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7章『まるで、赤子のよう』 その1

「なあ翠佳。青依の様子はどうだ?」

「ちょっとは奮い立ったのはあんたの目論見通りだけど、まだ足りないわね」

「そうか。まあそこはお前が何とかフォローしてやってくれ。ところで、お前に聞きたいことがあるんだけど」

「なによ、藪から棒に」

「お前、明日はどんなパンツ穿いていくんだ」

「は?」

「いや、だから勝負パンツ」

「……そうね、あんたが先に言ったら、教えてあげないこともないけど?」

「ん、俺か? 教えてやってもいいけどさ……ああ、そうだ。一石二鳥の方法があるぞ」

「どうせ下らないことでしょうけど、あえて聞いてあげるわ」

「今から俺とやろうぜ。そうすりゃお互い確認できる」

「本気で怒っていい?」

「いいけど、俺も本気だからな。今でもお前のことが好きなんだからさ。もしやらせてくれたら、俺はわざと死んでも……」

「……この大バカッ!」

「いってぇ……手加減しなかったな」

「する訳ないでしょ。本気で軽蔑したわ。部屋に戻る」






 本気で嫌われたかな。

 厚手のカーテンをも貫く強烈な朝陽を受け、赤里は昨夜遠慮なしに自分を引っ叩いた女性を思っていた。

 痛みも赤みもとっくの昔に消え去ったが、記憶までは消えていない。


 だが、それもどうでもいい話だ。

 "作戦"の成否に関わらず、今後彼女と会うことはなくなるだろうから。

 この方が後腐れがなくていいかもしれない。


 赤里は、隣で自分の腕を枕にして眠っているグリのことなど、ほぼ気に留めていなかった。

 あえて彼女について考えるとするならば、疲労の過程ばかり。

 やはり女との交わりは体力を消耗する。生命力そのものを吸われるような……

 それなりにちゃっかりと楽しんでおきながら、身勝手に嘆く。

 幸い、眠る直前まで感じていた気怠さは眠ったら消えたため、朝まで残りはしなかったのだが。


 状況、精神状態を問わず眠れるよう"訓練"してあるため、決闘を控えて眠れなくなることはなかった。

 目覚めもこのように軽快だ。

 隣のパートナーに至っては、どこぞの姫の如くこんこんと眠り続けている。


「起きろ、遅刻するぞ」


 一向に目覚める気配のないグリから腕枕を取り上げ、肩を揺する。

 十秒ほど揺すり続けると、ううん、という気の抜けた声と共に、眠り姫が現実世界へと帰還あそばされた。

 グリが上体を起こすと掛布団がずり落ち、一糸纏わぬ姿があらわになる。

 ノーメイクでもその美しさは些かも衰えていなかった。


「赤里……おはよう。昨日の夜は、とても素敵だったわ」

「そりゃどうも」


 未だ夜の余韻を引きずりつつ、夢うつつなグリに、赤里は素っ気なく答える。


「朝飯、何がいい」

「パンがあれば何でもいいわ」

「了解」


 ルームサービスを頼み、到着するまでの間に軽くストレッチをして、体を解しておく。

 続いて"道具"の点検を行っているうちに、朝食が運ばれてきた。

 グリのリクエスト通り、パンをメインにしたメニューである。

 赤里はパン派にも米派にも与さない。

 だがそれゆえ、どちらでも問題なく食べられる。


「赤里は何パンが好き?」


 決闘当日でも、グリの精神状態は表向き変化がないようだ。

 クロワッサンを千切って食べながら、しきりに話を振ってくる。


「普通の食パン」

「何をつけたり挟んだりして食べるの?」

「そのまま食べるのが好きなんだ」

「うそ!? 焼いたりもしないで? 信じられない!」

「素材の味をフルに楽しめるだろ」

「同意できないわ。パンだけじゃ単なる1じゃない。他の素材と組み合わせて、良さを引き出し合って、1+1を3にも4にもするのが醍醐味じゃない」

「む……一理あるな。確かにこんな風に、フランスパンにバターをつけると美味い」

「でしょ?」


 赤里はそんな彼女を、特に鬱陶しいとは思わなかった。

 こうして誰かと話していると、気が紛れてリラックスできるのは事実だったからだ。

 何だかんだ言って、心が全くの平穏でいるなどできはしなかった。


 それに、夕べグリが提案した作戦についても、失敗した時のことを考えないでもない。

 その場合待ち受ける未来を想像しかけると、仄暗い気持ちになることもある。


 だが、失敗したその時はその時だ。どうしようもないこともある。

 そこは普段の仕事と変わらない。

 このように楽観的、見方を変えれば達観的に考え続け、赤里は今日まで生き延びてきたのだ。


 食後、身支度を整えると、ちょうど刻限がギリギリまで迫っていた。

 部屋を出る前、グリがキスをせがんできた。

 願いを叶えてやり、外へ出る。


「遅えよ」


 決闘相手は既に廊下で待っており、青依が棘のある声で二人に文句を言った。


「遅刻はしなかったんだからいいだろ。二人ともよく眠れたか?」

「ええ、最高のコンディションであんた達を殺せそうだわ」


 物騒な内容とは裏腹に、翠佳の声色は穏やかだった。

 色々な意味で、昨夜の出来事を引きずってはいないようだ。


 刻限である午後十時ちょうど、廊下の一方から何者かが現れた。

