5章『セピアの父、モノクロの上司』 その1
「ごめんなさい。私、あなたの気持ちには応えられない」
「……そうか」
「本気で想ってくれて嬉しいのは本当よ。でも、私は……あいつを……」
「そんなすまなさそうにするなよ、お前らしくもない。いつも通り偉そうに振る舞ってろよ。心配するな、二人のことは素直に祝福するし、それで俺達の関係が変わったりもしない。だから、泣くな」
「……うん、ありがとう。じゃあこれからも、強気で責めていいのね?」
「ああ、むしろよろしくお願いしたい」
「分かったわ、このマゾ男」
「それでこそ翠佳だな」
「ふふふっ」
「大丈夫だ。俺は、傷付いたりなんかしない。何があってもな。青依を支えてやれ。俺は、お前たち二人を助けてやる。これからもずっと――」
帰りの車内は、静かだった。
運転手は赤里、助手席にはグリが座り、後部座席には青依と翠佳が座っている。
座席配置を提案したのは赤里だった。
この期に及んで今更逃亡などすまい、という信頼の表れである。
彼の気持ちに応えるように、青依と翠佳も、手持ちの武器や通信機器の類を全て赤里に差し出していた。
「赤里、飴いる?」
車内は静かであったが、音楽やラジオをかけていないというだけで、会話が一切なかった訳ではない。
時折誰かがこうして話を振ってきていた。
「飴なんか持ってたっけか」
「さっき町を歩いてたら、おばあさんがたくさんくれたの。美味しいわよ」
自分自身、舌で舐りながら、グリはしきりに勧めてくる。
「そうか。じゃあせっかくだから、一つもらうよ」
「何味がいい? 色々あるわよ。いちごでしょ、りんごでしょ、さくらんぼでしょ……」
見事に赤いものばかりだった。
「じゃあ、いちご味」
一番最初に挙げたものを選ぶ。
「食べさせてあげる。はい、あーんして。どう、美味しい?」
「懐かしい味がする」
「あら、赤里ったら私の指先まで舐めて、いやらしいんだから」
グリの口調に、嫌悪感は一切含まれていない。むしろ嬉しそうだ。
自分のことを棚に上げやがって、と赤里は突っ込みたい心持ちになる。
「君が勝手にねじ込んできたんだろ」
「指が滑ったのよ、ふふふ。ああん、車を揺らしちゃダメよ。赤里の方に倒れちゃう」
「シートベルトを外すなよ。ちゃんと締めておけ」
「はーい。……あ、忘れてたわ。飴、あなたたちも欲しい?」
「いや、いい」
「いらないわ」
「あっそ」
青依と翠佳は明らかにグリを警戒していたが、グリの方は正反対の態度を取っていた。
(自信、か?)
短い時間ながら共に過ごした経験から、赤里はパートナーの気質を徐々に把握しつつあった。
「そういえば、協力者に断りを入れなくてよかったのか? 舟で逃げるつもりだったんだろう」
「大丈夫よ。もう組織が"話"をつけてあるから」
流れを変えようと青依に尋ねたつもりだったのに、答えたのはグリだった。
青依本人は、忌々しげに舌打ちをし、窓の外へ顔をそらすだけだった。
赤里は翠佳にも話しかけたいと考えていたが、ついつい躊躇ってしまう。
(俺、そんなに分かりやすいか?)
理由を察せないほど鈍感ではない。
グリは、明らかに翠佳へ嫌悪感を抱いている。
憎悪、というほど激しくはないが、到底友好的には見えない。
だからこそ、これまで以上に絡んで、見せつけようとしているのだ。
誤解しているのではないかと、赤里は思う。
確かに翠佳への未練が全くない訳ではない。
今でも幼なじみとしてでなく、一人の女性として愛してはいる。
しかし、既に割り切れてもいる。
いくら想いを寄せたところで、到達できない場所が存在するのだ。
影ばかりを追い続けても仕方がない。
そして、青依との仲を祝福しているという気持ちにも嘘はない。
是非とも二人で幸せになって欲しいと、心から願う。
なのに何故グリが嫉妬するのかが、赤里には分からなかった。
実際に相思相愛ならば理解もできるが、結ばれてもいない関係に何を執着しているのだろうか。
また、怒りに取り込まれてグリが"変貌"しないことを祈っていた。
まさか茶禅の命令を無視して凶行に走るとは思えないが、念には念を入れておくべきだ。
好感度は下げない方がいい。
「そういやよ、赤里。お前、また車変えたよな?」
青依が、バックミラー越しに赤里の顔を見つめて尋ねる。
「ああ、こいつが俺を呼んでいた気がしたんでな。衝動買いしちまった」
前の車は結局一年近くしか乗らなかったが、後悔はしていない。
車には思い入れがないので、スポーツカーにもヴィンテージカーにも乗りたいとは思わない。
ただ実用性、乗り心地と居住性を意識していた。
「お前なあ、少しは貯金しろよな。そうやって稼いだ金、ほとんど使ってんだろ。先のこととか考えてんのか」
「またその話か。考えてない、というより考えられないんだよ。俺がこういう性格だって、お前も知ってるだろ?」
赤里のあっけらかんとした態度に、青依は呆れたように首を振った。
