12章『少女が灰になるまで』 その2
付随していた様々な疑問は尋ねないまま、褒められるだけ褒めてみた。
下げた後は上げる。
10代の頃、青依が偉そうに語っていた恋愛のセオリーを使ってみたのだが、果たして効果は……
「…………赤里って、少しはSな部分もあるのかしら?」
グリは目に涙を溜めたまま、少し照れ臭そうに笑う。
「そうね、確かにあの時は負けを認めたわ。……でも、私はまだ生きている! 生きている限り、チャンスは巡ってくるものよ! 一度ゲームオーバーになっても、またチャレンジすればいいじゃない! 見苦しくたって構わない! 赤里が私のものになって、愛してくれるなら……私も他人も、誰もかもどうなったって構わない! 恋が生み出す気持ちって、何よりも強いのよ?」
訳の分からないテンションで完全に開き直られる形になったが、赤里はまずまずだと自己採点し、心の中で青依に感謝した。
翠佳に矛先が向かないようにするという最優先事項は今の所満たせている。
「それで、また俺にゲームを挑もうってのか」
「そうね、それも面白いかも」
赤里の大胆な策は、概ね成功を見た。
だが、あろうことか、つい口を滑らせて出してしまった、たった一つの失言が全てを台無しにしてしまったのである。
「そんなまだるっこしいことをするより、いっそボスの権限で俺に命令したらどうだ。『自分と一緒になれ』ってな」
赤里がただ一つ見誤っていたのは、グリの女としてのプライドの高さ。
彼女を異性とみなしてはいたが、組織の人間としての度量、立場ばかりを見てしまっていたのである。
グリの表情が、一瞬にして凍り付いた。
「…………なにそれ。分かってないの? 私が今まで、絶対にそう言わなかった理由」
しまった、と思った時点でもう取り返しはつかない。
なお、赤里はまだ分かっていなかった。
「だったら、ボスとして命令してあげましょうか? 今すぐ翠佳を殺してきて。もちろん、お腹の子もろとも」
赤里に恋するパートナーとしてではなく、冷徹なる組織の長として、グリは無感情に宣告した。
とうに涙は消え、声色にも甘えや媚びは一切ない。
「断りはしないわよね。あなたは組織に忠実な"殺り手"なんだから」
赤里は唇を噛む。
自分のミスでまさかこんな展開になってしまうとは。すまない、翠佳。
このような状況でも彼は、我が身よりも彼女のことばかりを考えていた。
「そんな辛そうな顔をしないで、私の愛する赤里」
完全にスイッチが切り替わっているようだ。
演技じみた雰囲気さえ漂わせ、切なそうな顔を作ったグリはこの直後、更に彼を追い詰める言葉を幾度も突き刺してきた。
「このタイミングで教えるのは心苦しいけど、これは命令でも何でもなく、単なる事実よ。……今、私のお腹の中には、あなたの子どもがいるわ」
「なっ……!」
さしもの赤里といえど、この発言には絶句した。
思い当たる節はある。タイミングとしては、青依や翠佳との決闘前夜、作戦協力のための"取引"を行った時だ。
しかし、確実に避妊はしたはずだ。
「ごめんなさい、事前に細工をしておいたの。どうしてもあなたの子どもが欲しかったから。まさか一度で上手く行くとは思わなかったけど」
言葉とは裏腹に、グリに悪びれた様子はない。
見たところ、腹部はまだ膨らんではいないが……
「もちろん証拠はあるわ。ね、茶禅?」
「はっ。……赤里、ボスが妊娠しているのは事実だ。医師の検査結果もある」
任務の時とは異なる心のざわつき。
背骨、というより背筋に来る寒気。
着々と外堀を埋められていき、赤里の中で段々と焦りが募り始める。
「またボスに戻っていいかしら。……命令通り翠佳と赤ん坊を殺さなければ、お腹の子ごと、私も死ぬ。それでもいいの?」
好きにしろよ。
死にたければ勝手に死ねばいい。
俺には関係ない。
俺が大事なのは翠佳と、青依の忘れ形見である子どもだけだ。
そう言い返してやりたかったが、赤里にはそれができなかった。
心臓の不安定な脈動、強張る全身の筋肉が、そうさせてくれないのだ。
(なんだこれは。俺は、動揺してるのか?)
