14章『青写真、引き裂かれて』 その1
「乾杯! ……いやー、この"今年も無事に生き残った記念会"も、すっかり年末の恒例行事になったよな」
「まったく、赤里も青依も、つくづく悪運が強いわね」
「そうだな。受け売りだけど、最終的には才能や努力よりも、運がモノを言うと思う」
「……真面目に返さないでくれる? 白けるから」
「ん? 俺、どこかおかしかったか?」
「もういいわ。飲みましょう」
「……ふぅ。なあ、いきなりマジな話してもいいか」
「内容によるわね。つまらなかったら"ロシアンルーレットたこ焼き"全部当たりver.を一人で食べなさいよ」
「もはやロシアンルーレットでも何でもねえだろそれ……素面だと恥ずかしいから今聞くんだけどよ、お前らには夢とか理想ってあるか? 俺らが生きてるのはこんな世界だけど、だからこそそういうのを大事にしなきゃっていうかさ。どうよ、考えてるか?」
「すいませーん! ロシアン……」
「わっ、バカやめろ! 人が必死に恥ずかしいのをこらえて話してんのに!」
「慌てちゃって、見苦しいわね。……そうね、私の理想は、世界で一番美しく、強い女になることかしら」
「へえ、そらまた何でよ」
「誰にも負けたくないからよ。ま、現時点でも世界の五指には入ってるでしょうけど。あんたたちも光栄でしょ? こんな偉大な女がすぐ傍にいて、しかも一緒にいられるなんて」
「で、お前は? 赤里」
「無視したわね……覚えてなさいよ」
「ん、俺か? うーん、別に夢や理想って言えるものはないなあ。その日暮らしでいいや」
「かーっ、お前、つまんねえ回答すんなよな」
「そうか? じゃあ世界で一番お美しく、お強い翠佳様とお付き合いできますように、でいいや」
「でいいや、って何よ、聞き捨てならないわね。そんな奴は願い下げだわ。摘んで捨ててあげる」
「……冗談だよ。それなら風呂一杯にプリンを作ってそこで泳ぐこと、でいいや」
「いや、だからその"でいいや"が問題なんだろ……ああもういいや、めんどくせえ」
「そういう言いだしっぺのお前の理想ってのは何なんだよ」
「あ、ああ? 俺?」
「黙るんじゃないわ。さっさと言いなさい」
「…………笑うなよ」
青依は、かつて三人で酒を飲んでいた時、照れながら交わし合った会話を思い出していた。
赤里との決闘の末、こうして吊り橋から落下している最中だというのに、一体何を……
自嘲する間もなく、体の自由が徐々に奪われていく。
仮死薬の効力が本格的に発揮されてきたのだが、この時の彼が知る由はない。
銃声のように派手な水音が鼓膜近くで打ち鳴らされたかと思うと、全身に激痛が走り、息ができなくなる。
内側でずっと悲鳴を上げ続けていた神経も、段々と声を枯らして静かになっていく。
このまま眠ってしまえば、二度と目覚めることはないだろう。
もっと足掻きかったが、もはや意志の力ではどうにもならない。
仮死薬に加えて全身を強打してしまった以上、青依に自力で打てる手はもう残されていなかった。
――すまねえ、赤里。
顔面に、消えないであろう深い傷をつけてしまった。
――ごめんな、翠佳。
結局、守ってやることも、仇を討つこともできなかった。
ああ、これで本当に全部終わりだ。
でも、死んだら翠佳に会えるかもしれない。
互いに散々人を殺してきたから、間違いなく地獄行きだろうが、あいつがいりゃそれでもマシか。どこでも上手くやっていける。
最後に親友と、最愛の人の姿を脳裡に描きながら、意識が激流に飲み込まれていく……
と、青依は完全に己の死を受け入れていたはずだった。
次に目覚めるとしたら、そこは三途の川なり閻魔様の前なり、あるいは転生の順番待ちなり、幽霊になってしばらく現世に留まっているはずだと、特定の宗教を信仰していた訳ではないが勝手にそう思っていた。
