7章『まるで、赤子のよう』 その2
「私たちからお先に失礼していいかしら」
グリが先手を提案すると、
「そうね。レディファーストということで、男どもは大人しく黙って見てなさい」
翠佳も同調した。
男二人は顔を見合わせた後、軽く頷く。
(ここなら上手くやれそうね)
グリは最後に、赤里にだけ聞こえるようそっと耳打ちした後、
「怖がらないよう、私がお手本を見せてあげる」
翠佳に意地悪く微笑んで、躊躇なく吊り橋へ踏み出していく。
足元の不安定さをものともせずに進み、橋の中央付近で停止して振り返る。
「それじゃあ、行ってくるわ」
「絶対勝てよ」
「ええ」
髪を結い上げ、青依と力強い誓いを交わし合い、翠佳も吊り橋へと歩き出す。
彼女から視線さえも送ってもらえなかった赤里は、応援しているスポーツチームが大一番に臨むのを見守る時と似た心境で遠ざかる背中を見送っていた。
同時に考える。
ルールだけでなく、場所も作戦に最適だ。
あれだけ距離があれば、ここで見ているつもりらしいブラに怪しまれる心配もない。
――頼んだぞ、グリ。
後は絶大な戦闘能力を誇るパートナーを信じるのみであった。
橋のほぼ中央部、グリから三、四メートル離れたところで、翠佳は立ち止まった。
この時点ではまだ二人とも、両手は空だった。
代わりにまずは言葉を――図らずも両者の意図が一致していたのである。
「ちゃんと床を壊さず歩いて来られたのね。偉いわ。私より大分体が重たいだろうから、少し心配してたのよ」
「あらあら、それはどうも。でもご心配なく。スタイルがいい分、きれいな歩き方をちゃんと心得てるから。それよりも、私がいきなり橋を落とすかもって考えなかったの?」
「全然」
「あ、ごめんなさいね。下らないこと聞いちゃったわ。そこまで頭が回らなかったのよね。そんなお花畑なお洋服を普段から着てるくらいだから」
「私、こういう顔だから、こういったファッションが一番よく似合うのよ。……ところで、どうしてスーツを着てないの?」
「アイツみたいなことを言うのね。もう組織の飼い犬じゃないからよ。あんたが代わりに着れば? そうすればアイツも喜ぶんじゃない? 似合うかどうかはまた別問題だけど」
そんな翠佳の挑発的な一言を聞いた途端、グリの表情が豹変した。
整った顔の各所に、怒りのしわが刻まれる。
……が、すぐに消えて、嘆息しながら言った。
「口じゃどうやってもあなたには勝てなさそうね。認めるわ」
「やけに素直じゃない」
「そこが私のいい所だから。……それにね」
グリが、視線を翠佳の顔から胸、腹、そして足元へと落としていく。
仕掛けてくるつもり――?
翠佳がそう肌で感じ取った瞬間、吊り橋が大きく縦にたわんで揺れた。
足を踏み入れた瞬間から、常に重心には気を配っていたため、この程度で体勢を崩したりはしない。
「暴力で勝てればそれでいいのよ」
加えて、グリの動向には一層の注意を払っていたため、牙を剥いて高速で接近してくる小悪魔の影も、感覚器官をフル動員して捕捉していた。
速い。
が、止められる。
どこを狙っているかも分かる。
「…………ッ!?」
それが命取りだった。
狙いが分かってしまったことが、翠佳にとって最大の不幸だった。
防ぐか避けると、事前に対応を決めていたとしても、過程のところでほんのわずかでも逡巡してしまえば、行動に移すのが遅れる。
刹那の攻防ではそれだけの差で全てが終わる。
翠佳は成す術なく拳で顎を撃ち抜かれ、平衡感覚を喪失した所を投げ技の要領で引き倒されてしまう。
「お腹をかばうなんて、いくら本能的とはいえ分かりやすすぎよ。他の場所が狙い放題じゃない」
グリは得意のマウントを取り、翠佳を見下しながら言う。
語調こそ静かで冷たいが、目からは勝者の優越感が明らかに見て取れる。
「そんな状態で私に勝てると思って? なめられたものね」
「思ってるからかばったのよ」
不利な状況をものともせず、不敵に言い放つ翠佳に、グリは唇の片側を吊り上げた。
遠くで何やら叫んでいる青依の声は、グリにも翠佳にも届いていなかった。
互いに声を低め、言葉をぶつけ合うことばかりに意識が集まる。
「そういう態度、腹が立つけど、同時に尊敬もしちゃうわ。赤里があなたを好きになった気持ち、ちょっと分かるかも」
「羨ましい?」
「ええ、嫉妬で頭がおかしくなりそうなくらいね」
