11章『赤→緑→赤→緑青→赤←?』 その1
「赤里、なに見てるの?」
「歩行者信号」
「え? ……やっぱり赤里って変人よね。信号なんか見つめて、どこが面白いの?」
「俺達とちょっと似てないか。赤と緑が、交互について、消えて」
「頭、大丈夫? ぜんぜん意味がわからないんだけど。そもそも信号って緑というより青じゃない?」
「俺は緑派なんだよ」
「どうでもいいわ。はぁ、あんたと話してると、時々頭が変になるんじゃないかって思えてくるわ」
「俺の芸術的感性を理解できないとは……まだまだだな」
「あんたの感性を無理にわかろうとするくらいなら、押し売りの怪しいツボをおがんでた方がマシだわ。ま、青依にでも理解を求めれば? ムダな努力だろうけど」
「そうするよ。俺達二人が信号同盟を組んだら、お前は仲間はずれだからな。覚悟しとけよ」
「どうもありがとう。死んでも入りたくないわ」
赤里は、黄色信号の中途半端さがどうにも許しがたいという奇妙な価値観を子どもの頃から抱いていた。
しかし今に至るまでそれを理解してくれるものはいなかった。
翠佳も青依も、茶禅さえも引きつった顔をするばかりで、そのうち誰にも話さなくなった。
何故このようなことを今になって思い出したのか、当の赤里本人にも分からない。
信号機など外に出れば毎日見られるというのに。
今こうして自宅に帰る途中の車内でも、嫌というほど目撃している。
答えなど出ぬまま、自宅に到着した。
この庭付きの小さな一軒家を見ても何も感じなくなったのは、ようやく新居に慣れてきた証拠だろう。
あの日行った"ゲーム"を経て、翠佳に寄り添って護り続ける決意を表明して別れた時以来、グリとは顔を合わせていない。
あんな性格の持ち主である。激情に耐え切れず訪問、襲撃を仕掛けてくるケースも危惧していたが、今の所そのような事態は起こっていない。
一応、備えは常に怠ってはいなかった。
グリと別れて少し経った後、翠佳は無事に意識を取り戻した。
その当日の内に、赤里は本人から尋ねられるよりも早く、自分たちが目論んでいた作戦、および青依についての顛末を告げた。
表情こそ包帯に隠されて窺い知れなかったが、全てを聞かせられた後も、翠佳は異常なまでに落ち着き払っていた。
ただ『そう……』などの短い返事を数パターン繰り返すのみで、赤里に対して一切の憎しみを見せることもなかった。
一緒に住もうという申し出も素っ気ない二つ返事で受け入れられ、組織側からも茶禅を通じてお墨付きをもらうことができた。
更に茶禅は、確かに翠佳は一度死亡したということで始末はついたため、これ以上組織が干渉する意志はないとだけ語り、以降は彼女の話題を一切口にはしなかった。
結果的には赤里の考えていた屁理屈がまかり通り、筋書き通りに事が運んでしまったのである。
退院までまだ日があるにも関わらず、赤里は早速、先日急遽決定した通りこれまで住んでいたタワーマンションの部屋を引き払い、翠佳のために郊外の小さな一軒家を購入し、一緒に住む手続きを取った。
厳密には、翠佳に宿っている命を除外しても二人暮らしになる訳ではない。
赤里の飼い猫・ビアンコも、新居へ連れていくことにしたからである。
赤里は新しい環境整備を進める傍ら、組織から与えられる任務も淡々とこなし続ける。
顔の傷を理由に休暇を取ることも可能だったが、少しでも多く稼いで蓄えを作っておきたかった。
なにせ、これからは自分一人のために金を使う訳にもいかない。
それに体を動かしていると、何故か精神が安定するというか、落ち着く。
赤里は、更に並行して翠佳の見舞いも毎日のように行っていた。
『あんたの顔を毎日のように見たくないから、あんまり来ないでくれる?』
