虎穴に入らずんで虎児を得た2
放課後、割と何事も無く教室から出ることができた。途中、恨みと妬みの視線がキツかったのを記憶しているが、「根本の不幸が移ったせいだ」「あいつは吸収した他人の運を、自分の運へ変換する禁忌を編み出した」「もしかしたらあいつがラッキーなんじゃなくて、水原さんに不幸が移っただけかもしれん」等の幻聴は聞かなかったことにした。
そんなものを脳みそに取り留めるくらいなら、火野さんと仲良くなるための方法の一つでも考えていた方が俺の明るい未来の為には何百倍も有益だ。せっかく近くの席になれたというのに会話は愚か、顔すらまともに見れていない。これは早急に改善せねばなるまい。
とはいえ、直接文句を言いに来る輩がいなかったのは幸いだった。ただ、一人の例外を除いては。
「しゅ~ん君、随分とご機嫌だね~?」
幸福感に酔い痺れながら駐輪場から自転車を引っ張りだすと、まるで怪しい壺か絵画を売り付けにやってくるセールスマンのような笑顔を顔面に張り付けた大村が、俺の行く手を阻むように躍り出てきた。
この男、先ほどの愚行を忘れたらしい。俺は他人から受けた恩を忘れることはあっても、恨みは忘れることのない良く出来た人間なので、
「おかげ様でな」
皮肉たっぷりでこう返した。だが、これが失敗だった。間違いだった。ミスを犯した。この男の性格を完璧に把握していなかったのが悔やまれる。いっそのことこのまま自転車で轢き倒してしまうのが最善だったかもしれない。
「そうか俺のおかげなのか! まぁ感謝してくれてもかまわんよ、苦しゅうない」
「は?」
「じゃあまだあのお願い聞いてくれるよな?」
開いた口が塞がらない。もう少しはプライドを持っている男だと思っていたが、俺の見込み違いだったか。成り下がったものだ。俺は冷静に昼休みの出来事を思い返した。
はらわたが沸々と煮だってくるが、その一方である忠告を思い出した。「もうあんな男の口車に乗せられては駄目だよ」と鈴子は言った。全くその通りだ。一字一句異論は無い。
「無しだな」と、俺は冷たく言い放ち、自転車に跨り荷物をかごへ放り込んだ。
「何、俺を裏切るつもりか? 抜け駆けは許されんぞ」
裏切るも何も、俺はお前の味方になったつもりは無い。それに今まで俺を利用して抜け駆けしようと企んでいたのはどこのどいつか。どこまでもジコチューな野郎だ。こんな男に女神様を任せられるはずがない。
「別に、やる気が無くなっただけだよ」
これ以上話しても時間の無駄だと判断した。こんな唾棄すべき会話を続けるくらいなら、火野さんの好きなテレビ番組の一つでも見て共通の話題を作る方が何千倍も有益だ。よって俺は有無を言わさずペダルに足を掛け、自転車を発進させた。
「そうきたか、俊。だがな、あの『盾』がいる限り、俺達にはどうしようも無いことを忘れるなよ!」
そんな大村の負け惜しみを背中で聞きながら、ペダルを踏む足に力を込める。
わざわざ言われなくともそんなことは十二分に承知しているし、むしろ俺の目的は水原さんを守るその『盾』本人であると言っていい。
ただ、さっきの彼女は少し様子がおかしかった。水原さんを守るという『盾』の役割を果てしていなかったではなかろうか。
入学初日には水原さんと挨拶すら交わしていない男子にあれだけの『破眼』を行使しておいて、会話は愚か、あんな申し訳なさそうな顔までさせてしまった俺に対しては、蛇が蛙を睨む程度で、『破眼』の行使をしてこない。これはどういうことか。差別じゃないのか。
