9章『緑、枯れ落ちて』 その2
まんじりともせず夜を明かして迎えた翌朝、翠佳との面会は容易に叶えられた。
パーテーションの向こう側にいた彼女は、昏々と眠り続けていた。
顔中を包帯やギプスなどでゴテゴテ、ぐるぐる巻きにされた風貌を見て、それこそミイラ男、いやマミーではないかと、しょうもない駄洒落を思いつく。
白髪の目立つ、一見優しそうな風貌をした闇医者の説明によると、蘇生薬は無事に効き、母子共に命に別状はないらしい。
現在は麻酔を効かせて眠らせているとのことだ。
それを聞いて赤里は胸を撫で下ろす。
赤里の傷も、痕は残るものの、比較的早期に治癒するらしいが、特に関心はなかった。
気にするとすれば、美容的な観点ではなく、今後の任務遂行に支障が出ないか、という部分であった。
翠佳の身の安全を確認できた赤里は、途端に手持ち無沙汰になる。
別に絶対安静とは言われていないが、一応は患者なのだから、ウロウロと動き回る訳にもいかない。
朝食として栄養補助食品のブロックを一箱と、パックの牛乳を胃に収めた後、ベッドに座って適当なテレビ番組を見ていると、グリがやってきた。
昨日着ていた衣装は血で汚れてしまったためか、白とピンクを基調とした新しいものに変わっている。
「昨日の方が似合ってるんじゃないか」
「……私もそう思うんだけど、同じものを持ってないから仕方ないわ。退屈?」
「まあな。ここのベッドを使っていいから、グリは一眠りしたらどうだ。夕べは寝てないんだろう」
笑って首を振るグリの目の下は黒くなっていた。
「赤里、ちょっと外の空気を吸いにいかない? 窓のないここからじゃ分からないけど、いいお天気よ。先生の許可はもらってあるわ」
確かに、多少倦みつつあった頃なので開放感は欲しい。
赤里はテレビを消して立ち上がり、グリと共に診療所の外へと出た。
「どこがいい天気なんだ」
外へ出た瞬間、濡れたアスファルトの臭いと、わずかに白く霞みがかった町並みが感覚器官へ飛び込んできて、赤里は呆れる。
「いいお天気よ。雨なら人通りも減るし、傘を差すから他人の注意も向きづらくなるでしょ?」
「それもそうか」
グリは脇の傘立てから大きなビニール傘を一本抜いて開いた後、赤里と腕を組み始めた。
すぐに赤里が傘の持ち手を引き受けたが、気遣った訳ではなく、単に身長差の問題である。
診療所を振り返って見てみると、意外と古めかしい外観をしていたことに気付く。
レトロと呼ぶには中途半端で、数十年前に建てられたまま工事もせずそれきり、といった印象である。
もっとも、内部の設備投資などはしっかりしていたが。
周辺の建物も同じくそこそこの年季が入っており、右側のずっと先には、アーケード商店街のようなものも見える。
いかにも地方都市といった風情だ。と、赤里は手近な看板に記載された住所を見て思う。
人通りのない狭い歩道をアーケードから遠ざかる方向へと、二人は並んで歩いていく。
赤里は、グリの配慮に気付いてはいたものの、特に感謝を口にはしなかった。
「痛くない?」
「ああ」
本当は痛かったが、耐えられるレベルまで治まっていたため、そう答える。
適当に町を観察しながらおよそ五分足らず歩き続けていると、小さな公園が見えてきた。
「ここでもいい?」
グリが足を止めて尋ねると、
「俺はどこでもいいよ」
赤里はあまり興味なさげに答える。
園内には鉄棒や滑り台など、簡単な遊具が点在しているが、雨天の中遊んでいる酔狂な子どもはいない。
二人は出入口のすぐ近くに設置されている屋根の下へ入り、傘を閉じた。
デニムを履いている赤里は躊躇わずベンチに座ったが、ロリィタファッションを着込んでいるグリは躊躇った。
しかし、
「失礼」
「いや、マジで失礼だろ」
座っている赤里の膝の上に腰を下ろして微笑んだ。
「逆向きの方がお好みぃ?」
グリは、甘ったるく言いながら体の向きを180度変えた。
「この間の夜のこと、思い出しちゃいそうね」
「勘弁してくれ」
人気がないとはいえ、目立つことこの上ない。
ただでさえ奇異なファッションをしているというのに。
赤里はグリの軽い体を抱き上げて立ち、すぐ下ろす。
「もぅ、照れ屋さん」
「で、何を話したいんだ?」
「あれ、分かってたの?」
「これでも一応は相方だからな」
赤里が乾いた笑みを作って言うと、グリは少しの間だけ顔を輝かせた後、すぐ曇らせた。
パートナーから一、二歩と離れ、目を伏せる。
赤里もまた、口を挟まずに待つ。
静かな雨音と、時々遠くで聞こえる車の走行音が、二人の間を取り持っていた。
「…………任務、終わったわね」
「ああ」
赤里が眠っている間に、茶禅が正式な任務終了をグリへ通達したらしい。
赤里も先程、朝食の最中にモバイル機器で口座を確認したが、約束通り普段の三倍の報酬が入金されていた。
「翠佳を……必要以上に痛めつけたこと、責めないの?」
「俺じゃなくて本人に聞けよ」
「……そうね、ごめんなさい」
声色に棘があった訳ではないが、グリはきまりが悪そうに謝罪する。
「ただ、翠佳を助けられた結果自体には満足してるし、感謝してる。グリがいなければ、命を救うことすらできなかっただろうからな。現に俺は、青依を…………引っかかってたのはそのことか?」
