのだが、こうまで効果覿面だとはな。愛するものだけでなく、安息の地まで奪われた気分はどうだね」

「こ、このッ……!」

「つくづく哀れな小娘だ」


 ネクロは、怒りに任せて飛びかかるグリをあっさりといなし、背中を蹴って執務室の方へと突き飛ばした。


「うっ……うううう……」

「赤里よ、今が好機だぞ。グリを始末してしまえ」


 赤里は嫌悪のこもった目でネクロを見る。

 呻きながら涙まで零すグリの気持ちは理解できないままだったが、心情的にはすっかり彼女の味方であった。

 ほんの一瞬とはいえ、目眩と共に青依と翠佳の存在を忘れ、ネクロへ飛びかかってしまいそうになる。


「付け加えておこう。一声かければ、この部屋に私直属の殺り手達、選りすぐりの精鋭がすぐ駆けつける段取りとなっている。平時ならばともかく、消耗した状態では凌ぎ切れまい。……フハハハ、状況がどう転じようと私の優勢、勝利は変わらない。これぞ王の采配というものだ!」

「あ、赤里……」

「グリ……」


 高笑いの止まないネクロを前に、赤里とグリは顔を見合わせる。

 互いに心を掻き乱されてはいたが、この時点でもう趨勢は赤里の方へと大きく傾いていた。


「……悪く思うな」


 これは人生史上最も後味の悪い殺しになるだろう。

 赤里は微かな震えを止めるべく、ナイフを握る右拳を固くする。


「い、いや……やめて、来ないで……」


 両手でナイフを握って正面に構え、怯えた顔で後ずさるグリ。

 今の状態ではもうまともに戦えないことを、彼女自身体感している表れであった。


「ははは、無様だな! そうだ、それが見たかったぞ! さあやれ! 殺すのだ赤里!」


 せめてお前の無念だけは、近い内に晴らしてやる。

 癇に障る笑いを背中に浴びながら、赤里は少しずつグリとの距離を縮めていく。


 その時だった。

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