帰宅してからの俺は考えに考え抜いた。部屋でパソコンをいぢくりながら、晩飯をもしゃもしゃと食べながら、湯船で茹でダコになりながら、布団の中で如何わしい妄想を膨らましながらうんうんと唸り、頭の片隅でくすぶっている脳細胞をフル回転させて思考した結果、俺はある一つの結論を捻りだし、一つの作戦を立てることにした。
のちに気が付いた事がある。それはこの時、俺の目的は火野さんと仲良くなることから『破眼』を受けたいというものへ変化していたということだ。この時ばかりはドM野郎と罵られても甘んじて受けねばなるまい。
翌日、早速俺は作戦を実行に移した。
「お、おはよう」と、最も簡単な朝の挨拶を噛みそうになりながら発する。
「あ、おはよ、根本君」
その相手が水原さんともなれば当然のことだ。まだ火野さんは来ていない。幸いなことだが、これから俺は彼女の前でこの恐れ多い行為を繰り返そうとしている。
俺の考えた作戦とは単純なもので、まだ水原さんとの接触が少ないと結論付け、もっとコミュニケーションを取っていけばいずれは何かしらのアプローチがあるだろう、というものだった。
この作戦は火野さんの気を惹く(?) だけではなく、大村を嫉妬で狂わせ、俺の本心を隠すためのカモフラージュにもなるよくできたものだった。はずなのだが、この考えがいかに浅はかなものだったかよく分かる結果となった。
朝の挨拶から開始し、授業中も自分なりに積極的に話しかけた。が、以前として彼女からの警告はない。それどころか、
「根本、お前あんま調子乗んなよ?」
クラスの不良男子二人組、出席番号三十三、三十四の堀、松本に連れられ、昼休みという胃袋に食物を詰め込むための貴重な時間を、体育倉庫という埃と石灰の粉末が舞い散る素敵なプレイスで過ごすハメになってしまった。
もしもこの状況で一緒にいるのが女子生徒だったのならば、一瞬にして誰もが羨む嬉ハプニングに早変わりなのだが、どうやらそんな妄想をする余地すら俺には残されていないようだ。
「お前なんかが葵ちゃんに話し掛けて、不幸が移ったりでもしたらどうすんだよ!」
力一杯胸を小突かれ尻餅をついた体勢になっている俺に、ヤンキー座り、もといウンコ座りをし、顔を近づけ凄む松本。
そんな松本に内心ビクつきながらも俺は、こいつの「葵ちゃん」発言が引っかかった。
実際、影でそう呼ぶ人は多いとは聞くが、本物を見るのは初めてだ。大村でさえそう呼ぶことは少ない。何故なら、そんな馴れ馴れしい呼び方をしているのがもし『盾』にばれたら、もれなく『破眼』、もしくはそれ以上の惨劇を味わうことになるからだ。
「おい、黙ってないでどうにか言ったらどうだ?」
松本が俺の胸倉を掴みながら凄む。
「俺らも別に暴力で解決したくてここに呼んだわけじゃないよ。もう葵ちゃんと話をしないって誓ってくれればそれでいい」
その後ろに位置する堀が、狡猾そうな表情をしてなんとも理不尽な提案をしてきた。
きっとこの二人に俺の本心を、本当の目的は水原さんではないということを伝えても信じないだろう。逆の立場だったら俺も信じない。だからといって、こいつらの言うことに黙って従うのも癪に障る。これはまさに八方塞と言うやつなのではないのか、などと呑気に考えていると体育倉庫の扉が開き、眩しい太陽光が差し込んできた。
こんな時間にこんな所に来るのは体育教師だろうか。とりあえず助かった。俺は太陽光に襲われた目を凝らし、扉の前に立つ人物のシルエットを見た。体育教師にしては随分と小柄だ。それに、スカートらしきものを着用しているようにも見える。この学校には女装を趣味としている変態体育教師などいない。と信じたい。となると消去法で女子生徒か。
「何やってんの? あんた達」
