4章『最果ての港町、銀の海の際で』 その2
「何だか寂しい町ね。でもこういう所は嫌いじゃないわ。髪には良くなさそうだけど」
警戒や探索ではなく、純粋な観光目線で町のあちこちを見て、グリは感想を述べる。
「意外だな。つまらなさそうだとか言い出しそうなのに」
「そんなことないわ。逆よ。むしろあんな広い海を見たりするとワクワクしてくるわ。どこまでも行けそうな、自由な気持ちにさせてくれるから。ほら、あの鳥みたいに」
グリの指差した、海のある方角の空には、渡り鳥の一群が、海の彼方を目指して翼をはためかせていた。
「おいおい、グリも脱色したいのか」
「いいえ、興味ないわ。私はある意味、もう自由を手にしてるから」
赤里の冗談めいた言い方とは正反対に、しごく真面目にグリは答えた。
相変わらずのひらひらとした衣装は、誰が見ても町の風景とミスマッチ極まりない。
買った服を着たのは結局当日限りで、今は赤里の自宅に保管してある。
グリの服装について、もはや赤里は何も言わなかった。
時々すれ違う地元の人間も、時折奇異な視線こそ送ってくるが、声をかけてくるものはいない。
二人は、町の内部を蛇行して貫く、ひどく緩やかな坂道を下り続けていく。
わずかずつ濃くなる磯の香りに伴って、心拍数が少しずつ上昇していくのを客観的に観察する。
赤里はこの時点で、自分でも不思議に感じるほど冷静になっていた。
町に足を踏み入れた瞬間、醒めてしまったのである。
海風が火照りを鎮めるように。
普段の仕事と何ら変わりがない状態だ。
殺したくない、という思いが暴れ回るどころか、不気味なまでに大人しい。
一体どうしたというんだ。
あの夜の感情の氾濫はなんだったのか。先程までの拒絶反応は?
肚が決まってしまったのだろうか。
それとも、親友も標的も、結局は同列でしかなかったというのか。
「そろそろ手を離してくれないか」
微かな戸惑いを消すように赤里は言う。
グリは無言で、繋いでいた手を離した。
一直線に海を目指す。
段々と、町の終わりを示す防波堤が迫ってくる。
二人は、刻まれている微細なヒビがくっきりと見えるほど近付いてから、優に成人男性の背丈以上あるそれを跳躍して乗り越えた。
寂れた港が、押し寄せる海の際で時を止めかけていた。
「……誰もいないわね」
風でめくれないようスカートを押さえつつ、グリはため息混じりに言う。
見えるのは、打ち捨てたと思われる半壊した舟、聞こえるのは風と潮騒に加えてカモメの鳴き声ばかり。
赤里らのローカル共通無意識は、現代科学の測位システムのように正確な位置を算出してはくれないようだ。
「ま、しばらく散歩するのも悪くないかも」
ただし、組織の諜報班が集めた情報には相当の信頼性がある。
確かに青依と翠佳は、この小さな港町へ立ち寄り、留まっているに違いない。
「いや、そんな時間はない」
「どういうこと?」
「何となくだけど、俺には分かるんだ。二人の場所が」
無意識の誤差は、自意識で修正すればいい。
「なあ翠佳、聞いていいか」
「却下」
「そう言うなよ。お前、正味な話、気持ち的に赤里と何パーセントの力で戦える?」
翠佳は、青依にボディブローを見舞い、
「これくらいね」
毅然と言い放った。
「っ……ゲホッ……! 橙希のへなちょこパンチより痛えや」
「お世辞はいいわ。あんたはどうなのよ」
青依は不意に翠佳を抱き寄せ、長い長いくちづけをした。
「これくらいだな」
「……バカ」
翠佳は、唇にかぶせた細長い指の隙間から掠れた声を漏らした。
「こんな開けた場所で堂々とイチャつくなんて、随分と余裕だな」
青依ではない男の声。
二人が佇む波止場の先端へと現れた、更にもう一組の男女の片方が発したものだった。
青依と翠佳は、ゆっくりと声の方を向く。
目立つ洋装の女の方は初めて見る。
地味な私服の男の方は……目をつぶっても鮮明に姿を思い描けるほど、長く濃密な時を共に過ごしてきた幼なじみだった。
一瞬、青依と翠佳の顔に複雑な色が走る。
それを目敏く読み取った赤里が何かを言いかけようとしたが、
「せっかく二人きりでデートしてるってのに、邪魔すんなよ。相変わらず空気読めねえな」
青依の張りのある声に遮られてしまう。
「そいつは悪かった、許してくれ。でも、いつものことだろ」
「それもそうだな。まあ、最後にお前のツラを見とくのも悪くねえか」
赤里と青依は、互いに相好を崩す。
「ここまで来たら、もうコソコソすんのもめんどくせえ。つーかどうせならもっと早く来いって。お前が遅えから、あのバカ共が先に来ちまうし」
「本当に仕掛けてきたのか、橙希と会桃」
「返り討ちにしてやったけどな」
「はは、流石だな」
「当然の結果よ」
