11章『赤→緑→赤→緑青→赤←?』 その2
「私……あんたを利用してる。この子だけは、どうしても無事に産んで、育ててあげたいから」
「知ってるし、納得の上だ」
今更何をといった風に、赤里はテレビから目を離し、翠佳を見た。
「……それに、あんたのこと、恨んでもいないわ。不可抗力だってことぐらい分かってる。あんたは全力を尽くしたんでしょう?」
「無理するなよ。いいよ別に。俺は受け入れられるぞ」
「無理なんかしてない、と言いたいけど、お断りよ。……あんたを恨みたくないし、それに、彼のやってきたことを、無駄にしたくないから」
「そうか」
俺の出る幕はないな。赤里はあっさりと執着を手放した。
翠佳を慰めるのは、今も彼女の心で生き続けている男に任せればいい。
自分はこれまで同様、物理的に支えていけばいい。
同時に赤里は、翠佳がこのタイミングで大事な話を切り出してきた意味を悟った。
「そういえば、子どもの名前は決めてるのか」
「ええ」
水を向けると、あっさり乗ってきた。
こういう所が青依と似てるんだよなと、心中でほくそ笑む。
「で、どんな名前だ?」
赤里が重ねて尋ねると、翠佳は穏やかな声色で子の名前を答えた。
「彼と二人で考えたのよ」
「いい名前だな」
色が入っていないのは、つまりそういうことだろう。
「名前といえば、お前の方はどうするんだ? 組織を抜けたんだから、もう翠佳って名乗る必要もないだろう。ええっと、お前の元の名前って……」
「変えないわ。このままで行くつもり」
翠佳は、強い眼できっぱり告げた。
「青依と約束したの。名前を変える時は一緒に、って」
「そうか。じゃあ今後も翠佳って呼んでいいんだな」
「ええ」
本人がそれでいいというなら、拒む理由はない。
「……話を戻すけど、あんたに好きな仕事をすればいいって言ったのは、嫌味でも何でもなく本心よ。これまで散々人を殺してきて、とっくに汚れてる私が、あんたに綺麗事を言えるわけないじゃない」
「お前、本当に変な所でバカ正直だよな」
「うるさいわね、あんたがひねくれすぎてるのよ。それにまっすぐさこそが、いい女を輝かせる秘訣なの」
「なるほど、だからお前はまっすぐにサディスティックな性癖を出してたのか……っと」
顔面へ飛来してくる分厚い雑誌を、赤里は文字通り紙一重で回避した。
「カッカするなよ。お腹の子どもが泣くぞ」
にやつく赤里を、翠佳はしばし睨みつけた後、座椅子に手をついて立ち上がり、
「もう寝るわ」
と、声を低めて言った。
「お休み」
「明日は休みだからって、ダラダラ寝てたら頭を踏むからね。買い出しに行きたいものも色々あるんだから」
「ああ、この間も言ってたな。近所のホームセンターでいいか」
「ええ」
ついでにどこかへ寄り道していくか、と言いかけてやめる。
同居を初めてから腹が目立つようになるまでの間は、赤里の休日に時折どこかへ外出したりもしたが、最近は最低限に留めるようになっていた。
代わりに苦笑して手を振り、身重の幼なじみと、彼女の後をついていくビアンコを見送る。
彼女の寝室はこの居間とふすまで隣り合った場所にあり、赤里はいつもこの居間に布団を敷いて一人で眠っていた。
二階に行けば部屋はあるのだが、翠佳に何かあった時に対応が遅れがちになってしまうので、ここで寝起きするようにしていた。
一人になった赤里はテレビを消し、居間をぐるりと見回す。
いささか統一感に欠ける、生活感に溢れた空間を見ると、何故か心が安らぐ。
こうするのが無意識の内に、翠佳が寝床へ行った直後に行う赤里の日課となっていた。
台所の冷蔵庫から缶ビールを引っ張り出し、居間に戻って肴もなしにちびちびと飲む。
今頃翠佳は夢の中で青依と会えているだろうか、などと想像する。
そこから更に、想像は妄想へと発展し、かつてグリとの"ゲーム"で見せられた二人の情交が鮮明に蘇る。
しかし、見たままではダメだ。
もっと自分の都合のいいように変換せねば。
翠佳の見る夢を考えていたはずなのに、いつしか自身を主体とした夢想にすり替わっていた。
正直、翠佳を全く欲しいと思っていないといえば嘘になる。
あの時こそ落ち着いていたが、実際に二人きりで過ごすようになった現在は、欲望が高まって暴れ出しそうな夜もあるのは否定できない。
今夜もそうだ。
寝ている翠佳に覆い被さって無理矢理口を塞ぐが、手加減はするため、すぐに突き飛ばされる。
そして始まる罵倒を無様に寝転がったまま浴び、身も心も昂らせつつ、必死に懇願する。
彼女は最初、耳も貸さないが、しつこさにやがて根負けして、本来の支配欲に身を焦がしながら自分を下位存在のように操って体内へ受け入れるのだ――
こんな妄想を何度となく繰り返したにも関わらず、表に出さずに抑え込むことができていたのは、一言で言うならば今も薄れない、親友・青依に対する誠意であった。
加えてゲームの際、一度見ただけで完璧に記憶してしまった"映画"を改めて最初から鮮明に脳内再生すると、自然と情欲は鎮まっていった。
――これくらいは許してくれよ。
赤里は顔を歪めて、虚空に向かって缶ビールを掲げ、残りを一気に飲み干した。
この夜、赤里は夢を見た。
