1章『新しい色彩は、刺激に溢れている』 その1
「お誕生日おめでとう、赤里」
「ありがとう」
「しょうがねえから祝ってやるよ」
「そいつはどうも」
「はい、赤里の好きなイチゴのケーキよ。"おしごと"で貯めたお金で買ってきたの」
「わあ、ありがとう。すごく美味しそうだ。嬉しいよ――」
「お疲れですか?」
運転手の言葉によって、赤里の意識は引き戻された。
間髪入れず、車のエンジン音や振動、車内の空気と血の残り香の混ざった臭いが、虚ろだった五感へ流れ込んでくる。
「……そうかもしれません」
赤里は愛想笑いを作って返し、視線をバックミラーから横の窓へと移した。
どうして今更、あの時のことを夢に見たのだろう。
理由を探そうとするよりも早く、運転手が次なる話題を口にし始める。
「お疲れの所申し訳ありませんが、先程茶禅様より連絡がありまして、伝言を預かっております。明日の午前十一時に、自分の所へ直接顔を見せるようにと」
「茶禅さんが? 分かりました」
了解の返事をし、赤里は窓の外で流れている夜景を眺めつつ、思う。
茶禅さんと会うのは久しぶりだ。
小さい時、親に売られた自分を拾ってくれて、有り余るほどの代替物を与えてくれた恩人。
あの人のためならば何でもするし、あらゆる期待にも応えてみせよう。
それにしても、一体用件は何だろう。
つい今しがたまで脳内に遊んでいた短い夢のことは、あっという間に前から後ろへ通り過ぎる街の灯のように、すっかり頭の中から消えていた。
それから更に少しした後、車が静かに減速し、停まった。
目的地に到着したのである。
「今夜はゆっくりお休み下さい」
「ありがとうございました」
降り際、運転手へと心付けを渡し、赤里は早々に靴音を鳴らして歩き始める。
出入口のロックを解除し、エントランスを抜けてエレベータを上り、廊下を歩いてドア前で立ち止まるまでの間、赤里は誰ともすれ違わなかった。
塔のようなマンション、その最上部近くに位置する、誰も出迎えてくれない自宅。
赤里は、孤独感と安堵感を同時に感じていた。
リモコン式のドアキーで開錠し、玄関に入ると、自動的に明かりがつく。
家にはリビング・ダイニング、キッチンの他に三つの洋室があるが、いずれも未使用状態で、物は置かれていないに等しい。
彼の生活空間は、もっぱらリビング・ダイニングに限定されていた。
リビング・ダイニングの明かりがつくと、窓際に白いものが丸まっているのが目につく。
猫だった。
赤里は歩み寄り、
「ただいま、ビアンコ」
しゃがみ込んで飼い猫に声をかけたが、ビアンコは小走りで家主から離れていってしまった。
仕事から帰った夜はいつもこうである。
敏感なお姫様だ。赤里は立ち上がって肩をすくめ、浴室へと向かう。
いつもかけているネックレスを除き、今着ている服は全て今回限りで処分するから、丁寧に扱う必要はない。
脱衣所の籠へ、脱いだものを無造作に放り投げ、最後にナイフをそっと洗面台の脇に置いて、浴室でシャワーを浴び始める。
赤里は、念入りに全身を洗っている最中、目の前の大きな鏡に映る泡まみれの自分を見た。
ここで彼女とでも絡み合ったらさぞ盛り上がるだろうと考えたが、今は虚しい妄想でしかない。
一抹の寂しさごと泡を排水口に流し去り、浴室を出て体を拭き、髪を乾かしてリビング・ダイニングに戻る。
「ニャアァ~」
すかさず、甘えた高い鳴き声を発しながらビアンコがやってきて、赤里の脚に体をこすりつけてきた。
「ようやく許して下さいましたか、お姫様」
顎回りをそっと手で愛撫してやると、ビアンコは目を細め、更に首を伸ばしてきた。
「悪いな、これ以上はお預けだ。疲れてるんだよ」
赤里は早々にビアンコの相手を切り上げ、エサや水、トイレを新調してやった後、壁に沿うよう置かれている赤のリクライニングソファへ、背中から身を投げた。
柔らかな革やクッションに受け止められ、間もなくして、眠気がすぐにやってきた。
部屋の眩しさも、猫も気にならない。
何かあれば、体が勝手に目を覚ます。
