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10章『桃色遊戯』 その2

 注がれる音だけで行為の完了を確認し、グリに一瞥もくれず、ジュース入りのグラスを掴んで胃に流し込む。

 甘酸っぱい味と胸の内にある気持ちが、図らずもシンクロしてしまって、少しだけ何とも言えない気持ちになる。


 青依と翠佳は、一缶ずつしか飲まなかった。

 青依はともかく、うわばみの翠佳があれだけとは珍しい。

 いや、もう体内に命を宿しているからか、と考えていると、


『まだ大丈夫だっけか』


 青依がやにわに翠佳を抱きしめ、問いかけていた。


『……ええ、本格的に大きくなるまでは平気』


 翠佳がしおらしく頷くと、青依にそっと唇を塞がれる。


『んっ……はぁ……』


 それを合図に、二人の睦み合いが始まった。

 いくら三人が懇意の間柄で、思春期には年相応の猥談をしたことがあったとはいえど、互いの性生活にまで赤裸々に話したことはない。

 言葉というプロセスを一足飛びに、誰にも見せるはずがなかったはずの秘め事が、最も親しい幼なじみである赤里の目に晒されることになったのだ。


『待って、シャワーを浴びないと』

『そんなのいらねえよ』


 愛する男から一枚ずつ強引に、それでも優しさを伴って服を脱がされる翠佳だったが、満更でもないようで、本気の抵抗はしない。


『青依も脱いでよ』


 二人はじゃれ合いながら、脱衣ゲームに興じていた。


 そして赤里はこの時初めて、翠佳の無防備な全てを目撃した。

 豊かな二つの山から腰のくびれ、カーブを描く臀部まで……


 体が熱い。

 ただし熱源は赤里の内側ではなく、隣に寄り添うグリからであった。

 冷やしたいのか、それとも熱を伝えたいのか、彼の首っ玉へしがみつき、甘い吐息を漏らし始める。


 暑苦しい。どいてくれ。画面に集中できない。

 無意識の咳払いとしてそれらの意思を示していたが、グリは離れなかった。


 画面の向こうでは、"前準備"がじわりじわりと進んでいた。

 この時点で赤里は、どんな官能的な映画よりも惹きつけられるものを感じていた。

 だが、嫉妬心はおろか、特に欲情もしなかった。

 豊満な肉体を親友が一人占めしていようと、心が大きく動きはしない。


 後ろ暗い感情の湧き立つ場所を探すとするならば、ただ一ヶ所。

 それは、二人は二度とあのような幸福感を共に味わえない、そのことに対する申し訳なさであった。


 ――俺が救えていたら……すまない……


 しかし、そのような罪悪感もすぐに消える。

 全ての準備が終わり、ついに本領。

 愛と、労わりと、歓びの交錯が始まった。


 赤里は瞬きを忘れるほど目を見開いて眼前のショウを焼き付けていたのだが、既にどこか失望し、醒めていた。


 何だよ、その姿は。

 お前にそんな振る舞いは似合わないだろう。

 お前は誰かに従順になって奉仕するような女じゃない。

 もっと傲慢に、女王のように。

 そんな中時々見せる甘さや隙がいいんだろう。お前らしさだろう。


 俺が惹かれたのは、お前のそんな所だったのに……


「…………赤里」


 外面的には永久氷壁と化していた赤里の代わりに反応していたのは、グリの方だった。

 すがりついたまま、彼の顔の近くで大粒の涙をはらはらと振りこぼし、微かな嗚咽を漏らし始める。


「本当に……何も、感じないの……?」

「体に聞いてみろよ」


 すげない言い方だけで、大方を察した。

 その瞬間、グリの胸中で突然野獣じみた衝動が爆発を起こし、赤里を横に突き飛ばす。

 赤里は思わず短く声を上げてしまうが、幸い柔らかなソファが衝撃を吸収したために痛みはなかった。


「いきなり何をす……」


 だが驚いたのは事実だ。

 抗議しようとしたが、遮られてしまう。

 すかさず覆い被さったグリが、唇を重ねてきたのである。

 舌までねじ込んでくるが、赤里は歯をがっちり閉ざして防御する。

 嫌悪感というより、反射的にそうしてしまったのだ。


 グリはすぐに侵入を諦め、顔を離した。

 その後すぐ、両者の唇の間に薄く張られた糸にも構わず、赤里を下敷きにして突っ伏し、


「う……うわああああん!!」


 大音声で泣き始めた。

 防音は完璧なマンションだから苦情は来ないだろうが、至近距離でこれはきつい。

 一種の拷問に近いと、赤里は顔をしかめる。

 だがグリがやめる気配はなく、


「バカぁ! 赤里の大バカぁ! 鈍感! とんちんかん! 朴念仁! 唐変木! 不能! 不感症!」


 思いつく端からの罵倒を浴びせる。


 赤里は腹を立てたりはしなかったが、物理的に耳を痛めつけるのは勘弁して欲しいとぼんやり思う。

 おまけに脇腹まで痛くなってきた。

 グリが駄々っ子のように、小刻みなブローを左右交互に連打しているのだ。


 赤里がやめさせなかったのは、未だゲームは続行中だと思っていたからだった。

 テレビでは青依と翠佳のやり取りがいよいよクライマックスを迎えようとしていたが、二人のギャラリーは既に見てもいなかった。




 赤里が放置という選択を取ったのは賢明だったと言える。

 思いのほか短時間で、グリの爆発は一時的に収束した。

 青依と翠佳も既にピークに達して欲求は下り坂、余韻に浸りつつ互いに抱き合っていた頃合いである。


「…………くやしい」


 泣きはらした顔のグリが、掠れ声で呟いた。


「ここまで何をやっても意味がないなんて……くやしくてしょうがない! 好きになってもくれないし、憎んでもくれない……あなたにとって私って、本当にどうでもいい存在なのね。こんな思いをするくらいなら、いっそ死んだ方が……!」