 見たことのない人物だったが、赤里らはすぐ得心する。


 多忙のため、茶禅は今回の決闘に立ち会うことができない。

 代わりに派遣されたのが、あの黒スーツに黒サングラス姿の、褐色肌の大男なのだろう。


「……おはよう、ございます。今回、茶禅さんに代わり、皆さんの立会人を務める、ブラ、です」


 どこかぎこちない話し方で、ブラと名乗った組織の人間が一礼する。

 サングラスに隠されて目元は窺えないが、顔面へ幾筋にも刻まれた古傷が、相当の修羅場を潜ってきたであろうことを想像させる。

 もっとも、このような成りでは表に出たら目立つ事この上ないだろうが。

 スキンヘッドなのが、更に第一印象で相手に与える危険度を加速させる。


「ブラ?」

「ブラック、だから、ブラです」


 赤里が聞くと、ぎこちない答えが返ってくる。

 微かに動かした右手を見ると、中指にブラックオニキスのついた指輪がはめられていた。

 安直すぎだろうと赤里は突っ込みたくなったが、グリも似たようなものかと、隣のパートナーを見て考え直す。

 当のグリは、何のツボにはまったのかは分からないが、おかしくてたまらないといった風に、必死に笑いをこらえていた。


「挨拶の時はサングラスぐらい外すものじゃなくて?」


 あまつさえ、出会い拍子に鋭い指摘まで繰り出す。


「……失礼、しました」


 ブラは素直にサングラスを外し、四人の前に素顔を晒した。

 お世辞にも整った容姿とは言いがたい、というのが、赤里の正直な感想だった。

 多数の古傷や、人種の違いによる美的感覚の相違を抜きにしても、である。


 しかし別に、これからの任務に彼の容姿は全く関係がない。

 "作戦"の障害にならなければ、それでいい。


 一行は一台の車にまとまって乗り、ブラの運転で決闘に指定された場所へと向かう。

 場所の詳細は一切聞かされなかったため、到着しないことには分からない。

 が、どこであれ、赤里とグリの作戦には特に支障をきたしはしない。

 必ず成功させるという強靭な意志、揺るがない冷静さの方が大切だ。


 流石に昨日のように雑談を交わす精神的余裕は、三人にはなかった。

 見た目通り、ブラは無駄口を好まない性質のようで、必要以上のことは決して自分から口を開こうとしない。

 唯一グリだけは普段通り色々と周囲へ話しかけていたが、反応が悪いと分かると、やがてつまらなさそうに黙ってしまった。

 青依は、車を二台用意しておけよと心の中で毒づいていた。


 休憩時間もなく、およそ二時間近くもの時間、車は延々と走り続けた。

 着いた先は、あの寂れた港町とはまた違った趣の場所――都市部から離れた山奥だった。

 海の次は山か。まるで遠足だと、赤里が調子はずれなことを思っているうちに、車が停まる。

 ドアを開けて車を降りた瞬間、季節にそぐわない肌寒さが一向にまとわりつく。


 人気がないとはいえ、まさかこんな周りから丸見えな駐車スペースで始める訳でもあるまいと、皆理解していた。

 示し合せるでもなく、無言でのそりと動き出したブラについて、一行は歩き始める。


 立入禁止の柵を越え、細い木が林立する道なき道を突っ切っていくと、木々の隙間に開けた空間が見えてくる。

 あそこか。赤里らの目には、木漏れ日がひどく冷酷なものに映っていた。


 決闘の地は、今はもう使われていないであろう、古い吊り橋だった。

 人二人が通れそうなほどしかない幅で約五十メートルに渡って伸び、向こう側と繋がっている。


 木製の床版はほぼ隙間なく敷かれているが、長年風雨に晒されて色褪せており、上方や柵代わりとして脇に張られたワイヤーもすっかり錆び付いてしまっている。

 橋としての形を保ってはいるものの、激しい戦闘に耐えられるかどうかは疑問符がいくつもつく。


 橋の数十メートル下には流れの激しい川、そして大小様々な石が無数に転がる河原が蛇行しているが、幸い風はほとんどないため、煽られて落下する心配はないだろう。

 そして、この場所は当然ながら第三者の目につくことはなく、人払いも完璧である。

 聞こえてくるのは、せせらぎや鳥のさえずりばかり。


「こんな場所をよく見つけたもんだ」

「全くだな」


 男二人は苦笑し合う。


「この中に、高所恐怖症の人はいる?」


 グリが振り返って問うが、皆一様に首を振る。


「ちょうど、時間です。では、どうぞ。両名が橋の中央に、差し掛かった時点を、決闘開始とします」


 ブラが何の前触れも名残もなく、静かに決闘開始の合図を出した。

 最低限の取決めさえ守れば、一切口を出さない方針らしい。

 その課せられたルールとは、以下の通りである。


 ・グリと翠佳、赤里と青依が一対一で戦うこと

 ・いずれか一方が死亡するまで、戦いを続けなければならない

 ・決闘中、事由の如何に問わず、パートナーの手出しを禁じる

 ・決闘においてはいかなる武器を使用してもよい

 ・二組の一方同士が生存した場合は、残った二名が戦い、決着をつけねばならない


 赤里とグリにとっては都合が良かった。

 特に一番目と四番目がだ。

 作戦の成功率は、少しでも高くしておきたい。

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