遅れてきた届け物と夢の中の彼女1
翌日、靴底に犬の糞がへばり付くスニーカーを履く足に力を込め、パンクした自転車を押しながら俺は、意気揚々と学校へと向かっていた。
何も、家を出て早々に踏み潰した犬の糞や、砂利道でやった自転車のパンクが嬉しいわけではない。これらを遥かに凌駕する喜びが、学校で俺を待ち構えている。それに比べたらこんな苦境など、お釣りが返ってくるほど安く生温いものだ。
「朝っぱらからパンクとか相変わらずツイてないなお前は」と冷やかしてくる同級生にも、清々しく朝の挨拶を決めてやる。
彼女は昨日、「じゃあね」と言った。これは「じゃあ、またね」の略であると俺は勝手に解釈している。つまり、また彼女と会話することが許されたと汲み取って問題は無かろう。
学校へと辿り着き、何とか自転車を駐輪場まで運び、犬の糞などお構いなしに靴を下駄箱にねじ込んだ。
俺は、自然とスキップでもするかのような足取りで教室へと向かった。笑みがこぼれるのを我慢しているせいで、締まりの無い顔になっているのも気にせず教室の扉を開ける。
何故か少し、いつもと空気が違うのには気が付いた。が、今の俺には取るに足らない問題だったので無視。お目当ての人物を探す作業へ以降する。どうやらまだ来ていないらしい。まぁいい、どうせ彼女の席は俺の後ろなので、自分の席で気長に待てば自然と彼女ほうからやってくる。
俺は自分の席まで移動し、まだ誰も座っていない後ろの席へと目をやる。確かにそこには誰も座ってはいなかった。いなかったのだが、その机の上には普段の学校生活ではまず目にすることのない代物が置かれていることに気が付いた。
……何故こんなものが、ここに?
率直な感想だった。こんなものを置かれるのはいじめられっ子と相場が決まっているのだが、生憎彼女はそんなことをされるような人ではない。
もしかして火野さんはいじめに遭っているのか? だとしたら、いじめに遭っている彼女を今度は俺が助けだせば、恩返しになり、さらにそこから深い関係になれるのでは?
なんて考えに及んだ俺を誰が責められよう。それが持つ本当の意味を、理解したくなかった。もう彼女がその席に、俺の後ろに座ることはない、と証明しているかのようなその、
菊の花が挿してある花瓶の意味を。
「俊、来たか。……これは、予想外だな、こんな形で『盾』が外れるなんて」
「大村、冗談キツ過ぎるだろ。こんなの」
俺は乾いた笑みを浮かべ、呟くように言った。
「今、職員室で確認してきた。マジらしい」
大村は若干、息切れしていた。きっと走って教室と職員室を往復して来たのだろう。全く、手の込んだイタズラだ。
「タチが悪すぎるぞ」
笑みを顔に張り付けたまま、彼女の机に置かれた黒く鈍く光る花瓶を撫でる。わざわざ準備したのだろうか?
「……交通事故らしい。昨日の放課後」
「放課後? そりゃ嘘だ。だって俺、放課後に話したもん」
「それじゃあ、きっとその後だ。時間的にも合ってる」
「いや、嘘だろ?」
不自然な笑みが崩れ落ち、表情というものが抜け落ちたまま、俺は呟く。
「俊?」
「こんなの、酷過ぎるだろ……」
「あぁ。今日は水原、休むってさ。……流石に俺も笑えねぇ」
朝のHRを告げるチャイムが響く。それと同時に担任が入って来た。いつもはジャージやトレーナー姿なのに、着慣れないスーツなんて着込んで。
「皆、席についてくれ。大事な話がある」
担任の言葉に皆、無言のまま従った。
ここで初めて、すすり泣く声に気が付いた。火野さんは水原さんだけでなく、他の女子からの信頼も厚かった。あの鈴子でさえもうつむいたままだった。
「皆、もう聞いてると思うが、昨日、火野楓さんが亡くなりました」
教室の異質な雰囲気とこの一言で、ようやく理解した。理解させられた。
担任がどんな表情だったのかは覚えていないが、その声はひどく機械的なものだった。
その後のことはほとんど覚えていない。俺の耳にかろうじて入ってきたのは、事故で車にはねられたということ、後日お通夜があるので参加してほしいということだけだった。
彼女がこの世からいなくなったと知った時、俺は、突き付けられた現実に、ただ茫然とするだけだった。
今日、学校で何があったのか、どうやって家の前まで帰ってきたか、全く何も覚えていない。
家に入ろうと鍵をポケットから取り出し、鍵穴に差し込んだところで施錠が開いていることに気が付いた。珍しく母親が先に帰ってきていた。隣町のスーパーでパートをしている母親は、いつも帰りは俺より遅いはずだが、今日は家にいた。一人になりたい今の俺にとってはあまり喜ばしいことではない。
「あぁお帰り、随分遅かったわね。ねぇ、火野さんのところの楓ちゃんのこと聞いた?」
「うん」
「交通事故って聞いたけど、本当なの?」
「うん。そうらしい」
「あそこ妹さんもいたでしょ? 可哀そうよねぇ。あんたも気を付けなさいよ。事故があった現場って」
「知らないよ! もう、いいだろ……」
今はとにかく部屋に戻りたかった。一人になりたかった。眠りにつきたかった。それこそ、永い眠りに。
部屋に戻るため、階段を登っていく。その一段一段がえらく急に感じた。半分ほど登り終えたところで、「そういえば、なんかあんた宛てで小包届いてたから、部屋に置いといたわよ」と母親の声がした。
部屋にたどり着き電気を付けると、床の上に置かれた小包を確認する。小包の上に張られた伝票には、消えたはずのサイト名とうちの住所が書かれていた。それは、春休みに注文し、届かず仕舞いだと思っていた例の商品だった。