「私も、あんたのそういう素直に認められる所、いいと思うわ」
「ありがとう。…………」
「?」
突然、グリの語尾が不明瞭になる。
何を言ったのか聞き返したかったが、それは不可能とすぐ悟る。
「……逆恨みだと思ってくれていいわ」
次の言葉は不気味なほど、はっきりした言葉で翠佳の耳に届いた。
グリの背後に悪魔の形をした漆黒のオーラが見えたのは、彼女の目の錯覚ではない。
「豊満な胸、綺麗な色の黒髪、涼しげな目、細長くて高い鼻……」
グリはうわごとのように、翠佳の外見的特徴を列挙していく。
「赤里を一番に惑わせるのは、どこかしら。ここかしら?」
翠佳が声を発するよりも先にグリは容赦なく、翠佳のすっと通った鼻の頂点へ正拳を振り下ろした。
ゴッ、という鈍い音。
鼻骨が折れ、拳が沈み、ひしゃげる。
滂沱と血が溢れ出し、止まらない。
「あらぁ、素敵な赤色ねぇ」
鼻周りを痛め、汚した翠佳を見て、グリは嬉しそうに艶然と笑う。
「痛い? 憎い? 是非感想をお聞きしたいわ、お姉様」
翠佳からの返事はない。
しかし、輝く眼光が物語っている。
――蚊に刺されたようなものね、小娘ちゃん。
どこかの神話で語られる世界樹の如く、翠佳の精神の中心を貫いてそびえている信念には、ヒビさえ入っていない。
「気に入らない眼をしてるわね。そういう目が赤里を悦ばせるのかしら」
今度は左目に拳を振り下ろす。
拳頭に骨の硬い感触、指の辺りに眼球の柔らかい弾力が戻ってくるのを感じて、暗い歓びがグリの神経に甘い痺れをもたらす。
「あはぁ、いい感触ぅ……」
一発で理性がスパークし、飛びかける。
もっと。もっと欲しい。
もっと痛めつけたい。
もっともっと報いを受けさせてやりたい。
恨みを晴らしたい。奪い取りたい。愛されたい。
血の臭いを嗅ぐ。
理性がほとんど飛んだ。
「あはは……ははははははっ! 頑張って! 頑張って耐えてね翠佳! 私の気が済むまで死んじゃダメよ!? 赤里が悲しむから! ねえ聞いてる!? あ、ごめんなさい、うまく話せないのかしら!? それじゃあさっきみたく目で教えて! ほらほら、早くしないともう片方の目も潰しちゃうわよ!?」
狂喜するグリの拳が隕石のように顔面へ降り注ぐ中、翠佳は必死に耐え続けていた。
彼女に言われたからそうしているのではない。
守らなければいけないものがあるのだ。
我が身の何を犠牲にしても、例え美貌が失われたとしても。
今、胎を覆っている腕をどかしてしまえば、グリは即座に攻撃箇所を変更するだろう。
ごく短い付き合いだが、同じ女ゆえか、翠佳には分かっていた。
グリは狂っているように見えて冷静だ。
理性を失っても、ある部分では理性的に振る舞える怪物だ。
顔を守ることはおろか、反撃しようと手をわずかでも動かせば、それを察知する。
逆に言えば、抵抗しなければ、胎を狙ってはこない。
お腹に衝撃を与えてはならない――
もちろん、このままではダメだ。
母体が死んでしまえば、自動的に胎児も産まれることができなくなる。
生き延びるのは絶対条件だ。
もとより、最初から勝ちを諦めたつもりはない。
糸口はまだ一向に見えないが、勝つために、今は耐え続ける。それが翠佳の選んだ答えだった。
憎き恋敵をいたぶりたい思いが勝っているため、少なくとも現時点では、グリは殺すつもりがないようだ。
狙うのは、グリが殴り疲れるか、狂気が昇華されて精神に緩みが見えた時。
そのわずかな一瞬に、全てを賭ける。
(でも……キツいことには変わりない……わね)
鉄の意志と覚悟があるとはいえ、この悪夢のような痛みが消えたりなどはしない。
鼻に初弾を食らった時点で、涙が出そうなほどの激痛を味わわされた。
できることならば、命乞いでも何でもしてやめてもらいたい。
顔は女の命というが、それをお構いなしに蹂躙されるのにも激しい抵抗感がある。
しかし、屈する訳にはいかない。
胎内に宿った新たな命。青依との愛の結晶。
この子を失う訳にはいかない。
失ってしまえば、多大なリスクを負ってまで組織から逃げ出した意味が、生きている意味がなくなってしまう。
(大丈夫よ……必ずあなたを無事に……産んであげるから……)
翠佳は自分の胎を、両手で愛おしそうにさする。
内側から伝わってくる仄かな温かみ、命の波動が、彼女の意識をしっかりと繋ぎ止めていた。




