13章『暗黒面の報復と誘惑』 その1
「ごきげんよう」
「き、貴様! 勝手に入ってくるなど……!」
「突然だけど、私、ボスになりたいの。死んでくれないかしら」
「ふざけるな! この私に反逆しようというのか……ぐわっ!」
「恋愛禁止なんて下らないことを言わなければ、大人しく従い続けていても良かったんだけど。恨むならあなたの卑しい性根を恨むのね」
「ま……待て! やめろ!」
「やめないわよ。やめたらボスになれないじゃない」
「わ、分かった! ボスの座はお前に譲ってやる! だから、やめてくれ!」
「……さぁて、どうしようかしらぁ?」
静寂。
その只中をボタボタと、滴り落ちる赤い血がわずかな音を鳴らし、灰色の冷たい床を汚していく。
銃を突きつけたままの茶禅は目を見開き、グリは両手を腹部に当て俯いている。
そして赤里は、氷水のような汗を背中に、焼け付くような激痛を右肩に感じながら、グリを見下ろしていた。
「…………惜しかったわね」
最初に再起動したのはグリ。
顎を上げ、勝ち誇ったような、残念そうな表情を赤里に見せる。
「残念だけど、私に毒や薬の類は効かないわ。着眼点は悪くないけど、あなたが私に何かしら打ってくるかもしれないのは対策済みよ。もちろん、仮死薬もね」
彼女がさすっている左の手の甲には、赤い点ができていた。
赤里が携帯している武器の一、特別製のマルチツールナイフ。
内蔵された機能の一つである注射を打ち込まれた痕であった。
「忌々しい実家の商売が、こんな形で役立つとは思わなかったけどね」
腹部から手をどかしかけた、その時である。
「あ、あれ?」
ぐにゃりと、グリの視界が歪む。
何の前触れもなく体中がカッと熱くなり、顔面や耳が火照り出す。
頭痛や吐き気が襲いかかり、足元がおぼつかなくなる。
「ど、どう、して……?」
不意の行動不能に陥ったグリは、鈍り出した思考を動かして探る。
一体何を? 毒も薬物も効かないはずなのに。
いや、違う。
これはそういった類がもたらす症状ではない。
身に覚えがあった。
そう、もっと身近なものだ。
この脳みそが麻痺したかのような状態は、一般人もよく経験している……
「毒でも薬でもない」
赤里が、何の感情も乗せずに言い放つ。
「君の大好きな魔法の液体だ。あの時の赤ワインじゃなくてウィスキーだけどな。まあそこは、翠佳の仕返し分だと思ってくれ」
「お、おさけ……?」
赤里はそれ以上何も答えず、注射針となったナイフを捨てて、くずおれそうになるグリの体を抱き留め、体を反転させた。
身を案じたというよりも、別の目的に用いるために。
「ここから出してもらいますよ、茶禅さん」
茶禅は何も言わず、銃を下ろした。
「あ、赤里ぃ……」
「大人しくしてろよ。大丈夫、子どもには影響ないはずだ」
熱っぽい吐息を漏らすグリの耳元へ、後ろから抱くようにしながら囁く姿は、状況によっては濃艶この上なく映るかもしれない。
襲いかかる赤里に対し、グリが本能的に腹部をかばった時点で勝負はついていた。
何せ、体のどこかに刺されば勝ちなのだから、ガードしようとお構いなし、むしろ絶好の的である。
後は茶禅の銃で、行動に支障の出るようなダメージを負わなければいい。
一瞬の攻防の結果は、総取りとは行かなかったものの、赤里の勝利という形に落ち着いたのだった。
「どこへ、行くの?」
「さあな」
行くあてなど特にない。
だがとりあえずはこのビルから出るのが先決だ。
肩の痛みに耐えつつグリや茶禅の動向に注意し、すり足でエレベータへと移動していく。
が、耳が微かな機械音を捉えて、足を止める。
すぐ後、二基あるうちの一方の扉が開かれる。
何者だ、と頭が考えるよりも先に、漏れ出た殺気を肌が感じ取り、無意識の回避行動に出ていた。
つい今まで赤里とグリのいた場所を、何発もの銃弾が通り過ぎていく。
そして標的に命中したかどうかを確認する暇もなく、不意の襲撃者四名は、赤里が投擲したナイフと茶禅の銃によって瞬く間に全滅させられた。
「だれ?」
「逆に俺が聞きたい」
赤里は死体に目もくれず、茶禅を見やるが、わずかに首を振られる。
二人の差し金ではないようだ。
気にはなったが、生憎とのんびり考察している暇はない。
ただ事実なのは、余計な敵が増えたということである。
赤里が舌打ちした直後、天井から声が聞こえてきた。
「ハハハハ、よくぞ不意打ちを凌いで見せた。流石は我が組織が誇る殺り手・赤里君だ」
単にそいつらの能力が低かっただけだ、と赤里は毒づきながらも、スピーカーを介して部屋中に響く男の低い声に聞き覚えがあることに気付く。
一度きり、しかもごく短時間しか聞いたことがなかったが、出来事の強烈さと関連していたため、彼の記憶から消えずにいたのだ。