と冷たくあしらわれても、行かずにはいられなかった。
自分がいない時の彼女の様子を闇医者に尋ねてみたが、別に精神的に不安定になっていたりはしていないようだ。
泣きもせず、怒りもせず、やはり異様なまでに落ち着き払って、植物のように日々を過ごしているらしい。
それでも、放っておくという選択肢が中々取れなかった。
ある日突然、衝動的な行動に出られてしまうのも良くない。
翠佳には若干そういう傾向があることを、赤里は知悉していた。
矛先を自分に向けて、適度に鬱屈した感情を発散してくれたらという考えもあった。
感情の矛先といえば、顔を徹底的に痛めつけたグリに対しても、一切の感情を示す様子はない。
彼女について一言も尋ねもせず、また彼女の影に怯えもしていないようだ。
更には一切のコメントを拒否する空気が流れていたため、赤里もあえて問い詰めたりはしなかった。
仮に聞くにしても、回復して子どもを無事出産させてからの方がいいだろうと考えた。
赤里の傷よりも大分遅れたものの、翠佳の顔は時間の経過と共にみるみる元の美しさを取り戻し、痕も闇医者の技術で完璧と言っていいくらいに消されていった。
それに反比例して、最初は一見妊娠しているかどうか分からなかった腹が、段々と膨らんでいく。
そして、
『うちは産婦人科じゃない』
という闇医者の一言で、めでたく翠佳は退院となった。
治療費は全て赤里が支払ったが、翠佳から礼を言われることはなかった。
当たり前だと赤里は考えていたため、特に引っかかりもしなかった。
新居へ向かう車中、翠佳に笑いながら言われた言葉は、何故か赤里の頭に深く焼き付いていた。
「ボーっとした顔が、少しは凛々しくなったんじゃない」
不愉快になったのではなく、好きな相手に褒められて嬉しかった訳でもない。
強いて理由付けするならば、"三人"の絆を改めて確認することができたから、だろうか。
闇医者に頼めば、翠佳のように傷痕を限りなく薄くすることもできたが、あえてそのままにしておいて良かったと思う。
上司の茶禅には了解を取ってあるし、"殺り手"は表立った仕事ではないため、大きな支障もない。
翠佳は新居の住み心地に、大いに満足していた。
赤里が彼女の意見を大々的に取り入れたのだから、当たり前の反応といえばそうなる。
生活家電などは赤里と翠佳の家にあったものをそれぞれ持ち込み、その分の費用が浮いたため、赤里は当初もっとグレードの高い住宅を選ぶつもりだったのだが、
「勿体ない」
「贅沢しすぎ」
「あんたって本当、お金の使い方がなってないわね」
と散々に駄目出しを食らい、この少々年季の入った中古戸建てを選んだのである。
そういえば昔からケチケチしてる所があったよな、と赤里は己の浪費癖を棚に上げて思う。
とはいえ、庭やカーポートはついているし、立地も閑静な住宅街の中で、環境はすこぶる良い。
元々高級志向に執着している訳ではなかったこともあり、赤里も大きな不満はなかった。
そして、更に数ヶ月が経過して――
赤里は車をカーポートに駐車し、この間錆を落として油を差したばかりのドアを開け、家の中に入る。
出迎えてくれるものは誰もいないが、左手すぐの所から明かりが漏れているのが見えた。
薄暗い玄関で靴を脱ぎ、その居間へ直行し、ふすまを開くと、六畳の和室の奥側で髪の長い女が座椅子に座ってテレビを観ていた。
「ただいま」
「冴えない顔が疲労でますます冴えなくなってるわよ」
顔面にまだわずかな傷痕を残している女――翠佳は赤里を一瞥した後、鼻で笑って再びテレビに視線を戻す。
このように帰宅後声をかけても、まともな反応が返ってきた試しがないが、赤里は特に気にしない。
