7章『まるで、赤子のよう』 その3
――グリの奴、何をやってやがる。
"作戦"の遂行に、そんな余計な演出は必要ないだろう。
翠佳に跨って大勢を決しておきながら、執拗な殴打に興じたまま未だ勝負を終わらせないのを見て、赤里の中でうっすらと苛立ちが募り出す。
絶好の機会と言わんばかりに、存分に逆恨みをぶつけているであろうことは容易に推測できる。
昨夜、あそこまでさせておいてグリが約束を違えるとは思えないが、それでもあのような暴力的に過ぎる光景を見せられると、ハラハラさせられてしまう。
グリから説明された"作戦"はこうだ。
『決闘の最中、頃合いを見計らって相手に特殊な薬を注入し、仮死状態にする』
以上。
非常に単純明快な方法である。
もちろん、薬を打ってそのまま放置してしまっては本当に死んでしまう。
そのため、組織の人間の目が外れた所で早急に蘇生薬を使って生き返らせ、二人に事情を説明し逃がしてやる。
この辺りが最大のハードルだが、そこはグリが責任を持って何とかすると約束してくれた。
何なら計画が露見してしまったとしても、仮初とはいえ一度死んだし、決闘もした。言質も取ったのだから問題はないと理屈をこねてもいい。
仮死薬と蘇生薬の存在については、赤里も既に知っていた。
仕事中、実際に使ったこともあるため、取扱い方にも問題はない。
存在を知っていながらも今まで発想になかったのは、この二つの薬は容易に手に入る代物でもないからだ。
グリが薬を所持していたのは、本当に幸運だったと言える。
偶然だろうが作為だろうがどうでもいい。助けられる手立てがあるという事実が大切だ。
赤里は、懐に差しているナイフのうちの一本、マルチツールナイフに手をやる。
機能の一つにシリンジがついている特別製で、既に仮死薬を仕込んでおいてある。
八百長的な違和感が出て、組織側に怪しまれるのを避けるため、青依と翠佳には作戦のことを一切話していない。
だからこそ、あれはやりすぎではないかと危惧する。
上手く仮死状態にして蘇生させても、本人たちへ説明する段になっていらぬ禍根を招いてしまうのではないか。
「……ぐっ、ぎぎ……!」
異様な音が隣から聞こえてきて、赤里は首を向ける。
表面上は冷静だった赤里とは対照的に、青依の方は激情を露わにしていた。
隠していないというより、隠し切れないのは一目瞭然だ。
怒りのあまり顔面を蒼白にさせ、眦を裂き、歯を剥いて食いしばって全身を震わせている。
音の正体は、摩耗して割れるほどの歯ぎしりだった。
「あ……あのクソ女……! 絶対許さねえ……! 戻ってきたらブッ殺してやる!」
今にも吊り橋へ飛び出してしまいそうだが、そうしないのはまだ最後の理性が残っているからだろう。
決闘の掟を破れば、全てが終わってしまう。
それは赤里も望む所ではない。
仮に青依が暴走することがあれば、力づくで阻止するつもりだったが、まだギリギリで大丈夫そうだ。
ここは、怒りの矛先をそらさせるのが最善手か。
赤里は抑えた声で諌める。
「やめとけ。ここでお前が手出ししたら、全部台無しになるぞ」
「うるせえッ!!」
「落ち着け。お前じゃグリには勝てない。俺だって……」
「うるせえってんだよッ!」
青依は赤里の襟首を乱暴に掴み、憎しみのこもった眼差しを向ける。
「夕べ、あの女に骨抜きにされちまったのか? 好きな女をあんな風にされて冷静でいられるわけねえだろ。てめえみてえにお利口で出来た人間じゃねえんだよ、こっちは」
これでいい。
赤里は何も言わず、逆らわず、激怒する親友をただ受け入れていた。
一、二発殴られるのは覚悟していたため、この程度で済んだのは儲けものだ、とさえ考えながら。
男たちの気持ちが通じたのか、吊り橋上の決闘が、遂に終結を見ようとしていた。
「はぁ、はぁ……よく、ここまで我慢したわね……」
皮膚が破けた両拳、モノクロカラーの洋装、色白の顔。
己が身の各所を大好きな赤色に染め上げたグリは、興奮の余韻で息を弾ませながら、薄い胸元に手をやる。
動悸を確かめるためでないのは言うまでもない。
翠佳は、もはや全く物を言えぬ状態になっていた。
ただ、まだ生きていることは分かる。
開いているのか閉じているのか、判別しがたい口からわずかに呼気が入ったり漏れたりしている。
そして、虫の息になっても、両腕だけはなおも胎の上に固定されたままだった。
「ご褒美をあげるわ」
グリは胸元から注射器を取り出し、軽く押して液が出ることを確認する。
唐突に昨夜のことを思い出して再び発情しかけるが、流石に理性をもって自粛した。
「"二人"の命は取らないであげる。赤里と約束したから。顔も時間が経てば元通りになるわ。……多分」
翠佳の耳元へ顔を近付け、囁く。
「本当はね、ここから更にナイフでズタズタに切り刻んで、二目と見れないくらい醜くしてあげたいの。そんなことをしたら赤里が悲しむからやらないだけ。忘れないでね」