そんなはずが、何故か意識を取り戻した彼が見たものは、見知らぬ天井だったのである。
ひどく圧迫感を与えるような部屋の作りからして、病院でないのは明らかだった。
ただ、持ち込まれている機器、そこから自分の体へ接続されている夥しい管から、この場所が医療を目的とした施設となっているのは分かる。
頭は思いのほか冴えていたが、体が全く追いついていないようだ。
十二畳ほどの部屋の中央に設置されたベッドの上で仰向けに寝かされていたのだが、指一本動かすことはおろか、発声もままならない。
窓や時計がないため、今が昼なのか夜なのか、あれからどれだけの時間が経過したのかも分からない。
現在位置が杳として知れない中、青依はある一つの事実を噛み締めていた。
自分は、まだ生きている。
喜びなどなく、やけに冷静に受け入れていた。
重傷ではあったが、とりあえずはそれだけで充分だった。
あのまま死んでいれば良かった、などとは微塵も思わない。
生きていれば、機会はまた訪れる。
残酷なやり口で翠佳の命を奪った、あの女に報いを受けさせなければ。
助かった理由も薄々分かっていた。
恐らく吊り橋の下に組織の人間が待機しており、いざという時回収する手はずとなっていたのだろう。
証拠を残す訳にはいかないからだ。
死体にせず生かしたのは、茶禅辺りが手を回してくれたのだろうと予想できる。
この好機、活かさない手はない。
まずは治療に専念し、一刻も早く動けるようにならなければ。
青依の心に静かな、だが熱い、復讐という名の青色の炎が灯り始めた。
治療の日々はひどく退屈だった。
毎日定期的に医師や看護師が部屋に現れ、検査や投薬などによる様々な治療を行っていくのだが、マネキンのような外見そのままに無愛想を通り越して無感情で、一切青依に話しかけてこない。
青依の方から話しかけても、声を荒げても、完全無視を決め込まれ、治療者同士で結果のみを機械音声の如く平坦な声で言い合い、用が済めばさっさといなくなってしまう。
無論、トイレの世話の際も同様である。
異様極まりない有様だった。
当初見立てていたように、茶禅による手配なのかどうかも疑わしくなってくる。
更には何も言われず、自分の嗜好に合致した漫画や音楽CD、映画ディスクを差し入れされるのも不気味だった。
退屈しのぎの配慮なのだろうが、だったら声をかけた時に何でもいいから反応してくれと毒づいてしまう。
しかしこのマネキン医師団、治療の方は極めて誠実かつ確実に行っていたようで、青依の重傷は確実に良化していった。
少しずつ体も動かせるようになってきたが、そうなると今度は手足に鎖のついた枷をつけられ、動きを制限されてしまう。
部屋の中をある程度動けはしたが、当然外へは出られない。
ドアにも厳重なロックがかけられている。
このままでは怪我が治ったとしても、体そのものが錆び付いてしまいそうだ。
そうなってはあの女への復讐が遠ざかってしまう。
復讐相手の戦闘能力が尋常でないことは、あの忌々しい光景だけで吐き気がするほど痛感させられている。
フラストレーションが溜まってくると、併発して思い浮かぶのが、女のパートナーを務めていた親友・赤里のことだった。
生きているだろうか。
顔の傷は大丈夫だろうか。
視力に悪影響はないだろうか。
もし今後、一度でも会える機会が与えられるのならば、せめて謝罪くらいはしておきたい。
冷静に考えてみれば、赤里には何の落ち度もないのだ。
しきりに悪態をついていたのも、憎悪を自分一人で引き受けようとしたからだろう。
あの時は気付けず、悪いことをしてしまった。
グリへの恨みが募る反面、赤里に対する感情はすっかり浄化され、昔からの朋友としての親愛の情が、彼本来の気質であるナイーヴさを伴って湧き上がっていた。
