虎穴に入らずんで虎児を得た4
教室に戻ると、俺の隣の席、つまり今は空きとなっている水原さんの席に鈴子が不機嫌そうに座っていた。しまった、一緒に食べる約束をしていたのを忘れていた。
「俊ちゃん、君は一体どこに行っていたのだい? 私は貴重な昼休みの半分もの時間をただこうやって座ることだけに費やしてしまったのだが」
俺が席まで戻ってくると、鈴子はやや低いトーンの声を出した。
「あー、ゴメン、ちょっと野暮用でな。今度ジュースでも奢るから、大目に見てくれ」
俺みたいにケツが石灰まみれにならなかっただけマシだろ、と言おうとしたが思い止まった。この様子は割と本気で怒っている時だからだ。
「心外だな、私をジュース如きで釣れるような安い女だと思っているのかね?」
鈴子は澄んだ瞳でこちらを睨みつける。余計な眼鏡が外れた分、その視線が直に突き刺さる。
「分かった、分かったよ、じゃあ今度なんか埋め合わせするから」
「流石俊ちゃんだ、話が早くて助かる。私のことを理解してくれていて嬉しいよ」
このような場合、一食分を奢らせられるはめになるのは過去の事例から学んでいる。決して安い出費ではないが、致し方無い。
「過ぎてしまった時間はどうしようも無いからね。でも遅れた理由くらいは聞かせてもらえるのだろうね?」
多少機嫌を取り戻した鈴子は机を隣付けにすると、その上に弁当を広げながら言った。意図せず無理難題を出してくるとは、やはり鈴子はタダ者ではない。
俺にだって、少なからず男としてのプライドがある。なので女の子に助けられたなど、俺の口からは言えたものではない。
「あぁ、うん。えっとだな……」
こちらもかばんから弁当を取り出しそれを広げ、まず何から説明しようかと先ほどの出来事を順々に思い返す。
「……俊ちゃん、随分嬉しそうだね」
「へ?」
鈴子は怪訝な様子で俺の顔を指差した。確認するように自らの顔に触れてみると、頬骨が上がり口元が歪んでいるのが分かった。自然の内に笑顔を張りつけていたらしい。
「いや、別に、そんなことは」と言いつつも俺はムフフと笑いを堪え切れず、我ながら、大村みたいで気持ち悪いなぁと思った。
「何があったのかは知らないが、さしずめ、葵と仲良くなる方法でも見つけたか? 大村ともその話で盛り上がっていたようだし」
「あいつはもう関係無いよ。それに俺は水原さんと仲良くなろうなんて気はさらさらない」
むしろ俺が仲良くなりたいのは火野さんの方で――。
「あっ!」
「どうした俊ちゃん、急に大声だして」
この時初めて気が付いた。俺の目的が『仲良くなること』から『破眼を喰らうこと』へとすり替わっていたということに。なんという失態か、いや、醜態と言っても過言ではない。
「今日は随分と情緒不安定だね。もういい、あまり深く追及することはよそう」
「なんだよそっちから聞いてきたくせに」
「これ以上君を問い詰めても得られるものは無さそうだからね」
あっそ、と軽く毒付き、ミートボールを口へと放り込んだ。
放課後、俺は一人考えた。水原さんと仲良くすることは、大村への当てつけであると同時に彼女の気を惹く(?) ためのものだった。
しかしそれが今となっては、大村への当てつけと、全校男子生徒に喧嘩を売る目的へと変わってしまっていた。
つまりこれ以上は水原さんと関わりを持つ必要が無い、というよりそれ以上の危険が伴いデメリットの方が大きい。きっぱりと関係を切ってしまえば事足りるのだが、それでは彼女との唯一の接点を無くすことになる。『盾』に近づくにはまず、持ち主と接触せねばなるまい。
どうしたものかと腕を組み、唸りながら悩み考えていると、
「根本君、さっきは大丈夫だった?」
さっそくその悩みの種となっている隣の美少女が話しかけてきた。随分長い間考え込んでいたらしく、知らぬ間に教室内が閑散としてきていた。堀、松本の両名の姿も無い今なら気負うことなく話ができる。
「うん、実を言うと火野さんに助けてもらってさ、なんともお恥ずかしい話なんだけど」
お礼の意も込め、火野さんの活躍を全面的にアピールするように答えた。女の子に助けられたなんて、本来ならば墓場まで持って行きたくなるような恥ずかしい話ではあるが、彼女の株が少しでも上がるのならば俺の自尊心など殴り捨てても問題は無い。
「えぇ! ヒカちゃんが根本君を? すごーい!」
感嘆の声を上げる様子を見るに、どうやら効果があったようで嬉しい。そんなに眼を輝かせてもらえるのならば、捨てられた俺のプライドもさぞ喜んでいるだろう。
犠牲になった自尊心に想いを馳せていると、後ろから予想外の声が聞こえてきた。
