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9章『緑、枯れ落ちて』 その1

「なあ、本当に俺なんかでいいのか」

「今更何言ってんの? ぶっ飛ばすわよ」

「だってよ、お前本当は、あ……ふごっ!」

「私を舐めないで。今度同じこと言ったら、あんたのこと、本気で捨てるから」

「……悪い。もう言わねえよ」

「ついでにここで約束しなさい。私を絶対に幸せにするって。……何よ、自信ないの? 情けないわね。赤里だったら即座に誓うわよ。良くも悪くも何も後先考えずに」

「……分かったよ! よっしゃ、誓うぜ! 翠佳、お前は俺が絶対幸せにしてやる!」

「つくづくあんたって乗せられやすい、単純な男ね」

「お前、ここまで言わせといて、普通そういう落とし方する?」

「だって、あんたをいじるの面白いんだもの」

「こいつ……」

「これからも、私のことを沢山楽しませてね。好きよ、青依」






 体も心も、痛くて仕方がない。

 体の痛みは医者に診てもらい、時間が経てば治るだろうが、心の方はどうすればいい。

 赤里は、後部座席に横たわる翠佳をバックミラー越しにチラチラと見ながら、始終落ち着かない様子で助手席に座っていた。


 三人が乗った車は都市部へと急行していた。

 グリの知り合いだという闇医者に翠佳を、そして赤里を診せに行くためだ。


 車を出してすぐ、翠佳には蘇生薬を投与してある。

 試したことがないため、仮死状態になったことによる胎児への影響は不明だが、少なくとも良いことではないだろう。

 一刻も早い蘇生が望ましいのは考えるまでもない。

 加えて怪我の応急処置も施したが、こちらも早く治療が必要だ。


 パートナーのらしからぬ挙動不審さに、運転席のグリはとっくに気付いていたが、そこを掘り下げるつもりはなかった。

 ただし最低限、聞くだけは聞く。


「心配?」

「ああ」


 赤里は、包み隠さずに答えた。


「お医者さんの所まであと少しだから。赤里の傷もちゃんと診てもらいましょう。……それにしても、私がやっておいてなんだけど、ちょっと不気味ね、それ」


 赤里の顔へぐるぐる巻きにされた包帯をちらりと見て、グリは微かに笑う。


「ミイラ男みたいか?」

「ミイラというか、刃物から火を起こして国を奪い取りそうな人みたい」

「血痕で隈取になってるよりはマシだろ。グリの方も、手がボクサーみたいになってるぞ」

「あら、気にしてくれるの? 嬉しいわ。でもどうせならもうちょっとゴシックな表現をして欲しいわね」

「闇の拳闘者」

「……いや、そうじゃなくて」


 冗談は交わせるものの、やはりぎこちなさが残る。

 やはり赤里は、己が顔面に刻まれた傷よりも、翠佳の身ばかりを案じている。

 そして、青依を助けられなかったことを悔やんでいる。

 グリには分かっていた。


「着くまで少し眠ってたら? 血を流しすぎて、意識が朦朧としかけてるんじゃなくて?」

「構うな、平気だ」


 どう見ても虚勢であった。唇の血色が悪く、時折目の光も消えかかっている。

 だが、これ以上何を言っても聞き入れはしないだろう。

 ならばせめて少しでも早く到着させてやろうと、グリは車の速度を上げた。

 ネズミ取りなどにかからないように気を付けながら。


「……すまん」


 グリが軽く首を振るのを見た後、赤里は脇のドリンクホルダーに差してあるペットボトルの水を飲んだ。

 温かくも冷たくもない、ぬるい水温がちょうどよく感じられる。


 体は寒いのに、頭の方は熱い。

 病気による悪寒と発熱が同時に襲いかかってきたかのようだ。


 ボトルを元に戻し、ダッシュボードへ目線を落とす。

 翠佳を見ていない時に浮かんでくるのは、先刻の鮮烈な出来事。

 青依が橋から落ちていった場面ばかりが、しつこく何度も脳内で再生されていた。


 ある程度は仕方がないと分かっていても、後悔の念が消えない。

 心を乱さなければ、もっと力を入れて押さえつけていれば、助けられたはずなのに。


 生きている可能性はないだろう。

 仮死薬を投与された上に川へ落ちてしまっては、もう……

 組織の人間が向かったとはいえ、すぐに回収できる訳でもない。


 ――すまない、青依、翠佳。


 次に彼女が目を覚まして、事実を知った時、一体どんな反応をするだろうか。

 少なくとも絶望しか待ち受けていないであろう未来を思うと、流石の赤里も気が重くなる。


 連動して、意識に強烈な重圧がかけられる。

 グリにはああ言ったものの、どうやら抗えそうにない。

 経験上、これくらいで死にはしないだろうが、しばらく目を覚ませなさそうだ。