誰かを孕ませるという行為は、遺伝子の半分を受け継いだ存在を楯にされるという行為は、こんなにも気持ちを不安定にさせるものなのか。
初めての経験に戸惑いを隠せなかった。
「どうしたの? 早く私の命令に従うって言って。他人の女子供と私たちの赤ちゃんと、どっちが大切なの?」
グリは容赦なく、最悪の二者択一を突きつけ、いや突き刺してくる。
身籠っていなければ、あるいは彼女をこの場で殺すという選択肢もあっただろう。
「殺したくても殺せないの? 優しいわね」
皮肉半分本音半分といった塩梅で、グリが笑う。
「仕方ないだろう。いくらなんでも子どもをダシに命令してくるとは……」
赤里はもはや弱音じみた言葉を漏らすことしかできなかった。
それを聞いたグリは、再び感傷に溢れた表情を作り出し、一層赤里を責め立てる。
「私だって、本当はこんなこと言いたくないわ。赤里が……赤里がいけないのよ。あなたが、私の気持ちをちっとも受け入れてくれないから……おまけにプライドまで傷付けてくれちゃって……ううん、私だけじゃない。一番かわいそうなのはこの子よ……」
挙句の果てには、腹をさすりながらまた泣き出す。
この情緒不安定ぶりを見て、医師の証明などなくとも彼女の妊娠は確実だと確信する。
「ね、冷静に考えて。翠佳よりも私の方が魅力的よ」
危うさの極みに達したグリは、もうプライドも何もなく、なりふり構わなくなっていた。
「そりゃあ、胸の大きさでは負けるけど……他の部分じゃ負けてないわ。ほら、脚なら私の方が綺麗でしょ? 体毛だって薄いし、何より私の方があの人より若いじゃない。男の人って、若い子の方が魅力的に見えるんでしょ? ほら!」
立ち尽くす赤里の手を取り、無理矢理胸以外の全身をまさぐらせる。
熱さを伴う、シルクのように滑らかな柔肌に触れても、微かに湿りを帯びた特定の数ヶ所を指が通過しても、赤里は全く情欲を駆り立てられなかった。
それとは別に違和感が、焦りを大きく上回って顕在意識を支配する。
――変だ。
この異常なまでの執着、あまりにも不自然である。
生来の気質から来る偏愛というだけでは説明がつけがたい。
もう、聞かずにはいられない。
「どうして俺にそこまでこだわるんだ。俺のことをおかしいって言ったが、グリも相当おかしいぞ。妊娠だけが理由とは思えない」
支配されていた手を振りほどき、今度は逆に手首を掴み上げて赤里が詰問すると、グリは目を閉じて黙り込んだ。
指の腹に伝わる微かな脈動を感じながら、答えを待ち続けていると、
「…………あなたは」
グリが抑揚なく、
「あなたは……私を地獄から救い出してくれたヒーローだからよ」
正気の状態で理由を話し始めた。
私の実の両親は、最低の人間だったわ。
父親は娘の私に年端もいかない頃から手を出してきたし、母親はそれを見て見ぬふりするどころか、一緒になって面白がっていたし。
この辺はいくら赤里にも話したくないの。ごめんなさい。
思い出すだけで吐き気がしてくるから。
当時の私にはどうすることもできなかった。
生活できなくなる以前に、逃げられる訳がなかったのよ。
でも、ただ我慢しているだけなのも癪だったから、バレないように少しずつ力をつけていったわ。
いつか二人を殺して、監獄以下の最悪な、地獄みたいな環境を脱出できるようにね。
幸い、力をつける環境には困らなかった。
私の家は、金融業をしている裏で、武器や薬物を扱う仕事をしていたから。
適当に商品をくすねてトレーニングに使うのは、そう難しくなかったわ。
本当はそんな手順なんか飛ばして、一秒でも早く二人を殺してやりたかったんだけど、あの人達、自分たちに対するガードだけは異常なまでに固かったのよ。
でも、私の計画は失敗してしまった。
所詮は子どもの浅知恵でしかなかったんでしょうね。
暗殺を実行する直前の段階で、二人にあっさりバレて、徹底的に嬲られた。
体に傷は残らない、でも執拗で人の尊厳を踏みにじるような、下劣極まりない方法で。
あの時は、自力で息を止め続けてでも、本当に死んでしまおうかと思ってたわ。
でもやらなくてよかった。耐え続けてよかった。
死ぬのは怖いって思えてよかった。
だって……そんな時現れたのがあなただったのよ、赤里。
正確にはあなただけじゃなく、青依と翠佳も一緒だったんだけど、まあ、あの二人はあまり関係ないわ。
赤里が忌々しい手下たちごとまとめて、あの二人を殺してくれたことを知った時は、嬉しくてしょうがなかった。
もちろん私のためじゃなくて、ただ組織の仕事でやっただけなのは分かってる。
それでも私、すごく嬉しかったのよ。
当時、世界で最も憎んでいた相手を殺してくれて、地獄から出られて、自由にしてくれたのは事実なんだから。
え? 私はどうして一緒に始末されなかったのかって?
……青依と翠佳よ。
二人が細工して、私を死んだように見せかけて見逃してくれたの。
まったく"殺り手"らしからぬ、とんだ甘さよね。
おまけに再会した時も、私のことを全く覚えてなかったみたいだし。
状況が状況だったから、仕方ないんだけどね。
そうそう、二人への借りはこの間の"作戦"で返したから、問題はないわよね?




