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8章『紅の血涙』 その1

「なあ赤里、俺とお前が模擬戦した時の対戦成績って、俺の35勝34敗13分でいいんだっけか」

「ああ、それで合ってる」

「お前なあ……そこは『いや、俺が35勝だろ』って言う所だろ?」

「なんでそんなベタなコントを、お前とやらなきゃいけないんだよ」

「かっ、お前ってマジでノリが悪いよなあ」

「笑いが取れない奴ほど、ノリが悪いって言葉を使いたがるんだよな。ついでに言っとくと、正確な対戦成績は俺の38勝33敗9分だ」

「え? そうかあ? いやいや、そりゃズレすぎだろ。話盛りすぎ」

「お前の記憶力に問題があるんだよ」

「じゃあ翠佳に聞いてみようぜ」

「あいつが覚えてる訳ないだろ。それに『下らないこと気にしてバカじゃないの?』って返ってくるのがオチだ」

「ぶっ! お、おま、声はともかく喋り方がマジで似てんだけど。もっとやってくれよ」

「『ほら青依、早く馬になりなさいよ』」

「ぶははははっ! 上手い上手い! 仕草も完璧じゃねーか! そうそう、そんな指差しポーズやるよな」

「へぇ、上手いじゃない。私にももっと見せて欲しいんだけど」

「……あれ、翠佳……さん」






 もう二度と、あの時のように笑い合える関係は戻ってこない。

 赤里も青依も、既に分かっていた。


 不意に放たれた凶弾は、赤里の皮膚や衣服を掠めもせず、遥か虚空へと消えていく。

 青依が狙いを外したのではない。赤里が事前に殺気を読んでおり、体をずらしていたのである。


「んの野郎ォ! 避けんじゃねえェッ!」


 青依は怒り狂って銃の引き金を引き続けるが、一発たりとも標的に当たることはなく、単なるクラッカーにしかならない。


「避けないと死んじゃうだろ」

「ざけんなッ!」

「そうだ、来いよ青依。銃なんか捨ててかかってこい」


 映画のような挑発を聞いた青依は、銃を地面に叩き付け、逆手に持ったナイフを中段に構え突進する。

 殺意の塊となって迫る親友を見て、赤里は妙に切ない気持ちになる。

 こうしてこいつと戦うのも最後だろう。

 まさか最後の勝負が本当の命のやり取りになるとは、当時は考えたことさえなかったが。


 赤里は半身を取って腰を落とし、迎撃態勢に入る。

 一見素手のように見えるが、実際は握った右手の内にマルチツールナイフを隠し持っていた。


 いつもの仕事と大して変わらないと考えていながら、いつも以上の重圧を感じていた。

 しかしそれに負けて潰されたりはしない。

 必ず作戦を成功させて青依と翠佳を救うという強い決意の方が勝っていた。


「クソッ! 殺す! 殺してやる! 全員ブッ殺してやる!」


 一方、青依の方は真逆であった。

 もはや無二の親友であろうと関係ない。

 大切な人の命を奪った憎き女の前に立ちはだかる門番としか映らない。

 殺すべき相手を殺せれば、後はどうなっても構わないという捨て鉢な暴力性が原動力だった。


 間合いに入った瞬間、青依が激しい怒りに任せて大振りのナイフを振り回す。

 長年の訓練が完全に体へ染み込んでいるため、感情に左右されることなく、全ての攻撃が正確に急所を狙ったものになっている。


 相手が赤里でなければ、最初の一閃をで容易に絶命せしめていただろう。


(無駄だ、それじゃあ俺は捕えられない)


 パターンが丸分かりだ。

 赤里は、冷静に攻撃を捌き続ける。


(こいつはいつもそうだ。力を出し切れば、少なくとも対戦成績をイーブンには持ち込めるポテンシャルは持ってるのに、精神面で台無しにしちまう)

「返せッ! 翠佳を返せよォッ! クソォォッ!!」

(心配するな、ちゃんと返してやる)


 だが、この方がかえってやりやすい。

 赤里は勢いに押されているかのように装い、少しずつ吊り橋の中央部へと後ずさりしていく。

 まずは青依を誘い込み、体力を消耗させ、かつブラに怪しまれないようにせねばならない。


「何でッ! お前はッ! そうやって平気でいられんだッ! 翠佳が好きじゃなかったのかよ!? なのに、なのに……!」

(好きに決まってるだろう。だから助けるんだ)