「青依。赤里はバカなのよ。好きにさせときましょう」
翠佳が突き放した瞬間、ガリッ、という音が赤里の耳に届く。
グリが飴を噛み砕いた音だった。
「グリ、飴をくれ。糖分が足りない」
慌てて赤里も飴を噛み砕き、欲しくもないおかわりを催促する。
「……もう、赤里ったら食いしんぼさんね。今度は何味がいい?」
「りんご」
先程、二番目に挙げたものを選択した。
「りんご味ね。はい、どうぞ」
口内が更に甘ったるくなり、飴でない異物が初回の時よりも深くねじ込まれる。
「大変ね、赤里」
翠佳は同情的な眼差しを送った。
こうした赤里のある意味涙ぐましい努力の甲斐もあって、道中、グリと翠佳の間に特に大きな問題は発生しなかった。
一度だけ休憩を挟み、往路とほぼ同じ速度で車を走らせていく。
が、景色が都市部に変わってくると、途端に道路の流れが悪くなり始める。
事故ではなく、単に交通量が増えたため、渋滞がちになってしまっているのだ。
赤里は、苛立つどころか少しだけほっとした。
茶禅から刻限の指定はされていないため、急ぐ必要はないし、可能ならば限りなく低速で車を走らせたい、というのが本音だ。
グリ以外の残り二人も、彼と同様の感想を抱いていた。
意図せぬ形で時間が延びたとはいえ、会話量が増えた訳ではない。
これまでと特に変わらず、差し障りのない、よく言えば慣れたやり取りをするばかりだ。
グリがいなければ、三人でどんなことを話していただろうか、なんてことを赤里は考えてしまう。
特に恩恵もないまま、ビジネス街の一角に建つ組織本部のあるビルに着いたのは、すっかり夜になった時間帯だった。
「ここには二度と来ないと思ってたんだがな」
青依が窓越しに、一見普通のインテリジェントビルを見上げ、苦々しげに漏らす。
赤里は返事をせず、スロープを下りて車を地下駐車場へと進ませる。
この時、グリが茶禅へ一報入れていた。
まだ本部内にいるということで、今すぐ来て構わない、との返答だった。
「このタイミングで連絡を入れたってことは、まだ私たちを疑ってたのかしら? 報告したのに途中で逃げられました、じゃあ洒落にならないものね」
「そんなことないわ。これでも一応、信用はしてるのよ」
不敵に微笑を交わし合う女二人。
この時点ではもう赤里も、彼女らの動向にさほど神経をすり減らさなくなっていた。
今後、茶禅からどのような命を下されるかは不明だが、少なくともグリが"変貌"する心配はないだろう。
「お疲れ様です」
「ご苦労様」
地下駐車場にいた、顔見知りである警備の人間と軽く挨拶を交わす。
「四人の行動とは珍しいですね」
「ええ、特殊な仕事だったので」
青依と翠佳の脱色は、まだ末端の人間までは知らされていないらしい。
当の二人は素知らぬ態度で、赤里の横に並んでいた。
何重ものセキュリティロックを解除しつつ通路を抜け、地下駐車場内のエレベータに乗り、茶禅のいる部屋を目指す。
赤里、青依、翠佳の三人の心拍数が、緩やかに上昇していく。
恐怖でも罪悪感でもない、混じり気のない純粋な緊張感がそうさせた。
ドア前で一度立ち止まり、赤里は後ろを振り返る。
「心の準備はいいか」
「つまんねえお節介はいらねえよ。大丈夫だ」
「そんなことを気にするようだったら、最初から逃げたりしないわ」
二人の反応に、赤里は納得したように頷き、茶禅の部屋のドアをノックした。
「入れ」
「失礼致します」
「赤里、グリ、御苦労だった。……それと、よく戻ってきたな。青依、翠佳」
独特な雰囲気の和室のほぼ中央で、畳の上に正座していた茶禅は、静謐な空気を身に纏い、脱色した二名を見据えた。
青依と翠佳は、言葉を失ってしまう。
平然と振る舞っていようと目論んでいたのに、茶禅の姿を見た瞬間、全てが雲散霧消し、何も言えなくなってしまったのだ。
「四人とも夕食は取ったのか」
言葉を出しあぐねている青依と翠佳に先んじて、茶禅が尋ねる。
「いえ」
赤里が代表して答えると、
「そうか。ならばまずは食事だな。座って待っていろ」
浮上したと錯覚しそうなほど滑らかな挙動で、茶禅が腰を上げた。
畳に上がった四人は部屋の中央で輪になり、指示通り座って待つ。
人数分の座布団が事前に用意されていた。
流石にこの場で雑談に興じる余裕はなく、おしなべて神妙な顔つきをし、障子を隔てた別室に消えた茶禅の再来を待ち続けていた。
およそ十五分間の沈黙に耐えると、音もなく障子が開き、ようやく茶禅が再び姿を現した。
両手に持っている盆の上には、おにぎりの山と沢庵、急須と湯呑みが五つ載せられている。
「茶禅さんもまだ食事を取ってなかったのね」
「折角だ、一緒にと思ってな」
グリの質問に答えながら、茶禅は手際よく茶を注いでいき、それぞれの前に置いていく。
湯気と共に漂う香ばしい匂いを嗅いで、赤里の腹が鳴る。
それを聞いた他の四人が小さく笑う。