長く美しい髪を下ろし、ゆったりした寝巻きを着ている翠佳の足元では、白猫のビアンコがだらしなく体を伸ばしている。
ビアンコは以前から翠佳に対してはよくなついていた。
そして本来の主である赤里には相変わらずツンツンした態度を取り続けていた。
こうやって仕事を終えて帰宅しても、出迎えるどころか反応さえしてくれない。
「夕飯、台所に置いてあるから」
「ありがとう。いつも悪いな」
「別に、ただのついでよ。洗い物は自分でやるのよ。あとあんたの服はちゃんと別のカゴに入れておいて」
「分かってるって」
「そう言っときながら、あんたの靴下、私のカゴに入ってたんだけど」
すいませんね、と答えた後、赤里は居間から台所へと移動し、明かりをつけた。
冷蔵庫の駆動音が低く唸る中、鍋から微かに漂うみそ汁の香りを嗅ぐと、仕事で忘れていた食欲が喚起される。
シャワーを浴びてから食べようと考えていたが、急遽順序を入れ替えることにする。
鍋に火をかけつつ炊飯器から米をよそい、卓上に置かれていた豚の生姜焼きやほうれん草のおひたしのラップを外していく。
最後に、温まりきっていないみそ汁をよそって、赤里は一人で夕食を取り始めた。
やっぱり翠佳は料理が上手いな。
胃袋から込み上げる幸福感が、箸を動かす手を止めさせず、みるみるうちに完食してしまう。
言いつけ通り洗い物を済ませて、次は浴室へ向かう。
洗面所兼脱衣所には既に赤里の部屋着が、肌着と一緒に畳んで置かれていた。
指示通り、脱いだ服は赤と緑の二つあるカゴの内、赤い方に入れる。
翠佳が洗濯物を区別するのは、男と強く意識しているからではない。
赤里には分からなかったが、彼女は鼻が利くようで、"仕事"の残り香が嫌なようだ。
それでも洗濯自体はきちんとやってくれているのだが。
滑り止めマットの敷かれた、さほど広くもない浴室に入るたび、少し不便だとうっすら思う。
今まで住んでいたマンションとは異なり、自動機能は一切ないし、浴槽には足を伸ばしてくつろぐスペースもない。
もっとも、基本的に湯船に浸かる習慣がないため関係ないのだが。
ケチをつけるなら、せいぜいシャワーの水圧が弱いのが物足りない程度だ。
赤里は手早く全身を洗って浴室を出、部屋着を着て髪を乾かし、台所で水分補給をしてから居間へと戻った。
飽きてしまったのか、翠佳は既にテレビを消し、座椅子に座ったまま雑誌に目を通していた。
「今日の飯も美味かった」
「そう」
すげない態度にも赤里は気分を害さず、悠然とした態度を崩さない。
折り畳みテーブルの傍に座り、聞く。
「テレビ、つけていいか」
「どうぞ」
別に見たい番組はないが、惰性で何となく電源を入れてしまう。
デフォルトで映っていたニュースをそのまま見続けることにする。
当然ながら、殺り手の仕事や組織について表立って取り上げられることは一切ない。
誰が死んだとかどこで事故が起こったとか、毎日よくもまあネタを引っ張ってくるものだと、赤里は完全に他人事として眺めていた。
「あんた、まだ今の仕事を続けるつもり?」
不意に、翠佳が質問してきた。
赤里は天気予報を見ながら、やや気が抜けた風に返す。
「ん? ああ、俺にお似合いの天職だからな。辞めて欲しいのか?」
「別に。好きにすれば。そもそも私には何も言えないもの」
実の所は辞めて欲しいんだろう、とは考えなかった。
口では遠慮しつつも実際はしないのが、翠佳という女だからだ。
だが、一体どうしたんだ、とは思う。
同居を始めてからそれなりに月日が経ったが、こんなことを聞いてきたのは初めてだ。
「一つだけはっきりさせといてあげる」
翠佳はそう前置きした後、少し言い辛そうに言葉を続けた。