「……それだけじゃ、ないけど」
どうにも歯切れが悪いが、罪悪感というより、勇気が湧き起こるのを待っているような振る舞いに映った。
赤里の観察眼は正しかった。
「あの……あのね、赤里。私たち、これでコンビは解消になっちゃうけど…………また、会えるわよね?」
「任務上、必要とあらばな」
おまけに、予測の範疇だった。
赤里は事前に用意しておいた台詞を、淀みなく読み上げる。
「……思ってた通り。こんな時まで冷たいのね」
グリの方もまた、赤里の反応は予想通りであった。
わずかに俯き、唇を噛んだ後、決心したように切り出し始める。
「言っても意味がないだろうけど、言わせて。あなたが好きよ、赤里。これからもずっと、あなたと一緒にいたい。世界中の誰よりも愛してる」
明確で強靭な意志のこもった純粋な瞳。
媚びも甘えも取り去った声。
届くはずはないであろうことを知りながらも、グリは精一杯の真心を込めて、想いのたけを愛する男へと伝えた。
「……グリ」
だが、赤里の心が大きく揺り動かされはしない。
想ってくれたことへの感謝。浮かんだのはそれだけで、それ以上も以下もなかった。
とはいえ、いくらなんでもここまで言わせた相手を無碍に扱えるほど、赤里はプライベートの恋愛沙汰に関して非情になり切れなかった。
「すまない。やはり俺は、君のことを恋愛対象には見られない」
「そう。……やっぱりね」
グリは、しごくあっさりと赤里の否定を受け入れた。少なくとも表面的には。
深く悲しみもせず、強がりもせず、分かっていた将来が現実化したのを、傍観者のように眺めていた。
「じゃあ、任務が終わったお祝いと、青依の……彼を偲ぶ会でもしない?」
「そうだな、まあ、やってもいいか」
意外なほどの切り替えの早さに、赤里は少々面食らったが、承諾した。
正直、気乗りはしなかったが、断るのも少しだけ気が引ける。
一応青依のことを気にかけているのがうかがえる点も、プラスに繋がった。
「本当!? ありがとう、嬉しい! これも断られるんじゃないかって思ってたわ! 場所はどこにする? 私、赤里の家がいいわ。あ、でもお酒はまずいわよね」
「気にするな。アルコールで体内と傷口を消毒するんだ」
本気混じりの冗談を言った後、赤里の顔つきが急に渋くなる。
「場所は俺の家でもいいけど、なるべく早い内に済ませたい。すぐにでもあのマンションを引き払おうと思ってるんでな」
「えっ、そうなの!? うーん……勿体無いと思うけど、決めてるなら仕方ないわね。それで、新居はどうするの? 今回の報酬で、もっといい家に住むのかしら?」
「一軒家にするつもりだ。これからは動くのがしんどくなるだろうからな、一階の方がいいだろう。それと、周りが静かな環境を選ぼうと思ってる」
そこまで言われて、流石にグリも気付いた。
「ねえ、まさかと思うけど……翠佳と一緒に暮らすつもり?」
「ああ。翠佳が受け入れてくれればの話だけどな」
「ダメよっ!」
グリの金属的な大声が、赤里の鼓膜に突き刺さった。
「それはダメっ! 認められないわ! 私の気持ちが通じるかどうかと、あなたが翠佳と一緒にいることを認めるかどうかは別問題よ!」
「どうしてだ? 別に構わないだろう。組織との契約上の問題はクリアしてるはずだ」
「それでも!」
「何を言ってるんだ?」
赤里には意味が分からなかった。
確かに彼女が主張する通り、両者に連動性はないが、かといって彼女が反対できる正当性も見当たらない。
「青依がいない今、これから先誰が翠佳を護ってやるんだよ。ましてや子どもまで抱えてるんだぞ」
「悔しいとか、悲しいとか思わないの!? いくら幼なじみだからって、自分から好きな人を取った男の子どもなのに……!」
「そりゃあ、正直悲しい気持ちはある。でも悔しくはない。むしろ嬉しいんだ。あいつら二人のためにまだできることがあると思うとな。まあ、翠佳が納得すればの話だけど」
どうして? どうしてそんな風に言えるの? それに、私には全然そんな優しい顔を見せてくれないのに。
嫉妬や悲哀といった様々な感情がグリに去来し、融けて白熱した鉄のような感情を口から吐き出しそうになるが、赤里への崇拝にも似た愛が防波堤となってどうにか押し留める。
一度強烈な体験を伴って好きになってしまった以上、どうしても嫌いになどなれない。
しかし、宝石のような瞳に滲み出てくる冷たい雫まではどうしようもなかった。
「……っく、えぐ……」
濡れた睫毛や頬を拭いもせず、グリは包帯の巻かれた両手を固く握り締め、うつむく。
並の男ならば陥落していただろうが、赤里に女の武器は通用しない。
苛立たない代わりに狼狽もせず、淡々と考える。
ここで"豹変"されるのはまずい。
万全ではない自分では抑えられないし、人目につく。
今更嘘を言って取り繕えもしない。
そもそも下手に希望を持たせて問題を先延ばしにしても仕方がない。
さて、どうしたものか……
「…………いい」
対応策を考えあぐねているうちに、グリがぽつりと呟いた。
その詳細を聞き返すよりも早く、次なる言葉が被さってくる。
「早めに赤里の部屋に行きましょう。だから傷、早く治してね」
顔こそ笑ってはいたが、目に光はなかった。