荒れ狂う波間で揺られている舟のような心を内に、変化に乏しい日々を過ごしていた青依へ刺激をもたらしたのは赤里でもグリでもなく、かつての上司であり、永遠の父親役である男だった。
何の前触れも、事前連絡もなく、バスケットを提げている側の手首にタイガーアイの数珠ブレスレットをつけ、入室してきた。
目にするのも嫌な宝石だったが、この時ばかりは思わず顔をほころばせてしまう。
「さ、茶禅さん!」
「傷の具合はどうだ」
人とまともに"会話"をすること自体が久々だったため、青依の声は変に上擦っていた。
しかし茶禅は気にした様子を見せず、ベッド脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろし、少しだけ柔らかい表情を作る。
「経過は良好のようだな」
「おかげさまで。茶禅さんが助けてくれたんですね」
青依は尋ねるが、茶禅は答えず、微かに首を横へ動かすだけだった。
らしからぬ曖昧な態度に疑問を残しつつも、青依は問いを重ねる。
「あの……あいつは、赤里は、どうなってますか」
「生きている。顔の傷の後遺症もない」
「……そう、ですか」
青依は深く息を吐き、全身の力を抜く。
つられて不覚にも目頭が熱くなってしまったので、慌てて擦って誤魔化し、きつく目をつぶる。
「変わらんな」
「な、何がですか」
「気にするな、独り言だ」
茶禅はバスケットからリンゴと果物ナイフを出し、機械を使ったかのような滑らかさで皮を剥き始める。
黙して見ていた青依の頭の中に、刃物を奪い取ってやろうという考えはなかった。
ごく短時間で赤い螺旋は完成し、均等にカットされた黄金色の果実が彼に振る舞われる。
「美味いですねこれ。ここに来てから病人食みたいなのばっかり食わされてたから、ありがたいですよ」
瑞々しく濃密な果汁と爽やかな歯ざわりが、世辞抜きの本音を素直に引き出した。
「少しずつ食べるのだぞ。胃腸に負担がかかる」
「分かってますって」
そう返しながらも、口うるさいとは思わない。
青依は言いつけ通り、時間をかけてリンゴを味わい、飲み込んでいった。
「……茶禅さん」
栄養をしっかりと体と心に補給した後、青依は静かに切り出した。
「グリとかいうあの女について、知っていることを教えて下さい」
「教えられん。お前はもう組織の関係者ではない」
にべなく即答されても、青依は怒らなかった。
今の発言、見方を変えれば、"脱色"を認められたとも取れるからだ。
そもそも、いちいち逆立てた感情を吐き出していても、何の進展もない。
先の出来事は相当堪えていたようである。
「俺はこの後、どうなるんです」
「私の知るところではない」
「茶禅さんが助けてくれたんじゃないんですか」
先程と重複する質問だったが、またも同じ反応をされる。
青依はすぐに察した。
(言いたくても言えないのか)
またそれは、茶禅が直接救助に関与していないことを意味する。
そうだとしたら、では何故、このように面会に現れたのか。
「悪いが、この後所用がある」
青依が考えを巡らせ始めると、茶禅はバスケットを回収し、席を立った。
「それは皮ごと食べろ」
「ナイフを置いてってくれればいいじゃないですか」
「逃走に使われる可能性のあるものを素直に渡せる訳がないだろう」
茶禅は中に残っていたリンゴを手渡し、果物ナイフをしっかりとバスケットの中にしまう。
それを見た青依は大きく舌打ちした。
「私は当分顔を出せん。その果物、簡単に飲み込まず、よく味わっておけ。体を愛えよ、青依」
茶禅は青依の不行儀を特に咎めはせず、そう言い残して部屋を出て行った。
ありがとうございます、茶禅さん。
青依は声にも動きにも出さず、頭の中だけで深々と最敬礼するのだった。




