中学四年生の放課後8
大村の薄情を思い知りながら俺は、一人きりの教室を出ようと鞄を手に取る。
……よせばいいものを、ここで俺は余計なことに気が付いてしまった。扉の前で振り返る。目に映るのはこれから一年間を過ごすであろう、今はもぬけのカラとなった教室。そう、一人きりの教室だ。生唾を飲む音が、静寂に包まれた教室内に響く。
健全な男子高校生が放課後の教室で一人きり……やることなんて必然的に限られてくるだろう。とはいえ、今日入学式が終わったばかりの教室だ、縦笛なんてお宝は埋まっていない。
ならばせめて何か代わりになるものは無いだろうか。そんな不純に満ちた変態的欲求を廻らせていると、
「あれ、根本君?」と、後ろから声を掛けられる。
「ぅひゃあ!」
情けない叫び声と共に、口から心臓が飛び出しそうになるという言葉を、身を持って体感することになる。
俺は、振り返らずともその声の主が分かった。分かってしまった。分かってしまうのだから仕方ない。だからこそ、俺はこのまま全速力でこの場から逃げ出したかった。こんな、最高級のオルゴールが奏でるような、耳に心地良い声を放つ人物は、
「み、水原さん……」
火野さんの親友である彼女しかいないのだから。俺は肩をすくめながら振り返る。
「あっ、ごめんなさい、驚かせちゃった?」
そう言うと彼女は口元に手を当て、ガラス玉のように美しい瞳で、本当に申し訳なさそうな眼差しで俺を見つめる。俺がケツで糞を潰した時、ゲラゲラ笑い転げていた誰かとは天使と悪魔の差である。いや、あの男と水原さんを比べるのもおこがましい。
「ううん、大丈夫。心臓が飛び出しそうになったけど」
飛び出しかけた心臓の鼓動を制しつつ、軽い冗談を交えて返答する。
「うぅ、ごめんなさい……」
しかし彼女は更に困ったような顔をして、申し訳なさそうに身体を縮めた。
困ってしまうのはこちらの方だ。憂いに満ちたその表情は、静まりかけていた心臓の鼓動を一度大きく波打たせる。
まさか、これまでに純情だとは思わなかった。確かにこれは『盾』がなければあまりにも脆く弱々しい存在だ。『アテナ』なんて強そうなあだ名は似ても似つかない。これでは守ってあげたくなってしまうではないか。
「いや、本当に大丈夫だから。でも、なんで水原さんがここに? もう帰ったものかと」
学校のマドンナとの会話である。きっと普通の男子ならば緊張して会話にならないのだろうな、と若干の優越感。それに浸りながら、苦笑いを浮かべ話題の変換へ取りかかる。これ以上この幽玄な女神様を俺の冗談に付き合すのは忍びない。
「えっと、私ね、部活動の見学しようと思って行ってみたんだけど、今日って入学式だから他の学年の人達来てないんだって。だから部活もやってないみたいなの。少し考えれば分かることなのに、エヘヘ、バカだよね、私」
それは俗に言うドジッ娘というやつだろう。春休みの膨大な余暇をインターネットで過ごした俺の無駄知識は伊達じゃない。そしてまた、そういったところでコアな男子達の人気を博すことになるのだろう。
「それでね、かばん取りにきたの。部活見学する時ジャマになると思って置いといたから」
水原さんの机の横を見ると、確かに彼女の鞄が掛けられていた。全く気付かずに俺と大村は秘密の会談を繰り広げていたことになる。もし彼女があと五分でも早くここに来ていたら……想像するだけで身体が震える。
「それより、根本君こそどうしてここに?」
「え? あ、え、あの、えっと」
水原さんの穢れを知らない瞳が、俺を捉えて離さない。その瞳に映る困り切った顔をした男は、まるで水晶の中に閉じ込められた罪人のように見えた。こちらから聞くことはあってもまさか聞き返されるとは全く予想してなかった。
「い、居残り勉強だよ」
「居残り勉強? まだ授業始まって無いのに?」
「え? あは、あはは、そうだよね。あはは、はは」
