10章『桃色遊戯』 その1
「赤里」
「なんだ青依、改まって」
「正直に答えろよ。お前、女とやったことあるか?」
「ああ」
「マ、マジかよ! だ、誰と!?」
「店で。名前は忘れた」
「……なんだよ」
「こっちの台詞だそれは。あからさまに失望しやがって」
「いや、まあその、すまん」
「逆に聞いていいか。何で急に赤裸々トークを振ってきた」
「あ、あー、ちょっとさ、もしお前が先を越してたらさ、参考にしようかと思ってさ」
「……俺じゃなくて、もっと適役がいるんじゃないか。嫌味じゃなく」
「お前以外誰がいるってんだよ」
「意味が分からないな」
実は無断で外出していたのだが、医者にそれを咎められることはなかった。
それどころか、昼前には早くも赤里の退院許可が下りた。
現時点ではもう手を施せるところもないため、あとは定期的に通院するだけでいい、とのことだ。
未だ絶対安静が必要である翠佳のことが気になりはしたが、まさか快復するまで居座る訳にもいかない。
この闇医者、腕やプロ意識は確かで、払うべきものを払えばきっちりと仕事をしてくれる信用に足る人物であると、赤里は短時間の交流で得心していた。
彼女の意識が戻ったら一報入れてくれるよう頼み、治療費を支払った後、赤里とグリの二人は車に乗り込んだ。
赤里とグリ、二人の任務打ち上げ兼偲ぶ会は、予定通り赤里のマンションで行われることになった。
帰路の途中、グリが一人で幾つかの店に寄って適当に飲食物を買い、懐かしい、というにはさほど日数の空いていない家へと戻る。
「ニャァ~ン」
ドアを開けた瞬間、間延びした猫の声が出迎えてきた。
飼い主の赤里ではなくグリを。
「久しぶりね、ビアンコ。元気だった?」
ビアンコを一撫でして抱き上げ、グリは屈託のない笑顔を作る。
赤里はため息一息、さっさとリビングへ向かい、荷物を下ろしてチェックを行う。
どうやら組織の人間はきちんとビアンコの世話をしてくれていたようだ。
綺麗になっているトイレを見て、満足げな顔をする。
実際はリビング全体や空き部屋、トイレなども掃除されていたのだが、そこまでは目が行っていなかった。
時間はまだ昼間だったが、ビアンコを伴ったグリがリビングへやってきた時点をもって、会の開始となった。
酒ではなくぶどうジュース、肴の代わりに菓子を並べ、五秒ほど黙祷した後乾杯して、どちらともなく適当につまみ始める。
こんな場合、一般的な男女関係であれば気まずさが勝って、和やかに過ごせるはずなどないのだが、この二人は常人とは異なった性格・感性の持ち主であるため、
「赤里はこのクリームサンドクッキー、どうやって食べる派?」
「牛乳に漬けて食べる派だな」
「そういう人ってよくいるけど、冒涜にしか思えないわ。サクサクした食感が楽しめないじゃないの」
「それをフニャフニャにするのがいいんだろ」
「……っ、やっぱり美味しくないじゃない」
「ぶどうジュースに浸せば、そりゃそうなるだろう。食感以前に相性の問題だ」
帰り道の車中同様、折を見て他愛のない会話を交わし合っていた。
それでも出会った日の夜とは違い、二人は手を伸ばさなければ届かないくらいの距離を置いてソファに座っていた。
加えて、時間が経過すると会話量も段々と減少していく。
ただ、このように控え目な雰囲気の方が故人のためには相応しいと、赤里は思う。
彼は親友の喪失を冷静に受け止めていた。
決闘中、橋から川へ落としてしまった時がピークで、そこからは悲しみが指数関数的に薄れていっていたのである。
むしろ喜んでいるのではと、何度か自己の心に毒を含んだ刃を突きつけてもみたが、答えはノーだった。
本心は、これで翠佳を一人占めできたという卑しい邪心ではなく、幼なじみ二人を生きて添い遂げさせてやれなかった後悔、せめて翠佳と子どもを護ってやろうという贖罪。
そして、そこを通じて、少しでも心を通じ合えればという純愛であった。
夜中に立てた誓いと、些かのズレもない。
ベランダから一望できる空と街の色がオレンジに変わりかけてきた頃、前触れなくグリが立ち上がる。
トイレか? と赤里は思ったが、違うらしい。
景色を見たいらしく、窓際で彼に背を向けて静止する。
「……一つ、また告白してもいい?」
そのまま、静かな声色で話し始めた。
「今だから言うけど、あの港町に行く直前におそばを一緒に食べたでしょう? 実はあれ、全然美味しいなんて思ってなかったの」
「ああ、あれか。だよな。俺もあれは無しだと思う。蕎麦に対する冒涜だ」
舌に不快感を蘇らせながら、赤里は彼女に好印象を抱く。
「ほんとにそうよね。……ううん、そんなことはどうでもいいの」
グリは軽く首を振り、赤里に向き直った。
「ねえ赤里。今から余興代わりに、簡単なゲームをしましょう」