 赤里はひたすら回避に徹しながら、片想いの人を思う。


 刃が、拳や脚が目の前をよぎるたび、様々な記憶が脳裏を駆け巡る。

 誕生日にケーキを買ってもらったり、馬になってやったり、一緒に酒を飲んだり。

 そして、打ち明けた想いを優しく拒まれた時の……


「っらァッ!」


 ほろ苦い情景は、左腕に走る痛みが切り裂いていった。

 かすり傷だ、問題ない。赤里は動じず、一層回避に意識を集中させる。

 ここで自分が死んでしまってはお話にならない。


「おい、何で反撃してこねえ!」

「お前が疲れるのを待ってるんだ」

「そうかよ、じゃあそのまま指をくわえたまま負けやがれ! 俺があいつを取った時みてえに!」


 ――何だと?


 大きな針で直接串刺されたように、赤里の心臓が痛んだ。


「……一体」

「ああ?」


 ――どの口がそんなことを言いやがる。


 吐き出したくなる負け惜しみを、何とか飲み込む。


「言いたいことがあんならはっきり言えよ! いつもいつも上からモノ見てんじゃねえぞ振られ野郎!」


 ダメだ、あいつの挑発だ。心を動かすな。

 頭で分かってはいたが、体が勝手に攻撃を行っていた。

 ナイフを避けざま、中段蹴りを繰り出す。


「ぐぅッ……! はっ、そうこなくちゃよ」


 脇腹に突き刺さった鈍い一撃に顔を歪ませながらも、青依は怯まず攻撃を再開する。

 赤里は目を細め、再び回避に専念し始める。

 つい嫉妬に駆られてやってしまったが、まあ仕方ないか。と、開き直っていた。


「悪いが負けてはやれない。それにお前が死んだ方が、翠佳も喜ぶ。あの世で仲良く暮らせよ。俺はこっちで寿命が来るまで金に飽かせて遊び回ってやる」

「ふ、ふざけやがってッ! てめえッ!」


 青依を煽るのは簡単だ。


 その後は、赤里のペースで事が進んでいった。

 表面的には青依が一方的に押しまくっているように見えるが、グリやブラの慧眼は正確に状況を見定めていた。

 このまま行けば、遠からず青依のスタミナは落ち、動きが衰え始めるはず。

 そうなった時、勝負は決する。


 が、赤里はあえてその一歩手前で仕掛けた。


(ここがチャンスだ)


 本格的に疲れ出し、挽回不可能と見れば、自暴自棄になって相討ちを狙ってくる可能性がある。

 物理的に刺し違えようとしてくるならまだ対策は取れるが、吊り橋を落とされたりするのは大いに困る。

 赤里はどこまでも冷静に、親友の気質を見極めていた。


(やるか)


 赤里は掌中のマルチツールナイフを片手で巧みに操作し、握った指の隙間から注射針を出す。

 あとはこれを上手く打ち込み、青依を仮死状態にするだけでいい。


 青依の目線が一瞬、右手に移る。

 気付いたか。しかし赤里は戸惑わない。

 気付かれたこと自体は別段問題にならない。

 どうあっても避けさせないよう、これまで心身を削ってきたのだから。


「チッ!」


 ここへ来て青依の速度が増す。

 気合いを限界まで絞り出したのだろう。

 だが、何とか対応できる。

 掻い潜って、薬を注入してやる。


 それが、赤里の犯してしまった唯一最大の失敗だった。

 勝手に限界を設定して、青依の底知れない気迫を、執念を、読み誤ってしまったのだ。


「うおおおおッ!」


 赤里から見ると安定感に欠けがちな精神が、この窮地においてはプラスに作用したのである。


 刃が肉を掠め、拳や脚が骨を打つ。

 フェイントも何もない、単なる直線的な攻撃なのに捌き切れなくなる。


(やるじゃないか……青依)


 予想を上回る底力を見せてきた親友に、痛みと比例して、赤里の胸へ嬉しさが込み上げてくる。

 決して侮っていた訳ではない。純粋な称賛である。

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