そう釘を刺した後、グリは翠佳の腕へ注射を打ち込んだ。
仮死させるための諸成分が、静脈を通じて体内を駆け巡っていき、一分を待たずして翠佳から生命力を一時剥奪していく。
『どうして最後までお腹を狙わなかったの』
翠佳が意識を失う間際、肉の隙間からわずかに覗く彼女の目がそう問いかけてきたのを、グリは読み取っていた。
「気持ちは理解できるからよ。同じ女として」
グリが初めて翠佳に見せた、掛け値なしの穏やかな表情であった。
そして、完全に薬が効いたのを確認した後、体を担ぎ上げ、橋を揺らさぬように最愛のパートナーが待つ陸地へと帰還する。
「す、翠佳ぁっ! くそっ、てめえ! さっさとその薄汚ねえ手を離しやがれ!」
「慌てなくても、すぐそうしてあげるわ」
憤怒に燃える青依など歯牙にもかけぬといった風に、グリは涼しい顔で翠佳を下ろし、地面へ仰向けに寝かせてやった。
「あ、ああああ……!」
(翠佳……)
態度こそ違えど、赤里と青依は言葉を失う。
あの、この世の誰よりも美しいと思っていた幼なじみ、生涯のパートナーの顔が、見るも無残な有様になってしまっていた。
血と腫れによって、嬰児のように変貌してしまっており、つい少し前まで眩いばかりに咲き誇っていた美貌は見る影もない。
赤里も青依も、翠佳のことを世界一の美人だと思っていたが、そこが理由で彼女に惹かれた訳ではない。
ゆえに、美貌が著しく損なわれたからといって、彼女への想いが揺らいだりなどしない。
そしてあろうことか、赤里の方は、悲しむと同時に心の底から愛おしさを感じてもいた。
嗜虐心が満たされたからではない。そもそも彼にそのような性癖はない。
それこそ、この世界に生まれ落ちたばかりの我が子を慈しむような、祝福するような、まるで父親にでもなれたかのような充足感が内から湧き出てきたのだ。
が、母親のことを思った瞬間、すぐに醒める。
誰が母親役だ?
翠佳は違う。だとすると、彼女の顔をこのように変えたグリか。
グリが伴侶となると……
「翠佳、翠佳! 起きろ、起きろよ! 目を開けてくれ! 頼むから……」
偽りの亡骸に、青依が溢れる涙も拭わず取りすがるのを見て、赤里の頓珍漢な妄想は一瞬にして吹き消えた。
すぐに悲しみの方が色濃くなり、胸中を支配する。
翠佳は仮死状態になっただけだ。まだ本当に死んではいない。
分かっていても、赤里の胸は痛んだ。
(安心しろよ。お前らは助かるんだ。生きて再会できるんだから、そんなに悲しむな)
肩を抱きながらそう声をかけてやりたかった。
が、言えない。心を鬼にしなければ。
青依がある程度冷静でいたならば、腕の注射痕に気付いていたかもしれないが、そのような精神的余裕などない。
彼の絶望は益々深い闇へと沈み、呼びかけは慟哭へと変わっていた。
ブラは無表情で、この場にいる四人をひとまとめに見ていた。
観察、という言葉が相応しい。
彼がサングラスを通じてこの光景を見、何を思っているのか。
それは本人以外知り得ようがない。
「見ての通り、私の勝ち。いいわね」
「はい。最初の決闘は、あなたの、勝利です」
事の元凶にも関わらず平然とした顔のグリは、立会人に確認を取った後、赤里の元へ身を寄せ、
「翠佳は問題ないわ」
そっと耳打ちした。
「しばらくは持つけど、急ぐに越したことはないわね」
「……分かってる」
赤里は頷き、二、三度ゆっくり深呼吸する。
今度は自分の番だ。仕損じる訳にはいかない。
片方だけ生き残らせても意味がないのだ。
しっかりと二人とも殺し、生き返らせなければ。
そのためには、青依の状態と反比例して、冷静にならなければならない。
青依とは異なる、翠佳に対する赤里なりの思いやりの表現であった。
ブラを一瞥して、決闘開始の意を伝える。
先方から首肯が返ってくると、落ち葉を踏んでも無音なほどの足取りで吊り橋の入口へと進み、床版の一歩手前の所で振り返り、未だ深き悲嘆に暮れる親友へ、非情を装って声をかけた。
「青依、いつまでも悲しんでる暇はないぞ。メソメソしてないで、早く俺と勝負しろ。悔しかったら俺を殺して、グリと戦えよ。翠佳の仇を取るにはそれしかないんだ。分かってるだろう」
青依の嗚咽と動きが、ぴたりと止む。
数秒間、体を強く震わせ、最後に服の袖で顔を強く擦った後、立ち上がる。
赤くなった目と鼻は、およそ大の男に相応しくない化粧であったが、誰も茶化す者はいない。
青依はグリの姿を、視界の端にも入れようとしなかった。
今見てしまえば、赤里よりも先に八つ裂きにしたくなってしまう。
当のグリもそれを分かっていたため、さりげなく青依から見えない位置に移動していた。
(翠佳……)
青依は声の代わりに、拳銃とナイフを出した。
(お前の仇を取ったら、すぐ会いに行くからな……!)
そして吊り橋の方向へ体を向けざま、赤里の心臓目がけて発砲した。