笑ってごまかすほかない。本当のことなど、あなたと火野さんを分断するための秘密作戦会議をしていました、などとは口が裂けても言えない。水原さんは不思議そうにこちらを見つめる。
「そ、それよりさ、今は一緒じゃないの? その……」
いたたまれなくなり、急いで話題を横道へ逸らす。横道へ、といっても俺にとってはこちらの話題のほうが本道なのだが。
「え? 一緒じゃないって? あ、もしかしてヒカちゃんのこと?」
ヒノカエデだからヒカちゃん。この呼び名で呼んでいいのは親友である水原さんだけだ。中学時代、一度だけ身の程知らずの男子がこの名を口にし、周囲から拍手が送られるような見事なまでの正拳突きをみぞおちに食らい、十秒ほど呼吸困難に陥ったことがあった。
「うん、そう……火野……さん」
俺の声は、自分でも異様だと分かるほど小さくなっていた。やはり、この名前を口にするのは気恥ずかしいし、何より恐れ多い。
「ヒカちゃんならもう帰ったよ、なんだか見たいテレビがあるんだって。ヒカちゃん、凄いテレビっ子だから」
「そうなの?」
意外な事実を知った。確かに、近所にカラオケボックスもゲームセンターもないこんな田舎では、娯楽など必然と限られてくるものだ。元はと言えば、俺がパソコンという魔性の箱に取り憑かれてしまっているのもそのせいだ。だが、もしカラオケやゲーセンがあったのならば、友達を連れ立って行っていたのか、と問われると、カラオケボックスにトラウマがある俺は素直に頷くことはできないので一概には言えない。
「うん。でも、どうしてそんなこと聞くの?」
水原さんは無邪気に問う。この上目遣いもきっと無意識なのだろう。恐ろしい。
「へ? いや、ただいつも一緒にいるから気になっただけで……」
そんな目で見られてはたじろいでしまう。俺は頭をポリポリと掻いて誤魔化した。
「あ、もしかしてヒカちゃんに用事とか? 私メアド知ってるから協力してあげられるかも。今、根本君と一緒にいるって送るね」
妙案を閃いたかのような顔を見せた水原さんは俺の横を素早く通り抜け、自分の机からかばんを取り上げると、中から携帯電話を取り出して言った。何を血迷ったのか。そんな報告をされてしまったら俺の高校生活はここで終わる。高校生活どころか、もしかしたら火野さんによって人生を絶たれるやも知れない。
「違う! そんなんじゃないって! ちょっと疑問に思っただけだから!」
先ほどとは対照的に声を張り上げ、必死になって否定した。必ず死ぬと書いて必死。読んで字の如くである。
「ッ! ……そっか、ごめんなさい。あははは、私ったら、早とちり早とちり」
そんな俺の声に水原さんは少し驚いた顔をして、自分の頭をコツンと小突いた。こんなベタで使い古されたネタでも可愛く見せてしまうのはこの人の特権なのだろう。
こうして俺は延命に成功した。
「えっと……、怒った?」
生き長らえた喜びにホッと一息ついていると、水原さんが少し怯えた表情を俺に向ける。初め、この質問の意味が理解できなかった。が、思案した結果、水原さんは俺が発した大声を怒ったものだと勘違いしているのではないか、という結論に至った。純朴なる女神のことだ、あながち間違いではないだろう。
「いや違う違う、怒ったわけじゃないから、急にでかい声出してごめん」
そう予想した俺は、なるべく意図が伝わるように、そして敵意が無いことを証明するように苦笑しながら説明した。本来ならば両膝を付き、手と頭を地べたに擦り付けるのが一番なのだろうが、それをすると水原さんにまた要らぬ気を使わせてしまうので取りやめた。
「そっか、良かったぁ。ヒカちゃんがね、男の子はすぐに怒って暴れるから気をつけたほうがいいって言ってたから、根本君もそうなのかなぁ、って」
怯えた顔つきから安心の笑顔へと変わった彼女は、思わず息を呑んでしまうほど美しかった。
