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8章『紅の血涙』 その2

 が、感慨にふけっている暇は与えられなかった。


「……くっ!」


 太陽の光を受けて、青依の持つナイフの刃が煌めいた。

 意図したものではなく、全くの偶然であったのだが、どうあれ赤里は視界を遮られてしまう。


 その一瞬の隙を見逃さなかった青依が一気に肉薄する。

 これで決着をつけんがため。

 

 お前もあの女と同罪だ。

 翠佳と同じように、顔を痛めつけて殺してやる。


 赤里が次に青依のナイフを認識した時、既にブレードは右目のすぐ近くにまで迫っていた。


 避けきれない。

 せめて直撃は……

 瞬間、顔面の中央部に熱が走る。

 左側の視界が朱に染まった後、暗転する。


 深い。見えない。

 だが目は無事だ。大丈夫、やれる。

 赤里の分析は極めて正確であった。

 青依の一閃で右目の下から眉間、左の眉頭を掠めて額の中程までを斜めに深く切り裂かれた。

 眼球への直撃は避けたが、大量の出血で左目が塞がってしまったのだ。

 しかし赤里の意志は、この程度の負傷では衰えない。

 ぐっと気合いで踏み止まり、青依を睨みつける。


 そのおかげで見逃さずに済んだ。

 親友を物理的に深く傷付けてしまった罪悪感を、この期に及んでも拭い切れなかったからか、青依の表情に躊躇いが走っていたのを。


(よし……!)