 自己分析をしながら、段々と赤里の意識が遠のいていく――






 本人が見立てた通り、次に赤里が目を覚ましたのは、当日の深夜であった。

 呼吸した瞬間、真っ先に鼻腔へ飛び込んできたクレゾールの臭いが現在地を告げてくれ、未だ引く気配のない顔の痛みが、日を跨いでいないことを突きつけてくれる。


 寝心地の悪いパイプベッドから身を起こし、周囲を見回す。

 清潔で無機質な小さな部屋だった。

 整頓されている医療器具や薬品、小さな光を放ってベッドの側を照らすアームライト、壁時計……どうでもいいものばかりが目につく。


 右側に目をやると、布製のパーテーションが立てられていた。

 布を隔てた先へ意識を向けると、人の気配が感じられる。

 ここでようやく赤里は納得したように息を吐く。


 指で顔をそっとなぞってみる。

 包帯の感触の違い、縫われている感覚、患部へ直に当たっているガーゼの感触から、既に自分にも治療が施されたのを理解した後、ベッドから降り、パーテーションの向こう側へと……


「ケガ人は安静にしてなきゃダメよ」


 行こうとした所で突然グリがひょっこりと現れ、道を遮ってきた。


「グリ。……翠佳は」

「お察しの通り、隣よ。でも今夜だけはそっとしておいてあげて。女性の傷付いた直後の顔を、好奇心で見に行くものじゃないわ」

「誰がやったんだよ」

「私よ。ほら、今夜はゆっくり寝てて」


 皮肉をさらりと流され、半ば無理矢理ベッドへ寝かされた赤里は、あからさまに不満げな顔をした。

 グリは彼に布団をかけてやった後、自らの上半身も覆い被さる勢いでぐっと顔を近付け、


「顔の傷、完全には消せないみたい。でも安心して、そんなことであなたを嫌いになったりしないから。大丈夫、赤里は誰よりも素敵なままよ」


 唇に軽くキスをして微笑んだ。


「……翠佳の体は? 顔は? お腹の子は?」


 評価も我が顔貌も興味なしとばかりに、冷めた目で赤里が尋ねる。


「さあ? 私はお医者さんじゃないから、何とも言えないわ。でもまあ、大丈夫なんじゃないかしら」


 グリもまた、どうでもよさげに答えた。


「それより、早く眠った方がいいわ。私はすぐそこにいるから、何かあったらいつでも呼んで。……もちろん、ト、トイレも……」

「いや、自分で行けるから」


 照れるグリを向こうへ追いやり、赤里は言われた通りもう一眠りすることにした。

 どうせ妨害されるに決まっているし、まさか翠佳が消えたりもしないだろう。

 何より、自分の内側を見つめる時間が欲しい。


 目をつぶり、体の力を抜いて、眠ろうと試みるが、やはり無理だった。

 この夜ばかりは、"訓練"も意味をなさない。

 だからと言って、もう一度血を失って意識を飛ばそうなどとは思わない。


 自ずと、湧き上がる思考に任せるしかなくなる。

 赤里が考え始めたのは、この先についてだった。


 翠佳をどうする?

 将来を誓い合った男とは切り離され、胎内には新しい命を宿している。

 組織からの脱色は成功したが、逆に言えばこれからは組織の庇護を一切受けられなくなるということ。

 どれだけの蓄えを持っているかは知らないが、これから母子のみで生きていくとなると、楽観視はできないだろう。

 一般の仕事に就くのも決して簡単ではないはずだ。


 そのような状況に置かれた翠佳を、放っておけるのか?

 いや、出来ない。

 幼なじみであり、かつて想いを寄せた人である彼女を放っておくことなど、出来るはずがない。


 ――本当に、それだけか?


 赤里は、自分がまだ偽っている部分に、あえて踏み込んでいく。

 万事に執着の薄い虚無的な気質が、躊躇いというストッパーを容易に取り外してしまう。


『翠佳のやつは、お前の方を好きだったんだよ』


 あの時の青依の言葉が事実なら――


 そんな微かな希望が、赤里を変えてしまったのである。

 自分は、青依の代わりになどなれない。

 翠佳が青依を完全に忘れ、他の誰かに心や体を翻すとは思えない。

 それは誰に言われずとも、彼女の最も近い場所にいた自分が一番よく分かっている。


 しかし、彼女に寄り添い続けていれば、少しでも自分を見てくれる日が、いつかは訪れるのではないか。

 完全に愛されなくても構わない。

 彼女の体を抱けなくてもいい。

 憎まれてもいい。

 いや、憎まれるだけではなく……


 赤里が翠佳に求めていた愛は、もっと純粋で、被支配的で、捩れていた。

 そして何より、求めることより、自ら与える方に重きを置いていた。

 ゆえにすぐ結論が出る。


 ――これからは俺が、翠佳を護っていくのだ。

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