「ババ抜きでもするのか? あんまり自信がないんだよな……それともツイスターゲームか?」
「いいえ、もっと刺激的な内容よ」
グリは猫のように音もなく赤里に急接近し、彼の顔を覗き込む。
「ゲームの内容は簡単。今から私と一緒に"映画"を観て、最後まで赤里が何も反応しなかったら、あなたの勝ち。反応したら私の勝ち。そんなに時間は取らないから安心して」
「賞品は?」
「私が勝っても、何もいらないわ。あなたが勝ったら……今後、好きにしていいわよ」
「誰とどうしようと俺の自由、ってことか」
グリは、頷いた。
「……分かった、乗った。だが俺だけが得をして、リスクがないってのもスッキリしないな。こうしよう。グリが勝ったら、今後俺のことを好きにして構わない。君にずっと従う」
「意外と律儀なのね」
「仕事とプライベートは別だ。遊びはなるべくイーブンな条件でやりたいんだよ。その方が面白いからな」
ここへ来て愛するパートナーの新たな一面を知ることができたにも関わらず、グリはさして嬉しそうな様子を見せない。
むしろ冷ややかですらあった。
「……ねえ、だったらもし『死んで』って言ったら死んでくれるの? 『翠佳を殺して』って言ったら、殺してくれるの?」
「俺が勝った場合、グリが本当に俺を好きにさせてくれるならな」
赤里は強い眼差しと共に即答した。
「愚問だったわね、ごめんなさい」
「ところで反応って何だ? 定義がよく分からないんだが」
「すぐ分かるわ」
グリは自分のバッグから、透明なケースに入ったディスクを出した。
表面のラベルには何も印刷されておらず、真っ白だ。正規の作品ではないのだろう。
いじるわよ、と赤里に確認を取った後、ソファの向かいに据え付けてあるテレビとレコーダーを操作し始める。
全ての準備を終わらせたグリは、リモコンを手に持ち、赤里と密着するように座る。
これもゲームに関係あるのだろうと、赤里は拒絶しなかった。
グリがリモコンを操作すると、テレビの大画面にごく短時間のホワイトノイズが走り、映像が表示され始める。
ジャンルは何だろうか。ホラーか、恋愛か……
映像は、再生している最新機器にそぐわない質であるものの、それなりによく見えはした。
いや、仮に小サイズの荒い画面だったとしても、赤里は詳細を把握していただろう。
何故なら、見覚えがあったからだ。
――あれは、青依の自宅だ。
「別に声は出してもいいわよ」
真横でグリが、赤里の腿に手を置きながら言う。
赤里は返事をせず、画面を観察する。
こじんまりしたワンルームを斜め上の天井から見下ろす角度、やや不鮮明な映像を見るに、隠し撮りしたものらしい。
そもそも、部屋主が好き好んでこんな風に設置する訳がないだろうが。
「相変わらず汚い部屋だな……ちゃんと片付けとけよ」
『掃除はしてるからいいんだよ』
脳内で、青依の声が蘇る。
部屋へ遊びに行った際、指摘する度にこう反論されたことを思い出しながら、乱雑に置かれているものから情報を読み取り、いつ撮影されたものかを推理しようとした。
しかし、すぐに中断せざるをえなくなる。
部屋主である青依が、画面に入り込んできたのだ。
そして、彼の後について入ってきたのは、赤里と青依の想い人――翠佳であった。
私服姿の二人は部屋に入るなり、上着を脱いでハンガーにかけ、部屋の隅へ寄せられたベッドに隣り合って座る。
さながらモニタを隔てた赤里とグリの姿を模倣しているかのようでもあった。
赤里はわずかに目を細める。
嫌な予感がすると同時に、ゲームの内容をこの時明確に理解した。
刷毛を払うように、グリが脚を一撫でしてきたのを無視して、モニタを凝視する。
『……疲れたな。でもこんな生活も直におさらばだ。一緒に自由になろうな』
『ええ、そうね』
どうやら撮影日時は"脱色"直前、ついこの間のようだ。
ご丁寧なことにマイクの感度は良好のようで、二人の声を余すところなく拾い上げている。
青依と翠佳はしばしの間、神妙な雰囲気で脱色の計画と、その後の未来について話し合っていた。
この時から二人の脱色は組織に筒抜けだったのか。
赤里はいたたまれない気持ちになるが、それを微塵も表には出さない。
既にゲームは始まっているのだ。余計な反応は一切すべきではないだろう。
ひとしきり話し終えた後は、冷蔵庫から缶ビールを引っ張り出しての晩酌が始まる。
先程とは打って変わって、ひどく和やかな空気が流れ出す。
グリが卓上からグラスを引き寄せて、ジュースを一口分飲み下した。
「赤里も飲む? ……いいのよ、ここは別に喋っても。"反応"の条件はもう分かってるでしょ?」
「……注いでくれ」
目元と下腹部をそっと触れられるのを少し鬱陶しく思いながら、赤里は答える。
水分を補給しておきたかった。