だが、このように流暢な話し方ではなかったはずだ。
「是非ともボスを含めて、君たち二人と話がしたいな。ついては今私がいる場所、そこより一つ上のフロアまでお越し願いたい。エレベーターで上がってきたまえ。心配するな、待ち伏せはせん。待っているぞ」
それきり、男の声が途切れる。
「連れて行って」
ほとんど間髪入れず、グリが強い目で赤里を見、言う。
そこに先程までの弱体化した、不安定で危うい女としての姿はなかった。
「ボスとしての命令よ」
「承知しました」
赤里もまた、殺り手として真摯に彼女の命を受領する。
「相手が不穏な動きを見せたら、即始末して構わないわ。あなたの裁量に委ねる。あくまで任務達成が最優先。もし万が一……」
「……はい、全て仰せのままに」
付随した事項も含めて赤里は再度承服の意を示し、グリに肩を貸してエレベータに乗り込む。
「ボス、お気を付けて。……赤里、すまないが、頼んだぞ」
「お任せ下さい」
見送る茶禅へ宣誓し、扉を閉める。
「何でもいいからナイフを貸して」
籠が動き出し、ごく短い上昇感覚が体にかかる間に、グリは赤里からナイフを受け取り、自らの左腕を浅く刺した。
アルコールの作用か、白い肌から傷以上に多く血が吹き零れる。
痛みが全てを塗り潰していき、心身を覚醒させる。
「あなたの方は平気?」
目的階に到着し、エレベータが停止した時には、声にも張りが戻っていた。
赤里は言葉の代わりに、扉に隙間ができた瞬間に銃を撃ち、ナイフを投げつける。
エレベータのすぐ前には銀色の仕切りが立ちはだかっており、左右のいずれから回り込まないと奥へは進めないようになっている。
仕切りの前に作り上げられた四つの屍が、彼の答えであった。
「流石ね」
「改めて見事だと言わせてもらうよ。相手の言葉を鵜呑みにしないこともまた、殺り手としての心得だ。さあ、左右どちらからでもいい。進んできたまえ」
グリの賞賛に被さって、天井から発せられる男の声が二人を出迎える。
「行きましょう。大丈夫、この先は私の方がよく知ってるわ」
促され、赤里は油断なくファイティングナイフと銃を構えたまま歩き出す。
立場上、とりあえずはボスを守る必要があるため、彼がグリに先んずる形となる。
グリもまた、赤里から借りた同種のナイフを右手で、刃が小指側に来るよう逆に持ち、後をついていく。
「扉を開けて、通路をまっすぐ進むだけでいいわ。私が設置したトラップはないはずだけど、最低限の警戒はしましょう」
「詳しいですね」
「いつものように話してちょうだい。今までの関係に慣れちゃって、どうも調子が狂うから」
「分かった」
赤里も薄々そう思っていたらしい。
背中側にいるグリには見えなかったが、この時微かに笑みをこぼしていた。
「ありがとう。……もう気付いてると思うけど、最上階は普段私が使ってる部屋なの。私室も兼ねてるから、改装もしたのよね」
「そうなのか」
グリに言われた通り、仕切りの先にある扉を開ける。
普段はセキュリティロックがかかっているはずだが、この時は解除されていた。
当たり前のように待ち受けていた敵四人を赤里のみで片付け、分かりやすすぎるワイヤートラップを破壊して抜け、一直線に通路を進んでいく。
そして、突き当りに設置されている両開きの扉に手をかけ、一気に引き開いた。
赤里の目に映ったのは、およそ組織のボスという肩書きには不釣り合いな光景だった。
床一面には積もった雪のように真白い絨毯が敷き詰められ、壁や天井は薄紅色。
自分用や応接用に設置されている椅子や卓、棚などの備品も、白色のアンティーク調で完璧に統一されている。
窓にかけられたレースのカーテンが外界の無骨さを遮断し、天井の豪奢なシャンデリアが約十メートル四方の空間を煌びやかに彩る。
別室に繋がる横側のドアもわざわざ部屋の雰囲気に合わせて取り替えられている辺り、茶禅の和室のような中途半端さはなく、徹底した改装だった。
そして、そんなファンシーな部屋には不似合い極まりない存在が、部屋の中央で直立し、二人を見据えていた。
赤里も見覚えのある姿だった。
黒スーツにスキンヘッド、顔面に数多の傷を刻む、褐色肌の大男――
「よく来たな、赤里君。そして、ボス」
「……ブラ、だったか? 何故あんたがここにいる」
「下らない質問をしないでくれたまえ。ここのフロアこそ、私が身を置くに最も相応しいから、それ以外に何があるというのかね」
ブラは芝居がかった仕草で両腕を広げ、肩をすくめてみせた。
「冗談は格好だけにして欲しいわね。小汚い靴を履いて私の部屋へ勝手に上がり込むなんて、どういうつもりかしら? "元"ボスさん」