いや、正確には夢というより、実際過去に起こった出来事へ脚色を加えて再上映した創作といった方が近いかもしれない。
組織の"恋愛禁止"の掟が消滅したすぐ後。
親友に先を越されてなるものかと、赤里はすぐさま、かねてより想いを寄せていた翠佳へ好意を打ち明けたのだが、あえなく撃沈してしまった。
以前から彼女の気持ちが青依に向いているのは薄々分かっていたから、傷付くどころかむしろ清々した。
だからこそ、本音混じりの冗談を言ったあと、こう誓ったのだ。
「……大丈夫だ。俺は、傷付いたりなんかしない。何があってもな。青依を支えてやれ。俺は、お前たち二人を助けてやる。これからもずっと――」
そこまで言って、赤里は思い出してしまった。
告白と誓いの日から更に先の未来で起きた事件のことを。
「……いや、違う。偉そうなことを言っときながら、結局二人を助けてはやれなかったな。すまない……」
「どうして謝るのよ」
スーツ姿の翠佳は、赤里の頭を胸で挟むように抱きしめ、優しく語りかける。
「あんたは精一杯やったじゃない。私たちに気付かれないように一生懸命になって、憎まれ役を買って、顔に深い傷までつけて」
「結果を出せなきゃ意味がないだろ」
赤里は、翠佳の慈愛の抱擁を己が意志で外し、かぶりを振って唇を噛んだ。
「まったく……あんた、強すぎるのよ」
「強かったら青依を助けられてたはずだ」
「そういう問題じゃなくて。いい? 怒らないで聞いてくれる? 赤里、あんたは強いわ。力だけじゃなくて精神的な話よ」
突然に翠佳の台詞が、創作から事実に切り替わる。
「訓練時代だって一度も弱音を吐かなかったし、仕事も仕事として全部割り切っちゃえるでしょう? ……私や青依は、それができないのよ」
「それは単なる性格の違いだろ。俺から見たら、お前たち二人の方がよっぽど強く見えるんだぞ。家族のために全てを覚悟して、捨てて、組織から逃げ出すなんて、俺には到底できない」
赤里は、未だ現実世界では本人に伝えていない気持ちを口にした。
「誤解よ。私たちは弱いから逃げたの。弱いけど、強くならないと守りたいものを守れないから、一生懸命強くあろうと振る舞ってただけ」
「だったら、俺が弱かったら、お前は俺を選んでくれたのか?」
尋ねてみるが、翠佳は困ったように笑いかけるだけだった。
恐らく赤里の中のデータベースに、このようなケースの対応はプログラムされていないのだろう。
エラーの産物か、夢特有の曖昧な時系列のせいかは不明だが、翠佳はいつの間にかゆったりした寝間着に着替え、厳しい顔つきで聞いてきた。
「あんた、ある日突然私がいなくなるとか考えないの。想像力、ある?」
「考えるさ。翠佳がそうしたければすればいい。止めも探しもしない」
「それがあんたの強さよ」
例を出されても、赤里にはとんと理解できなかった。
偶像の翠佳といえど、流石にこれには呆れてしまう。
「ほんっっと、バカね。強いバカって最悪よ。始末に負えないわ」
「おいおい、そこまで言うか」
「もっとバカ向けに噛み砕いてあげましょうか? もし今、仕事をやめて私と一緒に組織から逃げてって言ったら、逃げてくれる?」
「ああ、いいよ」
これまた即答をした所で、段々と意識が現実の方へと戻っていく。
翠佳も、見たことがない曖昧な景色も、全てが薄れて消えていき、霧散してしまう。
現実の翠佳が自宅からいなくなったのは、目覚めてから更にしばらくの時が流れた後のことであった。
「――私が恋しいからって、泣くんじゃないわよ」
ベッドの上で、翠佳が汗を浮かべながら空威張りするのを見て、赤里は思わず鼻で笑ってしまった。
「家にあるお前の枕を、涙と鼻水でベチャベチャにしといてやるよ」
「お好きにどうぞ。捨てるから」
「そりゃ困るな」
捨てるという言葉の意味を別に取り、赤里は肩をすくめる。
翠佳が家からいなくなったのは何ということもない。
いよいよ出産が近付いてきて、入院することになったからだ。
この産婦人科もいわゆる闇系の病院であり、人には言えない様々な事情を抱えた者たちが分娩、あるいは中絶を行う場所となっていた。
出産というイベントに関わるのは二人とも初めてだったが、そうとは思えないくらい落ち着いていた。
事前に必要事項を全て調べ、手配も済ませ、ここまでスムーズに事を進めてきた。
組織で培った、簡単に物事に動じない精神力や手際の良さが、思わぬ形で発揮されたのである。
「どうだ、子どもの調子は」
「早く出せって言ってるわね」
「お前たちの子らしいな」
元気な子を産めよ。
最後にフィルムノワールの登場人物のように渋い笑いを交わし合って、赤里は部屋を出た。
細い通路を抜け、ひどく狭い待合室に差し掛かった所で、ポケットの中の携帯電話が振動し始める。
出産を祝う人間どころか、ろくに友人もいないのに、一体誰だ。
ポケットから電話を出した瞬間、不健康そうな顔をしている受付の女が露骨に嫌な顔をする。
赤里は片手を上げる合図をして足早に外へ出、通話を始めた。
「久しぶりね、赤里。私のこと、まだ忘れていないわよね?」
「……グリ」
電話の主は、かつて短期間、幼なじみ抹殺のための任務を共にしたパートナーだった。