「そうでもないぞ」


 赤里はグリの背中に片手を回し、体を起こす。


「俺的には悪くないゲームだった。いや、感謝してるぐらいだ。改めて気持ちが固まったからな」


 笑いかけて、彼女の頬を伝う涙を指で拭う。


『翠佳のやつは、お前の方を好きだったんだよ』


 グリとのゲームで見せられた映画は、赤里の胸の奥底に灯るわずかな希望を吹き消すには充分すぎる威力だった。

 翠佳が愛する男は生涯でただ一人、青依だけだ。

 改めて、完膚なきまでに思い知らされた。


 しかし非情なまでの現実描写は同時に、より純度の高い覚悟を赤里の中で精錬させたのである。


「反応したといえばしたかもしれない……」

「いいわよ別にそんな風に慰めなくたって! どうせ、どうせ私なんか……! 赤里だってどうせ、翠佳を好きな気持ちは変わってないんでしょ!?」


 演技ではなく、本気で泣きじゃくっているグリだったが、頭の芯はどこか冷静だった。

 何をどうしようと、赤里の想いが不変であることは前々から知っていた。

 こんな下らないゲームをしても意味がないどころか、自分が惨めになるだけだ。


 でも、それでも、縋らずにはいられなかった。

 もしかしたら、ほんのわずかでも、赤里が心変わりをして、すぐそばにいる自分を見てくれるかもしれない――


「そうだな。悪いけど、そこはきっと変わらないよ」


 赤里の表情は少しだけ柔らかだったのだが、涙で視界を歪ませていたグリにはよく見えていなかった。

 ただ言葉による事実だけが淡々とストレートに、耳から脳へ入っていく。


「俺の決心は変わらない。俺は、青依の代わりに翠佳を守って生きていく。触れられなくても、報われなくても構わない。それが俺の今、心からやりたいことだ」


 すっかりくすんでしまっていたグリの心へ、更に後悔ばかりが押し寄せてくる。


『今その時、本心からやりたいことをただやればいいのよ』


 あの時、あんなことを言わなければよかった。


「……罪滅ぼし、じゃないの?」

「ないと言えば嘘になるな。でも一番強い動機は、俺がやりたいと思ったからだ。あいつを一人で放ってはおけないからな」


 相手から拒まれる可能性さえも失念するほど、この時の赤里は頑迷であった。


「…………はぁ」


 深いため息と共に、グリの魂の大部分も流出してしまう。

 それでも涙は止まらないし、泣きすぎて痛くなってきた頭も一向に落ち着いてくれない。


「私が言うのもなんだけど、あなた、相当頭おかしいわよ」

「知ってる。ついでに俺からも言わせてくれ。趣味の悪い映画をどうもありがとう」

「どういたしまして」


 グリは笑顔を作ったが、無理矢理表情筋を動かしたため、人形のような美貌が台無しになるほどひどく歪なものになる。


 ここで赤里の視線がグリの右手に移る。

 いつの間に抜き取っていたのか、赤里のナイフが握られていた。


 と、瞬間移動のような速度で切っ先を眼球のすぐ目の前まで突きつけられる。


「いつも人を切り刻んでいる刃が、自分に向けられた気分はどう?」

「別に何も」


 赤里は動じなかった。


「あなたと翠佳が一緒にいることを、組織やボスが許さなかったら、どうするの?」

「その時はボスと戦うのも有りかもな。それくらいしてやれば、青依も浮かばれるだろう」

「…………分かったわ。もういい、好きにして」


 そんなことするのは無意味よ、と言いたくなるのを抑えて、グリは静かにナイフを下ろし――おもむろにリビングの隅へ思い切り投げつけた。

 そこにはビアンコが丸まって眠っていた。


「フギャッ!?」


 けたたましい金属音の直後、ビアンコは心臓をひっくり返す勢いで鳴きながら飛び上がり、一目散に逃げ出していく。

 商売道具を投げるなと赤里は咎めようとしたが、少し寂しそうに目を細めてナイフだけが残った部屋の隅を見つめているグリを見ていると、不思議と何も言えなくなってしまった。


「赤里が買ってくれた服、まだあるかしら」

「ああ、空き部屋に置いてある」

「もらっていっていい?」

「いいも何も、君のものだ」

「……バカ」


 せっかく捨てずにおいたのに心外だ、と不服に思ううちに、グリが糸で吊られたような動きで立ち上がる。

 そのまま生気を感じさせない、足を引きずる歩き方で赤里から遠ざかっていく。


「このゲーム、私の負けね」


 無言で、無表情で見送っていた赤里に対してパートナーが零した、最後の言葉だった。

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