倉庫内で目くらましを食らった状態の男子生徒三人に対し、女子生徒らしき人物が呆れたような声を上げた。俺の耳がおかしくなっていなければ、その声は天使の美声に聞こえ、残りの二人にとっては悪魔の一声のように聞こえたに違いない。
「ひ、火野……」
視界を復活させた松本が、声と姿を一致させ、その人物の名前を口にした。思いもよらない人物の登場で、形勢は一気に逆転した。そしてこいつらにはもう一つ不利になる要素がある。
「え、何? もしかしてケンカ? よくないんじゃないかな、そういうの……」
彼女の隣からひょこっと顔を出す水原さんが、堀松本の両名に対し非難の声を上げた。盾あるところに女神あり、この二人が一緒にいないことのほうが珍しいのだ。
「葵、先に行ってて」
「えぇ、でも……」
水原さんの心配そうな視線が俺へと向けられる。一方的にやられていると思われているのだろうか、ただ単に、俺が平和主義者なだけなのだが。
「大丈夫よ、そんな重大な問題でもなさそうだから」
火野さんの状況判断は早く、この有り様を見ただけで現状を把握したようだ。「重大な問題」というのがどの程度なのかは気になるところだが、くだらない問題であることは間違いない。
「そう? ……分かった。じゃあヒカちゃんの分のお弁当も持ってくね」
渋々納得した水原さんは不安そうな表情を残したまま、俺達の視界から消えていった。どうやら二人はいつもお昼ご飯を食べている秘境まで向かう途中のようだ。俺としてはこの阿呆二人が見境なく暴れる可能性を下げられるので、水原さんもいてくれた方が有難いのだが、火野さんにしてみれば、か弱い親友をこんなことに巻き込むわけにはいかないのだろう。
どちらにしても、ようやくこの埃臭い倉庫から脱出できる。ホッと胸を撫で下ろしていると、さっきまで眩しかった太陽光が徐々に細くなっていく。扉が閉められていくのが分かった。
一瞬、見捨てられたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。そして、ある疑問が頭に浮かぶ。
「お、お前なんで入ってくんだよ!」
堀は俺と全く同じ疑問を思い浮かべていたようだ。きっと松本も同じだろう。火野さんは背中を向け、ギシギシと体育倉庫の扉を閉めた。再び体育倉庫内は薄暗い闇に包まれる。
「決まってるじゃない。聞きたいことがあるからよ」
背中を向けた火野さんが発したその声には、さっきまでの呆れ声とは違い、冷たく棘があるのが聞き取れた。
「うっ……」
彼女の言葉に、暗闇でありながらも二人の顔に冷や汗が流れるのが分かった。
「さっき、葵の名前が聞こえてきたんだけど、つまりこれって葵絡みのこと?」
全く持って恐ろしい。いくら近くを通り過ぎようとしていたとはいえ、たった二回の「葵ちゃん」発言を聞き逃さなかったのか。
「そ、そうなんだよ。いや、それがさ、根本が葵ちゃ……じゃなくて水原さんと仲良くしようとしてたからさ、それを防ごうと……」
狐のように悪知恵の働く堀が、『盾』を味方につけようと換算した。この作戦が上手くいってしまったら、それは非常に不味い。
「え! いや、俺は……」
言葉が続かない。理由は違えど、俺が水原さんに話しかけていたのは事実だ。真後ろである彼女もそれは当然分かっているはずだ。これは非常に不味い。
「防ぐって、何?」と、振り返り、堀を見据える火野さん。
気持ちが焦る俺とは裏腹に、火野さんの声は低くなる。心なしか、表情も険しくなっているようにも見てとれるが、室内が暗いのでよくわからない。
「いや、だから、疫病神の不幸が水原さんに移らないように、俺達が未然に防ごうと――」
俺は、心の中でほくそ笑んだ。この決死の言い訳も、彼女には逆効果だ。
「……疫病神? だから不幸が移る?」
