中学四年生の放課後5
うんうん唸るのは三十秒で取りやめ、今はただボーッと黒板の上に備え付けられてあるアナログ時計の秒針を見つめていた。決して、分からなかったわけではない、ただ大村に知能レベルを合わせるのが嫌だっただけだ。知的能力の問題では無く、我が自尊心の問題であった事を伝えておかなくてはなるまい。
入学式開始の時刻までは随分余裕があった。早くに家を出すぎたせいなのか、それとも三十秒で思考を停止させてしまったせいなのかは定かではない。
ゾロゾロと教室に入ってくるこれから二組の生徒になろうという面々を眺めながら、この無駄な時間を潰した。
この間に生じた特筆すべき出来事はというと、成瀬さんがようやく自分の席に座ることができたという事くらいである。途中、同じ中学だった奴らから「おわっ、マジで根本と同じクラスか」「うわぁ、不吉……」「こりゃツイてないな~」等々の声が遠くから十二回ほど聞こえたような気がするが、それは気のせいということにしておこう。
このような幻聴(?)を聞くことになるのなら、こんな田舎のヘボ学校ではなく俺のことを知っている人のいない、どこか遠くの高校にすれば良かったかな、とわりと真剣に考えていると、今度はその幻聴(?) がはっきりと俺の耳元で聞こえてきた。やはり寝不足はよくない。
「いやはや、俊ちゃんと同じクラスになるとは、私も悪運に見放されていないようだ」
睨みつけるように顔を上げるとそこには、今時の女子高生とは思えないほどにスカートの丈を伸ばし、ブラウスの第一ボタンまでしっかりと留め、ショートヘアの黒髪をボブにまとめた委員長気質の女子生徒が、優しげな眼差しを向けていた。
「なんだ静子、姉貴みたいな格好しやがって、口調まで真似てるつもりか?」
「嫌だな俊ちゃん、シズがこんな格好すると思うかい?」
そう言うとその女子生徒はひらりと一回転してみせた。それによって長めのスカートから膝小僧が顔を覗かせる。
「……ちょっと待て、お前、誰だ?」
語弊があった。正確に言うと、「どっちだ?」が正しい。
「もしかして、分からないのかい?」
「鈴子、なのか?」
確率は二分の一。疑問符を付けているが、間違っていることは無いだろう。何故なら俺は、先ほどクラス発表の名簿の中で、この名前を見かけている。
「当たり。私だと分かるのに随分と時間を要したね、春休みの間に私の存在を忘れてしまったのかと思ったよ。シズの名前が先に挙がってくるものだから」
安心した面持ちで次々に言葉を連ねる鈴子。相変わらず窮屈そうなブラウスの胸元に手を当て、ふぅっと息を吐く人間らしいその姿は、中学時代の鈴子からは想像がつかない。
「えっと……」
俺は混乱し、言葉が見つからない。まさか春休みの間でこれほどまでに変貌を遂げる人間がいるとは思わなかった。
「ん? 何故私がここにいるのかを疑問に思っているような顔だね。何を隠そう私もこのクラスなのだよ。クラス発表で私の名前を見なかったかい? 出席番号二十一番の所に『土田鈴子』と私の名前が記されていたはずなのだが……」
「いやいやいや、そうじゃなくてさ、お前、静子になってるじゃん」
土田鈴子には静子という双子の妹がいる。
彼女は明るく元気で活発で、多くの友人を持ち、スポーツ万能、特にバスケの実力は折り紙付きで、都心の強豪校への推薦が貰えるほどであった。が、結局は皆と離れるのが嫌でこの田舎に留まるような可愛らしいところも持っていて、静子という名前から名前負けならぬ名前勝ちと称されるような女の子だ。
対して姉の鈴子は、小さいことでガミガミうるさく、少しの規律違反も見逃さないという、憎まれ役の委員長として三年間君臨した実績を持ち、空気の読めない発言でクラス内の雰囲気を氷点下にまで叩き落としたことは一度や二度では済まない。
それだけに留まらず、大村率いる男子軍団と幾度となく衝突している為、男子ほぼ全員と大村に好意を持つ女子から敵意をむき出しにされるという離れ業までやってのけている。ある種、尊敬の賛辞を送らなければならない女子生徒なのだ。
