遅れてきた届け物と夢の中の彼女2
翌日、朝食がまともに喉を通らず、ほとんど何も栄養を摂らぬまま家を出た。自転車は前日のパンクで気が抜けてしまっている。なので、いつもより三十分早い登校となっている。でも、徒歩で時間を掛けて登校するのも悪くないと思った。そういう気分だった。
傷というものは負った時よりも、時間が経つにつれ痛みが徐々に悪化してくるというのが通説だが、これが心の傷にも通ずるものだとは思わなかった。心の痛みと共に気分が乗らないまま登校し、後ろの席を見て、更に気が滅入る。最悪の悪循環だ。
何かの間違いだったのなら、どれほど楽なことか。しかし、俺の隣に座る美少女の姿を見てこれは現実なのだと痛感させられる。
水原さんの赤く腫れた目は、長時間泣き腫らした痛々しい姿を容易に想像させる。そんな彼女の周囲には数人の友人達が集まり声をかけ慰めていているが、水原さんは静かに頷くだけだ。
今日の学校は昨日に引き続きお通夜状態だった。これは比喩表現でも何でもない。
クラスの華である水原さんが萎れていれば、その周りを飛び交う虫けら男子達も活気は無い。昨日の今日で水原さんに声を掛けるようなデリカシーの無い野郎は、残念ながら数名いたが、どれもクラスの全員から大顰蹙を買い、話しかけ損という結果に終わっていた。
ほとんど誰も話さない、そんな重い空気の中授業は進み、昼休みになった。重い空気を嫌った数名の生徒達は昼食を持って教室を出ていく準備を始める。そんな中、誰かがぼそりと、
「席替えで根本の近くになったから、不幸が移って死んだんじゃね?」
呟いたこの一言は、教室中に響いた。
心が、抉られた。
思えば、最近の俺は調子に乗っていた。俺のような不幸の塊みたいな人間が、好きな女の子と仲良くしようとすること自体、間違っていた。
俺は俯き、瞳の奥から押し寄せてくる液体を止めようと必死だった。反論はできなかった。
誰かが思い切り、机を叩いた。俺の二つ後ろの席で大村が勢いよく立ちあがり、怒りの形相で何かを言おうと口を開きかけていた。その時、
「そんな非現実的なこと、あるわけ無いじゃない!」
悲鳴に近い怒鳴り声。思わず、その声の発声源である右隣に視線が移る。
眼に涙をいっぱいに溜め、膝の上に置かれた両手に力を一杯に込めて、机の一点を凝視したまま眼の雫が零れ落ちないように耐えている彼女の姿は、とても怖かった。
デジャブだ。今までとは違うベクトルで教室内が静寂に包まれる中、俺は数日前の体育倉庫での出来事を思い出していた。あの時、あの場所で確かに彼女も同じ台詞を言い放った。
鈴子が立ち上がり、水原さんの席まで移動すると小さく震えるその背中をさすった。耐えきれなくなった水原さんは大粒の涙を流しながら、
「きっと、ヒカちゃんが生きてたら、こう言ってたと思う」
誰に言うでもなく、寂しそうに呟いた。
その時、俺は水原さんの姿に彼女を重ねた。何故か、水原葵の中に火野楓がいた。
思い出した。昨日見た夢を。
夢の中の彼女の顔は――表情は、今の水原さんと同じような、とても寂しそうなものだった。
ただ座っているだけの、内容なんてまるで頭に入らない授業を終えて帰宅した俺は、昨日同様何もする気にならずただベッドに転がっていた。
事故現場に向かおうかとも思ったが、俺が行ったってどうにもならないのでやめた。それに事故現場を直に見てしまったら、本当に認めなくてはいけなくなるのが怖かった。
もしかしたら正夢、予知夢なのではないかというありもしない願望も抱くが、それこそ火野さんに、「そんなことあるわけない」と怒鳴られてしまいそうだ。
でも、やっぱり昨日見た夢が忘れられない。妙にリアルで、本当に現場にいたかのような。
着替えもせずただベッドに転がりながら、昨日見た夢を思い起こす。
学校近くの丁字路だった。そういえばあそこの丁字路は見通しが悪いことで有名だった。それに加え、緩やかな下り坂になっているために、知らず知らずのうちにスピードが出てしまうのだ。
町内会で何度も議題になったことがあったけれど、めったに車は通らないということで特に対策されることは無かったと聞く。せめて、もっと早くに町内会が手を打っておいてくれてれば、最悪の事態は免れたかもしれない。
言葉にならない怒りを込めた拳をベッドへと打ちつける。その衝撃のほとんどが布団に吸収されてしまい、僅かな反動が残るだけだった。が、俺はその反動を最大限駆使してベッドから飛び起きた。あることに気が付いた。
「ちょっと待て、ちょっと待てよ」
家を飛び出て自転車に飛び乗る。が、タイヤがぺしゃんこで使い物にならないと気付くと有無を言わさずそれを捨て倒し、駆け出した。目的地は言わずもがな、夢に出てきた丁字路。
俺が事故現場と知るはずのないその場所だ。だって俺はまだ誰からも、事故が起きた現場までは聞いていないのだから。
丁字路の端に、俺はうるさいくらいに息を切らして立っていた。そして、その向かい側に大量の花と飲み物、菓子類が置かれている。夢通りだった。何もかもが。そのお供え物の前に、一人の少女がしゃがみ込んでいるところまで。
一度体験したからなのか、それともこれもまた夢だからなのか、意外にも緊張しなかった。それでも、ゆっくり、慎重に近づいていった。もしも、ここがまだ夢の中だとしても、壊れないように、ゆっくりと。