眉間にしわを寄せ、拳を強く握る彼女を見て、堀は自分が地雷を踏んでしまったことに気が付いたらしい。
「そんな非現実的なこと、あるわけ無いじゃない!」
彼女がキレるところを久しぶりに見た。これは『盾』ではなく『剣』といったところか。いや、ギリシャ神話的にゼウスの『稲妻』とでも言い表しておこう。
「私ね、そういう迷信じみたことって大っ嫌いなの! 神様だとか幽霊だとかそんなの、ありえるわけないじゃない!」
彼女は更に一層睨みを効かし、言葉を続ける。
「それにね、何であんたらみたいなバカ共に葵の心配をされなきゃいけないのよ? そんなの、想像しただけで虫唾が走るわ!」
改めて彼女の性格のキツさを実感した瞬間だった。しかしこの台詞に俺は、どこか懐かしい既視感を覚えた。火野さんの口撃は、まだまだ収まるところを知らない。
「しかも葵と仲良くしたからって、それ完全にただの僻みじゃない。男の嫉妬ほど醜いものはないわね! ならあんたらも少しは葵と仲良くできるように努力くらいしたらどうなの!」
この台詞を聞きながら俺は、それは貴女がいる限り不可能なのでは? という疑問を持つが、
「まあ私の目が黒いうちはあんたらみたいなウジ虫は一匹たりとも寄せ付けないでしょうけどね!」
ご丁寧にも彼女の方から解答を寄こしてくれた。そのうえ、男なんてハエの幼虫呼ばわりだ。
「いい加減にしろよ……葵ちゃんの親友だからってな、俺らが手ぇ出さないって保障はどこにもねぇんだぞ――」
堪忍袋の緒が切れたのか、松本が大声を上げ威嚇する。普通の女子ならばこれで怯んで、泣きだしてもおかしくはないが、彼女が普通の女子ではないことは周知の事実である。
松本が言葉を発するのと同時にダッシュをかけ、言い終わると同時に「うぉらぁ!」の掛け声と共に彼の顎に飛び膝蹴りを食らわせてみせた。
今の俺のこの体勢、もしこんな薄暗い体育倉庫の中ではなければ、あるいは俺の目がもう少し早く暗順応してくれてさえいれば、ばっちりとスカートの中身が見えていただろう。それが唯一悔やまれるが、今は彼女の妙技が見られただけでも満足しておこう。
きっとこの二人は火野さんが小中九年間、空手を嗜んでいたことを知らなかったのだろう。
顎に鋭い一撃を浴びた松本は、「フゴッ」と小さい呻きを漏らし、泡を吹いてその場に崩れるように倒れ、顔面蒼白となった堀に担がれるような形で退場となった。
開け放たれた扉から入り込む午後の春日和の日差しよって、ようやく彼女の全貌を窺い見る事ができた。外からの太陽光によって後光が差しているその神々しい姿に、つい押し黙ってしまう。
「いつまでそんなトコに座ってるつもり? あんたがそのままそこにいたいんなら別にいいけど」
堀と松本を姿が見えなくなるまで睨みつけていた彼女は、二人の姿が無くなると、まだ棘が残るその視線を俺に向けた。
「え、あぁ、そう、ですね」
緊張と恥ずかしさでつい敬語になってしまう。緊張はいつものことだが、好きな女の子に助けられるなんて、惨め過ぎて情けないという思いが俺の体を重くしていた。そんな精神状態で俺は、何とか腰を上げ、彼女の後に続き外に出ると、扉を閉めて向き直った。
何を話せばいいのだろうか、お礼を言えば良いのだろうか?
「……あのさ根本、昔も似たようなこと無かったっけ?」
ふぅっ、と一呼吸入れた後、彼女のほうから話を振ってきてくれた。さりげなく名前を呼ばれたことに無類の喜びを感じるが、今はそれを顔に出すわけにはいかない。
「え、っと、どうだったかな?」
とぼけたつもりだが、俺があの出来事を忘れるわけがない。
俺が彼女を、火野楓を好きなったあの出来事を――。