それにしても、何という男に対しての偏見であろうか。なるほどこのような植え付けをして、水原さんから男へ話しかけることを防ごうとしているのであろう。流石にこれはいかがなものかと思うが、火野さんがやっていることに批判はできまい。
それにこうしておけば、水原さんから話しかけられたことによって「もしかして俺のこと……」的な勘違いをしてしまう哀れな男子達を減らすことができる。つまり、彼女からしてみれば破壊すべき告白の絶対数を削ることができるわけだ。
「そうだったんだ、俺はそんなことじゃ怒らないから」
できる限りの笑顔を浮かべ答える。俺は別に、いくら美しいとはいえ彼女の美貌を一人占めしようなどとは考えない。だが、
「でも他の男はどうかわからないから、気を付けた方がいいかも」
こう付け足して、水原さんの溢れんばかりの輝きを他の薄汚れた男子達から守ることはいとわない。間接的に、そして結果的には、火野さんに協力できたことにもなる。
先ほど交わした大村との約束は、水原さんに声を掛けられた際に心臓の代わりとしてどこか遠くへと飛び出てしまったようだ。
「そっか、うん、ありがと。気を付けないとね。声掛けたのが根本君で良かった」
そう言って彼女は微笑む。全男子生徒が羨む水原さんの笑顔を、俺が今こうして一人占めしている。そのあまりにも現実離れした光景から、まるで白昼夢でも見ているかのような気分になる。
「俺も、声掛けてもらえたのが水原さんで良かったよ」
自然と釣られ、俺も笑顔になる。
「ふふ、何それ、変なの。根本君って、スズちゃんの言ってた通り、面白い人だね」
水原さんは小動物のように小さく笑うと、聞き慣れた人物の名前を出した。スズちゃん。先に登場した委員長気質の土田鈴子のあだ名である。鈴子、火野さん、水原さんの三人は意外と気が合うようで、よく一緒に行動しているところを目撃する。
鈴子に何を吹き込まれたのか、と聞いてみたいと思ったが、
「あ、私そろそろ行かなくちゃ。ヒカちゃんと約束があるんだ、昼ドラ見終わったら一緒にお昼食べに行こうって」
水原さんは手にした携帯で時刻を確認すると、かばんを肩にかけながら言った。
「あ、そうなんだ、それじゃあ……」
「うん、またね」
そう言って彼女はひらひらと手を蝶のように振り、短いスカートと綺麗な黒髪を揺らしながら廊下を小走りで駆けて行った。
またね、か。そういえば、水原さんとの会話はかなり久しぶりだった気がする。確か小学校の高学年くらいが最後だったか。いや、待てよ、そもそも水原さんが男子と会話するところなんてここ数年見かけていない。
男子との会話なんていつ以来だったのだろうか。少し思い返してみるが、学校で男子と会話している姿など全くと言っていいほど記憶にない。
水原さんはあまり異性と会話するのが得意ではない。先ほどのような、火野さんによる刷り込みが影響していることは言うまでもない。俺が小学校からのよしみということも理由に考えられるが、あんな風に自ら話しかけてくるのなんて本当に珍しい。
この邂逅で俺が先ほどまで抱いていた不純の念は、すっかり浄化されてしまった。今の今まで水原さんと会話した後、その親友の机に如何わしい真似をしようなんて考える人間は、この世にはいないだろう。もしいたとしたらそれは人では無く畜生なので俺の知るところではない。
しかしほんの出来心とはいえ、数分前にはそれを実行に移そうとしていた自分に対し、急激な罪悪感と嫌悪感が襲ってくる。これ以上自分を嫌いになるのはまずい、とっとと撤退することにしよう。
朝通ってきた通学路を、自転車で駆け抜ける。今朝はただ漫然と気を滅入らせながら走っていたこの路が、今はなんだか寛大な気分で走り抜けることができる。良く見れば、のどかな田園風景だ。
家に辿り着き、昼飯を食べ損なっていたことに晩飯の時間まで気が付かなかったのは、女神の笑顔の祝福で、腹が満たされていたからということにしておこう。
第一章『中学四年生の放課後』終了です