1話完結
「今日もいらっしゃらないのですね」
ヴィヴィアンがそう口にすると、向かいに立っていた侍女は困ったように目を伏せた。
責めたつもりはなかった。
けれど、責めているように聞こえてしまったのかもしれない。
午後三時。
窓から差し込む夏の日差しは少しずつ傾き始めている。
テーブルの上には二人分の紅茶。
ウォーレンが好む、香りの強い茶葉を選んでいた。
菓子も彼の好みに合わせてある。
本来ならば、今日ここで結婚式の招待客について話し合う予定だった。
式まで、あと三か月。
招待状を送るなら、これ以上は遅らせたくない。
侯爵家側から招く者についてはウォーレンに確認しなければならないため、ヴィヴィアンだけでは決められなかった。
「使いの者から、こちらを」
侍女が銀盆を差し出す。
載っていたのは一通の手紙だった。
封蝋を見ただけで誰からのものか分かる。
侯爵家の紋章。
ウォーレンだ。
ヴィヴィアンは手紙を受け取り、封を切った。
便箋は一枚だけ。
そこに並んでいる文字も、わずか数行だった。
『ヴィヴィアンへ。
急な仕事が入った。
今日の話し合いには行けそうにない。
招待客については、君の判断に任せる。
君なら問題なくできるだろう。
ウォーレン』
「……そう」
ヴィヴィアンは手紙を畳んだ。
侍女が何か言いたそうにしている。
けれど何も言わなかった。
「紅茶を片づけてもらえる?」
「はい」
「お菓子は皆で食べてちょうだい。料理長が朝から準備してくれたものだから」
「かしこまりました」
侍女がティーワゴンを押して部屋から出ていく。
扉が閉まった。
ヴィヴィアンは一人になった。
静かだった。
怒っているわけではない。
悲しいわけでもない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
ウォーレンが約束を変更することは珍しくなかった。
彼は侯爵家の嫡男だ。
父親である侯爵を補佐し、領地や王都を行き来している。
忙しいことは知っている。
だから仕方がない。
今日もきっと、本当に仕事なのだろう。
それなら責めるべきではない。
そう思って、ヴィヴィアンは机に向かった。
返事を書こう。
いつものように。
『ウォーレン様。
お忙しいところ、ご連絡ありがとうございます。
どうぞお気になさらないでください。
招待客についてはこちらで――』
そこまで書いて、ペンが止まった。
どうぞお気になさらないでください。
その文章を、最近何度書いただろう。
ヴィヴィアンは便箋を見つめた。
インクが乾いていない。
窓から風が入り、カーテンがわずかに揺れる。
ヴィヴィアンはペンを置いた。
「……前にも書いた気がするわ」
もちろん、前にも書いている。
何度も。
それだけではない。
ウォーレンからも似たような手紙を何度も受け取っていた。
君なら分かってくれる。
君なら大丈夫だ。
君に任せる。
いつ頃からだっただろう。
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
ヴィヴィアンは机の右下にある大きな引き出しを開けた。
そこには木製の箱が入っている。
濃い茶色の木箱。
装飾らしい装飾はなく、蓋の隅に小さな傷がある。
七年前、ウォーレンから最初の手紙をもらったとき、母にねだって譲ってもらった箱だった。
ウォーレンから届いた手紙は、すべてここに保管してある。
今日のものを含めれば、ちょうど百通。
ヴィヴィアンは新しい手紙を箱へ入れようとした。
そのとき、一番下にある古い封筒が目に入った。
黄ばんではいない。
けれど七年という時間のせいか、今日届いたものとは紙の色がわずかに違って見える。
ヴィヴィアンは手を伸ばした。
一番下から、最初の手紙を取り出す。
十五歳のときにもらったものだ。
婚約が正式に決まって、十日ほど経った頃だったと思う。
封筒には、大きな文字で書かれている。