そんな相反する二人の姉妹の姿が被って見えてしまっている理由は二つある。まず、
「お前、その頭どうした?」
バッサリと短く切られ、行方をくらました髪の毛だ。無くしたというのなら俺も一緒に探してやるにやぶさかではない。
「頭? あぁ、この髪型のことか、ほんの少し短くしたのだよ」
ボブヘアーの毛先をいじり、年頃の女の子のような仕草をするこの少女があの土田鈴子だと言っても、中学時代の彼女を知っている人からは嘘つき呼ばわりされるのが関の山だ。案の定、同じ中学だった連中がチラチラとこちらを窺い、驚嘆の顔を見せている。
「ほんの少し短くって、お前こないだまで三つ編みおさげだったじゃねぇか! 少しの限度を超えてるぞ!」
「そうかい? 私の中では少しだよ」
「よーし分かった。今度お前に何か少しくれって言われても全力で拒否するからな」
少しちょーだいと言われ、一口でアイスクリームを全部持っていかれる悲しみを味わうのは幼少期だけで十分なのだ。だから俺はこの場でその惨事を免れるための決意表明をしたわけだが、鈴子はそんな俺の決意も意に介さないようにクスリと笑い、
「やはり俊ちゃんにはユーモアがあるな、面白い。それにしても、俊ちゃんが気付いてくれるとは思わなんだ」
少し嬉しそうな顔を見せた。むしろ気付かないほうがおかしい。それこそ視力に問題がある。眼鏡を掛けたほうが良いだろう。そう眼鏡だ、第二の理由はそれだ。
「それで、眼鏡はどうしたんだよ?」
いつも掛けていたトレードマークとも言える瓶底眼鏡が、綺麗さっぱり顔の上から消え去っている。紛失するには余りにも大きすぎる代物だ。頭の上に掛けて「メガネ、メガネ」と往年のボケをかましている様子もない。
「あぁ、コンタクトにしたのだよ、髪型を綺麗に整える前にね。私も花の女子高生になったのだからな、イメチェン、というやつだが、どうだろうか?」
イメチェン、イメージチェンジの略。もはやこれはイメージをチェンジする域を超えてしまっている。人間そのものをチェンジしたようだ。
だが、中学時代の鈴子を思い起こすに、この変化はむしろ喜ばしいことなのだろう。
「うん、いいんじゃないか?」
「そ、そうか! シズに言われた通りやってみたんだが、正解だったようだな!」
鈴子の顔に一気に笑顔が華やいだ。なぜ妹そっくりに変身しているのかと疑問に思ったが、その妹を手本にしているとなれば当然の結果と言ったところか。
いつも周囲に敵ばかりを作りだして生きてきた今までの自分を捨て、妹を見習い、友人を多く作ってくれれば、きっと鈴子は楽しい高校生活を送れることだろう。羨ましい、いや、微笑ましいことである。
親離れする娘を見ているような、なんとも言えない寂しさと嬉しさで満たされる。が、
「なぁ俊ちゃん、一つ質問があるのだが、いいかな?」
「なんだ? 俺に答えられるものなら」
この質問によって、俺は痛感させられることになる。
「何故、最近の女子高校生はあんな娼婦のような格好をしたがるのだ?」
人は春休みの一カ月程度ではそう変わらないということを。
「しょ、娼婦ってお前――」
教室の空気に一閃、冷たい刃が走った。
「だってそうだろ? あんなにスカートを短くして、まるで自分の身体を売りに出していることを見せびらかしているようなものではないか」
もしここが男子校だったのならば、もしくは男子しかいない教室の中だったのならば、その議題に関しては色々と意見が飛び交うことだろう。俺だって一家言持っている。だが、今ここ、この教室でその発言は、ほぼ全ての女子生徒を敵に回したことになる。冷ややかな視線が鈴子を含め俺にまで降り注いでくる。
「べ、別にいいんじゃないか? 校則違反なら先生に注意されるだろうし、その範囲までならどんな格好したって……」
一男子高校生の意見とすれば、女子の制服のスカートが短いに越したことは無い。むしろもっと短くたっていい。なんならパンツを見せてくれたっていい。しかし今必要とされているのはその観点からではなく、女子側をフォローする立場の意見だ。自慢でも何でもないが、俺は鈴子よりは空気が読めると自負している。