こんな彼、見たことがない――
幼なじみ同士のやり取りを見て、グリは赤里がいつになく気を緩めているのに気付いた。
それを咎めなかったのは、青依と翠佳にまだ害意がないことにも同時に気付いていたからである。
「何を男同士だけで勝手に盛り上がってるのかしら。相変わらずボーっとした顔してるのね、赤里」
「翠佳こそ、相変わらず言葉の選び方がきついな」
赤里と翠佳は、互いに小さく笑う。
そのやり取りを見て、グリは細い眉をぴくりと動かしたが、誰も気に留めるものはいない。
「スーツじゃないんだな」
「ええ、仕事以外で着るほど真面目じゃないから」
赤里は少し残念そうにしかめっ面をした。
任務の際、翠佳は黒のパンツスーツを好んで着用していたのだ。
「なあ、戻る気はないのか? 二人が許されるように、俺が茶禅さんに掛け合って……」
「無理よ」
横から割って入ったのは、グリだった。
冷たい口調ですげなく告げる。
「茶禅さんはともかく、ボスはきっと許さない」
「グリ、ボスと会ったことがあるのか」
「ええ。ボスはそういった問題に非情よ。残念だけど、二人は……」
「赤里、なんだこのお嬢ちゃんは。お前の新しいパートナーか?」
「そうよ。私はグリ。覚えても覚えなくても、どっちでもいいわ」
そう言いつつ、グリはエメラルドのピアスを青依に見せた。
二人は脱色の際にアクセサリを捨ててしまっていたため、返事として自分たちの色を見せることができなかった。
「私と同じ色なのね」
代わりに翠佳は感想を述べ、ピアスとグリの顔を順に眺める。
グリは翠佳と一切目を合わせようとしなかった。
それどころか、まるで存在もしていないかのような態度を取っていた。
更に彼女は、三人が思ってもいないような行動に出た。
隣にいる赤里の腕を取って顔を引き寄せ、頬にキスしそうなほどの距離で、
「赤里。私、ちょっと夕方ぐらいまで海で遊んできていいかしら」
と、突然に任務の一時放棄を宣言したのだ。
「…………ああ」
すまない、という呟きを聞いたグリは赤里にだけウィンクをし、青依と翠佳には目もくれずに小走りで去っていった。
「信用していい。俺が保証する」
青依と翠佳の視線を感じ取り、赤里が説明する。
そこに至るまでの変遷は不明だが、ともあれグリはしばしの猶予を与えてくれた。
最後に再び旧交を温め合う機会を得られたことに感謝する。
「さて、話してあげましょうか? どうせ私達が逃げ出した理由が知りたいんでしょう?」
先陣を切ったのは、翠佳だった。
「聞かせてくれ」
「いいわ、私が言うからあんたはすっこんでなさい。といっても、大方分かってるでしょう?」
「そうだな」
赤里は二人を、正確には二人の手を交互に見る。
互いの左手薬指には揃いの指輪がはめられていた。
小さいながらも力強い白金色の輝きが、そのまま二人の意志に映る。
「……今、妊娠してるのよ、私」
翠佳の告白にも、赤里は特に動じた様子を見せなかった。
「それだけじゃないだろ。話せよ、青依」
「いや、それだけだ。それが全て、だよ」
指名された青依は、苦々しげに少しずつ言葉を絞り出していく。
「生まれてくる子どもを、俺らと同じにはしたくはねえ。いや、子どもだけじゃねえ、翠佳もだ」
「あんたもでしょ」
翠佳が補足した時点で、赤里は全てを察した。
「人殺しの汚れた一家にはなりたくないってことか」
先日の夜、グリの膝の上で得たひらめきは外れた形となったのだが、とっくに忘れていた。
代わりに赤里は、恋愛禁止の掟が廃止された際、新しく改定された条項の一つを思い出す。
『"殺り手"に子が産まれた場合、子の方も"殺り手"として養成せねばならない。なおその際特別手当が発生――』
いや、特別手当はどうでもいい。
赤里は、肺の中の空気を全て絞り出すように大きく息を吐いた。
「虚しくなっちまったんだよ。それに……今になって死ぬのが怖くもなってきちまったんだ。人間って、守るものができると、こんなにも臆病になっちまうもんなんだな」
「一般的な、普通の生活に憧れちまったのか」
共感したことはないが、理解できないことはない。
訓練期間中だった幼い頃や仕事を始めたての時期、性的に成熟しかかった年齢に同様の発言をした仲間たちを、赤里は何人も見てきた。
だが理由の如何に関係なく、彼らは例外なく同じ結末を辿る。
まず、上役に"退色"を申し出ても、にべなく却下され、取り合ってもらえない。
しつこいようだと、要注意人物として組織にマークされ、様々な場面で不利益を被ることが増える。
そして……今回の青依や翠佳のように"脱色"を実行に移した者は、追手によって始末される。
逃げ切ることに成功した者は、赤里の知る限り、ゼロ。