何もなければ、朝まで眠ることができる……
どのような経緯で知り合ったか、詳細はもうよく覚えていない。
どうでもいいから忘れたのだろう。
重要なのはそれからの部分。
気付いた時には既に、組織という箱庭の中で三人一緒になっていた。
似通った境遇、等しい年齢、特殊な環境が、三人をすぐに親密にした。
男二人と女一人、親友の三人組のように、三兄弟のように結び付いた。
三人は、共に人殺しの技を磨き、業を背負い、分かち合ってきた。
大小を問わず、心身へ無数の傷を負ってきた。
命を落としそうになった経験は、早い段階から二桁に達してしまった。
それでも、赤里は自分の境遇をさほど辛いと感じていなかった。
まず、理不尽を強いられたことは一度もない。
厳しい訓練や過酷な任務を強制されたことはあっても、それらは全てビジネスという目的に集約されるものだ。
ビジネスである以上、リスクに見合うだけのリターンは充分に享受していた。
無論、幼少時から大金を渡されていたりした訳ではないが。
所属している組織についても、居心地の悪さを感じてはいなかった。
一般の学校での教育を受けることはなかったが、擬似的に再現された環境で勉強は行えたし、表向きのそれらしい経歴も組織側が全て用意してくれた。
幾つかの掟を守りさえすれば、仕事以外の行動は原則自由だし、スパイ映画やアクション映画などで描写されるような窮屈さなどは特になく、一度や二度の失敗で死罪になるほどシビアでもない。
掟についても、別段遵守が困難なものではない。
組織のことを外部で一切口外しない、メンバー同士の私闘禁止、脱退の禁止など、当たり前のものばかりだ。
少し変わった事項としては、かつては恋愛や結婚の禁止という掟も存在していたが、これはついこの間廃止された。
理由は分からないが、今のボスが決めたのだという。
赤里は組織に加入してから今に至るまでの二十年近く、ボスに一度も会ったことがなかった。
彼にとっての上役は茶禅であり、ボスというもの自体にあまり関心がなかったので、どうでもいいと考えていたのだが。
そして、何より大きかったのは、幼なじみの存在だった。
長い間苦楽を共にしてきた二人の存在が、赤里を生かし続けたのだ。
結局の所、独りではなかったから、耐えられたのかもしれない。
特に……女の方の存在が、赤里にとっては大きかった。
本人に序列をつけるつもりはなかったが、やはり男と女の関係という、太古よりの宿命からは逃れられないらしい。
そして、親友の男の方も、同じことを思っていたようだ。
彼女のことを、最初に好きになったのはどちらだったろうか。
照れながらほのかな恋心を相手に打ち明けたのは、どちらが先だったろうか。
ともあれ『恋愛・結婚の禁止』という掟が砕け散った瞬間、赤里の中で箍が外れたのである。
赤里には、自信があった。
決して親友をないがしろにするつもりはない。
だが、自分の方があいつよりも強いし、重ねてきた実績も多い。
なのに、何故――
「――というわけだ」
「はい?」
午前十一時四分、組織本部ビルの一室で、赤里は思わず上擦った声をあげてしまった。
「聞こえないふりをして命令を拒否するのは良くないな」
「いえ、そんなつもりはありませんが」
「まあいい。改めて命じる。赤里よ、"脱色者"の青依と翠佳を追跡し、始末してこい」
「……青依と、翠佳を?」
赤里は、今この時まで想像したことさえなかった。
幼なじみ二人の名前と、"始末"という言葉がセットで使われ、結び付けられることなど。
ましてや呼び出されて早々、幼なじみを始末しろなどと……
「無論、戯れにこのようなことを言っているのではない。相応の事情があるのだ。二人は脱退禁止という組織の掟を破って脱走した。故に、粛清の掟に従い消さねばならん」
茶禅は声を低めた。
「お前の心情、私とて理解はしている。お前と青依、翠佳は同期で育ち、懇意にしていた仲だ。だが、これはボスからの指名なのだ」
「ボスからの……?」
赤里はこの時生まれて初めて、自分を掌の上に転がしているボスの存在に興味を抱いた。