「ふむ、確かにそう言われればそうなのかも知れない。私もあの格好に対して不満はあるが、批判しているわけではないからな」
俺の意見が上手く作用したのか鈴子は一応納得したようで、周りの女子達の視線も和らいでいくのが分かり、俺はほっと胸を撫で下ろした。
しかし、こんなにもナチュラルに敵を作れるこの性格は、もはや才能と呼んでも何らおかしくはないだろう。生かす機会の無い才能を果たして才能と呼んでいいものかどうかは俺の知るところでは無い。
さて、ただでさえ面倒くさい大村に加え、この鈴子まで同じクラスになるとは。この学校に来たことを本気で後悔し始めた。
――その時だった。
ガラリと教室の扉を開く音が耳に入り、反射的に視線をそちらへ移す。
入ってきた人物を見て、きっと今教室内にいる全ての男子がこの素晴らしい学校に入学できたことを神に感謝し、天にも昇る心地だろう。
俺もそのうちの一人であることは間違いない。だが、ただ一人、天に昇る途中で道に迷ってしまった。鈴子の外見の変化とは比較にならないほどの衝撃が脳を襲い、右も左も分からない目隠し状態で天に昇ろうとすれば、当然の帰結といえよう。
まず、潤んだ桃色の唇から笑みを零しながら教室に入ってきたのは、
出席番号三十五番、水原葵。
男子の目の色と教室の空気があっという間に一変した。実際には誰もが押し黙ってしまい「あっ」すら言えずじまいだったのは致し方無い。
繊細で長く可憐な黒髪をなびかせ、透き通るような白い肌とのコントラストによって生み出される彼女の笑顔は、見ているだけで心洗われるかのように美しい。美人は三日で飽きると言うが、彼女は三日どころか三世紀経っても見飽きないのではないかと思うほどだ。
生まれてきた時代が時代ならば、小野小町を弾き飛ばして歴史に名を残していたかも知れない、というのは熱烈な水原信者の大袈裟な発言ではあるが、小学校、中学校と散々見てきた俺でさえついつい見入ってしまいそうになるその美貌に対しては、あながち間違った表現ではないと思わせるほどであった。
しかし、脳の伝達信号が混線状態となっている今の俺にとって最も重要な事は、水原さんのその美しい容貌ではない。
俺がこれほどまでに困惑、動転しているのは水原さんが原因ではない。勿論、俺も、やっぱり水原さんは可愛いくて、なにより綺麗だと思う。テレビでよく見かける多種多様なアイドルよりも二段階、いや三段階は可憐で美しいと思う。もっと都心で生まれていれば芸能事務所なりモデル事務所なりが放ってはおかないだろう。
その容姿だけではなく、性格は優しく、物静かでおしとやか、若干病弱体質なところも男子にとっては高ポイントだといったところか。男というのは馬鹿な生き物で、守りたくなっちゃうような女の子にはほとほと弱いのだ。
だからといって俺は水原さんのことを特別な感情で『好き』というわけではなかった。
「ふぅん、ようやくお出ましか」
「うわぁ! お前……」
突如湧いて出た大村に驚きながらも、怪訝な目を向けることは忘れない。
「男共の目が一瞬で変ったの、分かったか? 嫌だねぇギラギラして、アホ丸出しみたいでさ」
見まわしてみると、確かに男衆が緊張した面持ちで口をポカーンと開け、その開いた口からはハァハァと欲望に塗れた吐息を我慢できずに洩れ出している。しかし事実だとは言え、
「おい、聞こえるぞ」
水原さん達に聞こえるのはマズイだろう。それはコイツも理解しているはずだ。
「ガッついたってしょうがないのにな。あいつがいる限り、この先一年はね」
そう言って大村が嫌みな視線を送った先には、水原さんの少し後ろに位置を取り、誰もが羨む彼女の笑顔を一身に受けているある女子生徒がいた。
水原さんとは対照的に、うっすらと小麦色に焼けた健康的な肌をし、日焼けで赤みがかったセミロングの髪を揺らしながら笑顔を返している。
そして、彼女こそ、俺を混乱のどん底へと叩き落とした女子生徒、
出席番号三十番、火野楓。その人である。