 赤里はこれを好機と捉えた。

 激痛を意志で抑え込み、視界のまだ見えている部分を頼りに、躊躇なく前へ出る。


 静脈を狙うのは無理だ。正確に打つのが先決。

 取捨選択を即座に済ませ、右手に全てを託し――注射器を振るう。


「…………がっ!」


 首筋、頸動脈付近に打たれた針を、青依が防ぐことはできなかった。

 赤里は押し子を押し、すぐさま引き抜いて間合いを取る。


「くっ……てめえ……何を……!」


 投与は成功した。あとは薬が効くのを待つばかりだ。

 即効性は高いが、一秒でも効力を早めるに越したことはない。


「俺なりのせめてもの情けだ。静かに死ね」

「ふ、ふざけんな……!」


 そうだ、もっと怒れ。

 動くほど、興奮するほど、死への道程は加速する。


 青依が飛びかかってくる。

 しかし、もはや動きに切れがない。

 ナイフを叩き落とし、回り込んで羽交い絞めにするのは容易かった。

 こんな不安定な足場でよろよろ動き回られては、危なっかしくてたまらない。

 赤里は、アルコールが入るとすぐ千鳥足になる彼の悪癖を思い出していた。


「く……くそっ……! は、離せ……!」

「興奮してもいいけど、暴れんなよ」


 難しい注文と分かりながらも、言わずにはいられない。

 今の赤里とて、決して心身充実の状態ではないのだ。

 ほとんど手を出さず防御と回避に専念し続けてきたとはいえ、大分消耗しているし、何より顔に受けた傷が深い。

 このまま血を失ってしまえば、力を出せなくなって抑え切れなくなる可能性がある。


 二人の戦いは最後の最後まで持久戦の様相を呈するかと思われたが、そうはならなかった。


「……最期に、言っとく」


 突然、青依が抵抗をやめ、力なく垂れ下がる。

 薬が本格的に効いてきたのかと思いながらも、赤里は拘束する力を緩めない。


「本当は……な。翠佳のやつは……お前の、方を……好き、だったんだよ」

「……え?」


 何を言っている。

 と反応しかけた時点で、赤里は後ろに突き飛ばされていた。

 今度は赤里の方が心の隙を突かれ、青依に拘束を振りほどかれたのだ。


 防衛本能がまず自己の安全を優先し、重心移動と後方への足運びで何とか吊り橋上に踏み止まらせる。

 赤里が自動的に取った行動を責めることはできない。

 橋の端を通っている柵代わりのワイヤーの隙間に青依の体が飛び出しかけているのを見て、慌てて手を伸ばすが、掴めたのは虚空だけだったとしても。


 振り返ることなく、何者かに引っ張られるように、青依の体が吊り橋の外側へと導かれていく。


「青依ッ!」


 声は綱になどならない。

 ヘッドスライディングのような勢いで弾け飛び、橋から落ちるギリギリまで体を出して追っても届かない。

 血で益々狭まる視界の中、赤里が見たものは、あっという間に川へと吸い込まれていき、そのまま消えていく青依の姿だった。


「くそッ! 青依ーーーッ!」


 無駄と分かっているが、叫ばずにはいられなかった。

 親友の名を何度も呼びながら、急流に沿って目で追っていくが、人が浮かび上がる気配はない。


「青依……! あの……バカ野郎…………」


 やがて力が抜け、その場でうつ伏せになる。

 一滴、二滴三滴……ポタポタと床版を濡らすのは、赤い滴。

 哀しみに震える赤里の流す涙であった。


 独りになった途端、風が強く吹き始めた。

 煽られた吊り橋が、キシキシと悲鳴を上げて左右に揺れ始める。


「恨んでるのか……? 一緒に来いって言ってるのか……?」


 うわごとのように、顔を上げた赤里が呟く。

 答えるように、風はますます強くなり、消耗した彼の体を揺すぶる。

 三半規管も弱っているのか、段々と気持ち悪くなってきて、消化しかかっているであろう朝食が胃からせり上がってくる。


「しつこいな……お前、そこまで寂しがりだったか……? やめろよ、吐きそうになる……来て欲しいなら、揺らすのをやめてくれよ……」

「何言ってるの!? 行っちゃダメよ! あなたは生きて戻るの!」


 女の声が、風音を裂いて割り込んでくる。

 いつの間にかグリが、赤里の隣まで駆け付けてきていた。


「大丈夫、致命傷にはなってないわ。さあ、戻りましょう」


 グリは赤里を背負い、陸に向かってゆっくりと歩き出した。


「ああもう! 鬱陶しい風ね! 静かにしてなさいよ!」


 赤里の体重も、血で髪や衣装が汚れるのも全く問題ではなかったが、風にだけは我慢がならなかったようだ。

 グリが、誰もいない空中に向かって悪態をつく。

 それでも足は止めず、絶妙の体幹をもって、容易く陸地へと帰還した。


「……下ろしてくれ」


 赤里の掠れた声が、グリの耳元で響く。

 不安だったが、ひとまずは言われた通りにしてやる。


 精神的なショックと失血に見舞われていたにも関わらず、赤里の挙動は思いのほかしっかりとしていた。

 ハンカチで気休めに血を拭い、翠佳の元に膝をついてしゃがむ。


 当たり前だが、翠佳の顔がこの短時間で元の美しさを取り戻すはずはない。

 赤子のようになった彼女の顔を、穏やかな眼差しで見つめながら、青依が最後に残した言葉を反芻させる。


『翠佳のやつは、お前の方を好きだったんだよ』

「……そうなのか?」


 仮初の死を与えられ、物言わぬ翠佳に問いかける。


 本当だとは思えなかった。

 同情だけで寄り添う相手を選ぶような女性でないことは、赤里も熟知している。

 しかし、油断させるためのブラフと即座に切って捨てることができない。

 いや、切って捨てたくなかった。


「お疲れ様でした。決闘は、あなた方の、勝利です。同時に、この時をもって、任務終了となります」


 赤里の思索など露知らず、背後にブラが現れ、淡々と任務の終わりを申し渡してきた。

 赤里は振り返りも立ち上がりもせず、翠佳の顔を見つめたままで言葉を返す。


「青依はどうする」

「彼の遺体は、我々の方で、回収しておきます」

「分かった、任せる。代わりに彼女の死体を弔わせてくれ。監視も外して欲しい。これ以上縛らせたくはないんだ」

「……はい」


 立会人からの了解を得た赤里は、翠佳を抱き上げて立ち上がり、車の停めてある場所へと、通ってきた経路を引き返し始めた。


「ああ、待って赤里! 一人で運ぶなんて無茶よ、あなたも大ケガしてるのよ」


 慌ててグリも、足取りのおぼつかない彼の後を追い、支える。


 ただ一人、場に取り残されたブラは、去っていく三人を無表情で眺めていた。

 が、じきに携帯電話を取り出し、何者かと通話を始める。


「……私だ。"脱色者"青依を一刻も早く確実に回収しろ。そうだ、片方だけでいい。翠佳の方は……」

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