彼女の後ろまで近づく。彼女は悠然と立ち上がり、振り向いた。俺は、自然と笑ってしまっていた。だって、彼女――火野楓の表情までも、夢の中と同じだったから。
昨日の夢はここで終わってしまったが、
「なーんだ根本か。ここに来た男子、あんたが初めてよ」
今日は、続きが見られそうだ。
彼女は弱々しい笑みで言う。こんな様子の火野さんは見たことが無い。まるで夢か幻のようだ。それならこの儚げな火野さんの様子にも納得がいくし、緊張せずに話せる。そう思うと、言葉が自然と溢れ出る。
「来たら、迷惑だったかな?」
息を整えてから、抑揚の無い声で言った。
彼女の目が、今夜の月みたいにまん丸になった。
「え、な、何で!」
一瞬で寂しそうな表情を吹き飛ばした火野さんを見て、俺は心の中で安堵した。その太陽みたいな顔でこそ火野楓なのであると俺は思う。
「何でって、火野さんのほうから話を振ったんじゃないか」
思わず笑ってしまった。こんなにも自然と笑えたのはいつ以来だろうか。考えてみると一昨日に火野さんと話をして以来なので二日ぶりだ。そんなに久しぶりでもない。
「そうじゃなくて、何であんた私と話してんのよ?」
苛立ちと戸惑いに満ちた様子で問い詰める火野さん。顔が近い。死してなお、美しい。
「え、話しかけられたものだと思って」
「違うわよ!」
「違うんだ……」
「違う! そうじゃなくて、あんた、私が見えるの?」
「えぇ、まぁ」
見慣れた高校のブレザーを着て、見慣れた高校のスカートを履いている。とても見応えのある姿だ。写真に収めたいくらいだが、心霊写真だと騒がれて見世物にされてはたまったもんじゃない。
「私、死んだんじゃないの?」
「そうらしい、ですね」
現実味の無い会話に、苦笑いしながら答える。
「じゃあ何であんた私が見えるのよ! ……もしかしてあんたも死んだとか?」
「まさか、そういうわけじゃ……」
心当たりが無いと言えば嘘になる。が、あの謎の液体を飲んだせいかどうかは断定できない以上、余計なことを言うのは自重する。
「てか何であんたなのよ! 葵にだって私の声は届かなかったのに……」
火野さんの声は段々と小さくなり、その表情もまた寂しげなものへと変わる。まるで満開の向日葵がみるみる枯れていくみたいで、見ているこっちまで悲しくなってくる。
何か声か掛けるべきなのだろうが、突然の死という人生最大の不幸を迎えた人に対する慰めの言葉など、俺には思いつかない。しばらくの重い沈黙の後、そのあまりにも悲痛な面持ちに居たたまれなくなり、例の液体について話してしまおうかという気にさせる。
「……ねぇ、あんた、何か知ってんじゃない? そういう顔してる」
「え?」
そんな俺の様子を察してか、火野さんは鋭い眼光をこちらへ向ける。蛇に睨まれた蛙状態である。こうなっては素直に白状するしかあるまい。
「あの、実は――」
俺は春休みに注文し昨日届いた例の商品について、それを飲み、意識を失っている間に見た夢について、その結果が今のこの状態なのだと簡潔に説明した。そんなバカなこと、あるわけ無いじゃない、と怒鳴られそうで怖かったが、
「何それ! すごいじゃない!」
彼女は目を輝かせ、満面の笑みという意外な反応を見せてくれた。こんな笑顔は水原さんと話している時でしか見たことが無い。火野さんの最大級の笑みにドギマギしていると、
「ねぇ、それ今から見に行っていい?」
「え、は?」
笑顔そのまま問うのであった。そんな顔で言われては断れるものも断れない。
「というよりこんな所にずっといてもしょうがないから、今からそれ見にあんたの家行く。もう決定。決まり。さ、行きましょ」
火野さんは早口でそう言うと俺の手を取って走り出す。方向が逆だったこともあり、慌てて引き止める。
「ちょっと、そんな急に」
「だって、それがあれば葵とまた話せるようになるんでしょ?」
「それはそうかもしれないけど、いやちょっと待って」
もう全て飲み切っちゃって現物はありません、と言う暇も無く。
「気にしなくていいわよ。いくらなんでも持ってきてもらうのは悪いし、直接行った方が早いでしょ? 」
更に手をぐいぐいと引っ張る火野さん。
死んだはずの火野さんの手には感触があった。その意外に小さい手をずっと掴んでいたいという気にさせられるが、その気持ちと共に火野さんの手を振りほどく。
「でも、事故現場から離れてもいいの? ほら普通、霊ってその場に留まるって言うし」
俺の決死の言い訳も、
「それは自縛霊。死んだことを認められなかったり、気付かなかったりする霊の事よ。生憎、私は死んだこと自覚してるし、それを認めてる」
火野さんの幽霊豆知識のよって論破される。
「へー、そうなんだ」と、素直に感心する反面、ある違和感。
「あれ? 火野さん、幽霊信じないって言ってたのに、結構詳しいね」
「う、うっさい! ほら、あんたの家行くんだからあんたが案内しなさいよ!」
一方的に話を進め、出発の音頭をとる火野さん。その歯にもの着せぬ物言い、きっぷよさ、うっすらと小麦色に焼けた健康的な肌、日焼けで赤みがかったセミロングの髪、その全てが火野楓そのものだった。
「これは夢だ。俺の願望的妄想が夢となったに違いない」と期待に膨れる胸の空気抜きをしつつ、俺は彼女に背中を叩かれながら歩く。
願わくは、この幸福な夢から醒めぬことを。