プロローグ『灰色の汚れた夜』
「三人は、何色が好きなんだい?」
「ぼくは赤!」
「ボクは……青色かな」
「わたしは、緑色が好き」
「それじゃあ、これから君達に新しい名前をあげよう。好きな色にちなんだ名前だ。大事にするんだぞ」
灰色。
灰色の壁の汚れが、やけに赤里の目を引いた。
自分の所為だから、というのは関係ない。
一見しただけで高級感が分かるそれにつけた真新しい染みではなく、もっと昔に刻まれたと思われる古い染みが、彼は気になって仕方がなかった。
世界に数えるほどしか存在しない壺よりも、アンティーク調の化粧台の上で輝く宝石よりも、誰も深く気に留めないような、何てことのない壁の古い汚れが唯一無二の奇跡のように映っていたのである。
赤里の足元には、たっぷり血を吸ったペルシャ絨毯が敷かれており――そして、絨毯の隅の方で、家の主が絶望の形相で硬直したまま横たわっていた。
「すみません、気になったんですけど。あの壁の汚れ、どうしてついたんですか?」
赤里は、質問を投げかけた。
無論、既に事切れている男に対してではない。いくらなんでもその辺りの区別はつく。
男の隣にへたり込んでいる、金髪の女へと向けたものだ。
しかし、女からの明瞭な回答はなかった。
壊れかけた笛の音にも似た、掠れた震え声だけが漏れ出ている。
「しょうがないな」
まともな問答は不可能と判断し、赤里はナイフを握る右手を、ゆっくりと上げた。
連動して、女の顔が更なる恐怖に引きつる。
対照的に、赤里には恐怖も嫌悪感も、愉悦もなかった。
あるのはただ『女を殺す』という単純な意図のみ。
「や……や、やめ……」
乱れて目に垂れかかった、染色しすぎて不自然なまでに眩しい金の髪を払うことも忘れ、女は最大限、抵抗の空気を示した。
が、体が動かない。
助けを呼びたいが、呼べない。声が出ない。
床に転がる銃を拾って反撃するなどもってのほかだ。
雰囲気を出すのが精一杯の反応であった。
「無駄ですよ。あなた以外の人間はもう死んでいるはずです」
赤里は、女が伝達したがっている事項を正確に読み取り、答えた。
「ど、どう、して……」
「一切お答えできません。悪く思って下さって構いませんよ。俺は、良心のない殺人鬼です」
答えるのとほぼ同時に、赤里は一足に距離を詰め、ナイフを持つ右手を振るった。
鋭利な刃は首の皮膚や筋肉、そして血管や神経といった重要な部分を容易く切り裂き、女の生命活動を停止させた。
悲鳴さえ上げられず、女は鮮血をしぶかせながら、固い床に倒れ込んだ。
「この感触、大事だ」
誰に聞かせるでもなく、赤里は呟く。
男女共に、グレーがかった瞳から完全に光が消えていることを確認し、懐から厚手のハンカチを取り出して、ナイフの汚れを拭き取り始める。
通常のものよりも大振りで、切れ味も鋭い特注品のため、拭き取るには少々注意を要するが、そこはもう何十何百回と繰り返してきた動作だ。手慣れた仕草ですぐに綺麗な状態へ戻した。
ハンカチを裏返して畳み、再び懐に突っ込んだ赤里は、ドアの方角に視線を移した。
耳を澄ませてみるが、防音性に優れた部屋なのか、外からは何も聞こえてこない。
――彼らは上手くやっただろうか。
疑っている訳ではないのだが、静かすぎるせいで、ついそんなことが思い浮かんでしまう。
確かめに行ってみるか。
いや、早く指定のポイントへ戻ろう。
赤里はドアに背を向け、ベランダへと続く窓へと静かに足を進め始めた。