「別に、私は何もしてないわよ。少なくとも根本の為にはね」
その声に体が瞬時に反応し、猫にも劣らぬスピードで素早く立ち上がり体を回転させると、頬杖を付きながら窓の外を眺める火野さんの姿を捉えた。不覚、この二人が一緒にいないことの方が珍しいということを忘れていた。
「えーでも根本君はこう言ってるよ」
「結果的にそうなったってだけよ」
「もぅ、ヒカちゃんはホント照れ屋さんなんだから」
「ちょ、葵が根本に話聞きたいって言うから私まで残ってあげてるのに」
「あぁん、ごめんねヒカちゃん。拗ねないで」
「べ、別に拗ねて無いわよ」
「可愛いなぁヒカちゃんは」
「可愛いとか言うなぁ!」
なんだ、なんなんだ、この甘酸っぱく全身を羽毛でくすぐられるような会話は。俺の人生経験上、女子同士の会話というのはあまり聞いたことは無いが、こんなにも聞いているこちらが恥ずかしくなるようなものなのだろうか。
どうであれ、男子でこの二人のガールズトークをこんなに間近で聞けたのはきっと人類初の偉業であろう。この内容を論文にして発表すれば、俺は間違いなくこの学校で確固たる地位を確立できよう。しかしこんなチンケな学校での地位など、ゴミ箱に捨てる価値すら無い塵埃のようなものでわざわざ獲得する必要などない。
「ほら、もう十分話聞いたでしょ? 早く部活行きなさいよ」
顔を赤くした火野さんが話を切り上げ、水原さんのかばんを手に取ると、半ば無理矢理に押し付けた。こんな火野さんを拝めるとは、眼福である。
「はぁい。バイバイ、ヒカちゃん。根本君も、また明日」
小さく手を振ると、水原さんは小走りで駆けていった。その姿も美しく、つい見入ってしまいそうになるが、最重要人物がまだこの場にいることを忘れるほど俺の認識能力は落ちぶれていない。
その人物を横目でチラリと確認すると、どうしたものか目が合ってしまった。腕を組んで佇む姿は凛々しく可憐で、思わず息を飲み直立不動になる。一秒の沈黙が永遠に感じる。間を繋がなくては。
「一緒には帰らない、んだね」
疑問形にしようかと迷い、語尾が変になった。手汗が酷い。口が渇く。緊張で舌が回らない。
「あぁ、部活ある日はね」
部活か。そういえば入学式の後、水原さんはそんなことを言っていたのを思い出す。
「……追いかけて覗こうなんて考えんなよ」
急に、火野さんの眼光が鋭くなる。
「し、しないよ」
鼻息が荒くなり、額から汗が噴き出る。それを拭おうにもハンカチなんて持っていない。今度からしっかり持つようにしようと心に決める。
「その言葉、信じてやるか」
そう言って彼女は微笑んだ。つられて俺も愛想笑いを浮かべる。そういえば、
「火野さんは、もうやらないの? ソフトボール、結構活躍してたって聞いたけど」
ふと彼女が中学時代、熱心に取り組んでいた部活動のことを思い出す。確かこの学校にもあったはずだ、ソフトボール部。
「あぁ、私はもう引退。かなりしつこく勧誘されたけど、全部断った」
「それは、もったいない」
「別にそんないいもんじゃないわよ。実際、入部すれば即レギュラー待遇とか言われてもねぇ、上級生に何言われるか分かったもんじゃないし。それに」と、火野さんはかばんを手に取り、
「部活やってたら、見たいテレビが見れないじゃない。今日も四時から見たいドラマの再放送が、ってもうこんな時間じゃん! あんたのせいよ!」
時計を確認すると、急いで帰りの準備を始めた。果たして、俺のせいなのだろうか? だとしたら詫びるべきだろうか? などと自問し、その解が出る前に、
「なんなら、一緒に帰る?」
「へ?」
耳を疑った。足が震えた。鳥肌がたった。
とっさの時、こんな声しか出せない自分が情けない。こんなことならもっと妄想、では無く脳内シミュレートをしておくべきだった。
「なーんてね、冗談よ。じゃあね、根本」
「……うん、じゃあ」
俺にはどうする事もできず、最もポピュラーな別れの挨拶を返すことで精一杯だった。力が抜けて立っていられなくなった。椅子に座り込むと、しばらくの間放心状態となった。
まさか、こんなにも会話を続けることができるなんて……。
俺はワナワナと震える手を握り締め、喜びを噛み締めた。飲み込み時を逃したミノの如く、噛み締め続けていたので、教室を出る頃には辺りが暗くなり始めていた。
帰り道、遠くで聞こえるパトカーだか救急車だか良く分からないサイレンの音に便乗して、鼻歌交じりで自転車を漕ぎ進む。今すぐにでも叫びたい気持ちを抑え、その気持ちを足に込めペダルへと伝える。
この時の俺は、これからの高校生活がバラ色の学園生活になることを疑っていなかった。
第二章『虎穴に入らずんで虎児を得た』終了です