座り込み、声にならない声を漏らす。涙が、包装紙の上に落ちて、染み込んだ。
「こんなもの!」
すでに無用の長物へと成り下がった小包を思い切り払い飛ばし、ベッドへうつ伏せに倒れ込む。弾け飛ばされた正方形の小包は壁にぶつかり、サイコロのように転がって部屋の隅へと追いやられた。
そのまま眠ろうかと思ったが、眠れなかった。忌々しい。気を紛らわせるために、何かしようと思った。起き上がり、ブレザーを脱ぎハンガーに掛ける。それだけですることがなくなってしまった。習慣になっているネットも、今日はパソコンを起動させる気にはならない。
ベッドに腰をかけ嗚咽にも似た溜息を漏らす。何もすることがない。何もしたくない。何も考えることがない。何も考えたくない。何も動きたくない。呼吸するのさえ億劫だ。火野さんと話したい。昨日みたいに。何で死んだんだ。どうして死んだんだ。火野さんが死ぬ必要なんて無かった。この世の中には他に死ぬべき人は沢山いる。なんで火野さんが。どうして――。
――不思議と、部屋の隅へ蹴飛ばされた小包に目がいった。この精神状態の中で、このまま放置して置くのはもったいないという感情が生まれたのは不思議でならないが、それしかやることがなかったからと自答し、とりあえず開けてみることにした。この時は身体が勝手に動いたことを記憶している。
包装紙に怒りをぶつけるよう、ビリビリと破り捨て箱を開くと、中からは栄養ドリンクのような小瓶一本と、封筒が出てきた。意外と強く弾き飛ばしたつもりだったが、緩衝材のおかげで瓶は無事のようだ。
まずは封筒のほうから目を通す。説明書とオーナーからの手紙が入っていた。手紙には、
商品のご購入、ありがとうございます。
この商品をご購入なさったということは、貴方は今、とんでもない不幸な目に遭われている最中なのではないでしょうか?
そんな貴方にはピッタリの商品となっております。
この状況を打破したいのであれば、すぐに商品を使用することをお薦めします。
使用方法につきましては、同封しました取扱説明書をよくご覧になってからご使用ください。
当店のまたのご利用をお待ちしております。店主
よくわからない文章が横書きで書かれていた。
もうひとつの説明書には、
水やお湯で薄めずに、全てそのままで一気にお飲みください。
短くこう書かれていた。バカバカしい。
手紙と説明書を封筒ごと破き捨て、瓶を箱へと投げ戻し、また横になる。
しばらく経つと、また瓶のことが気になりだした。一本一万円もしたんだ。飲むだけなんだ、どうせなら、と箱の中に手を伸ばし、瓶を取り出す。
透明の瓶の中には白っぽいような、銀色とも見てとれる液体が詰まっている。飲み物に例えるならスポーツドリンクだが、これはどう見ても水銀のような毒々しい色をしている。
キャップを回し封を開け、臭いを嗅ぐ。かなり独特で強烈な臭いがした。
「なんだこりゃ? 酒か?」
一度深呼吸し、恐る恐る一口あおってみた。
「んんんんぉご!」
吹き出しそうになるもなんとか我慢。これは喉、と言うより脊髄、いや、脳に来る味だ。
これ一本で一万円、そう思い出すと、残すわけにはいかないという意地が出てくる。
「ええい、ままよ!」
こんな場面でしか使わないであろう台詞を吐き、気合を入れると、一気に飲み干す。結果、意識が遠のきベッドに倒れ込んだ。
気が付くと、外にいた。
知っている場所だった。学校からそう遠くない丁字路だが、俺の通学路からは外れているので来ることは滅多にない。だが、中学時代、自転車のブレーキが効かず田んぼに突っ込み、走馬灯を見せられかけた俺にとっては忘れることのできない場所だ。
その丁字路の端に、俺は立っていた。ぜいぜいと息切れがうるさい。それが自分の呼吸音だと気付く前に、向かい側に大量の花と飲み物、菓子類が置かれている異様な光景を目の当たりにした。
それらがただ置かれているのではなく、お供え物だと気付くのにそう時間はかからなかった。そうか、昨日彼女はここで……。
自然と理解した。彼女の最期の場所に近づこうと、歩みを進める。すると、大量のお供え物の前に、一人の少女がしゃがみ込んでいるのが見えた。最初、うちの学校の制服を着ていたので火野さんのためにお供え物を届けに来た女子生徒かと思った。
すぐにその考えが誤っていたことが分かり、身が震えた。その後頭部には見憶えがあった。
向こうもこちらに気付いたらしく、ゆっくりと立ち上がる。無造作に赤髪を揺らしながら振り返った彼女の顔は――。
「――俊、ちょっと俊、制服のズボンぐらい脱ぎなさい。しわになっちゃうでしょ」
母親に起こされると、どうやら自室のベッドで眠っていたらしい。頭が異様にズキズキと痛い。やっぱりあの瓶の中身は酒だったのだろうか。
「勝手に入るなって言ってるだろ」
「あんたが呼んでも来ないからでしょ。晩ご飯できたから食べちゃって、片付かないから」
「……うん」
寝汗で身体がベトベトだったが、何故だか気分は悪く無かった。何か大事な夢を見ていた気がするが、覚えていない。覚えているのは謎の液体を飲んで倒れたところまで。空になった瓶はベッドの下に転がっていた。
食事を済ませた後、入浴しすぐに眠りに着いた。今すぐに眠ればまた何か気分の良い夢が見られそうな気がした。そんな淡い期待を抱きつつ、睡眠という最も手軽で簡単な現実逃避を始めた。
願わくは、この現実が悪い夢であることを。