『親愛なるヴィヴィアンへ』
それを見ただけで、ヴィヴィアンは少し笑った。
懐かしい。
ウォーレンは昔から字が上手だった。
けれど十五歳の頃は、今よりずっと筆圧が強い。
緊張しながら書いたのだろう。
封筒から便箋を取り出す。
『親愛なるヴィヴィアンへ。
昨日はあまり話せなかったね。
父上たちがずっと難しい話をしていたから仕方ないけれど、僕は少し残念だった。
君が帰ってから、もっと話しておけばよかったと思った。
次に会えるのは五日後だと聞いている。
ずいぶん先に感じる。
そういえば、君が好きだと言っていた蜂蜜菓子を街で見つけた。
次に会うときに持っていく。
気に入ってくれたら嬉しい。
ウォーレン』
「……こんなことを書いていたのね」
覚えている。
蜂蜜菓子も覚えている。
五日後、ウォーレンは本当に持ってきてくれた。
王都で人気の店だった。
ヴィヴィアンが以前、食べてみたいと話したことを覚えていてくれたのだ。
十五歳のヴィヴィアンは嬉しくて、その日の夜、なかなか眠れなかった。
婚約者というものが、まだよく分かっていなかった。
けれどウォーレンとなら、きっと幸せになれる。
そう思った。
ヴィヴィアンは二通目を取り出した。
三通目。
四通目。
最初の一年の手紙は、どれもよく似ていた。
『今日は楽しかった』
『次はいつ会える?』
『君が教えてくれた本を読んだ』
『妹が君に会いたがっている』
『今度、一緒に庭を歩こう』
どれも大した内容ではない。
けれど、ウォーレン自身の言葉だった。
ヴィヴィアンの好きなもの。
ヴィヴィアンが話したこと。
ヴィヴィアンと次に何をしたいか。
一枚読むたび、昔の記憶が戻ってくる。
二人で庭を歩いた日。
ウォーレンが木の根につまずき、転びかけたこと。
それを笑ったら、彼が真っ赤になって怒ったこと。
十六歳の誕生日に贈られた髪飾り。
初めて二人だけで観劇に行った夜。
「……楽しかったわね」
誰に聞かせるでもなく、ヴィヴィアンは呟いた。
胸の奥に、温かなものが残っている。
やっぱり、ウォーレンが嫌いになったわけではない。
最近は忙しいだけなのだ。
昔の手紙を読めば、それが分かる。
そう思った。
だから、もう少しだけ読みたくなった。
◇
二十三通目。
婚約して二年が過ぎた頃の手紙だった。
『ヴィヴィアンへ。
今月は領地へ行かなければならなくなった。
約束していた観劇には行けそうにない。
楽しみにしていたのに申し訳ない。
戻ったら必ず埋め合わせをする。
君が見たがっていた演目は来月まで続くそうだから、戻り次第予定を合わせよう。
ウォーレン』
ヴィヴィアンは手紙を読み終え、目を閉じた。
このときのことも覚えている。
残念だった。
新しいドレスまで用意していた。
けれどウォーレンは約束どおり、戻ってきた翌週に観劇へ連れていってくれた。
帰りにはレストランにも寄った。
「これは……違うわね」
ヴィヴィアンは小さく呟く。
今日の手紙とは違う。
二十三通目のウォーレンは、約束を守れなかったことを謝っている。
理由を説明している。
そして、埋め合わせをすると自分から言っている。
いつから変わったのだろう。
ヴィヴィアンは次々に手紙を取り出した。
三十一通目。
三十六通目。
三十九通目。
そして、四十一通目。
『ヴィヴィアンへ。
申し訳ない。
明日の茶会には参加できなくなった。
父上から急に仕事を任されてしまった。
君なら待っていてくれるよね。
落ち着いたらこちらから連絡する。
ウォーレン』
ヴィヴィアンの指が止まった。
君なら待っていてくれるよね。
見覚えのある言葉だった。
当時の自分が何を思ったのかも覚えている。
嬉しかった。
ウォーレンは自分を信頼してくれている。
我儘を言わず、彼の事情を理解できる女性だと思ってくれている。
そう考えた。
だから返事にも、
『もちろんです。お気になさらないでください』
と書いた。
けれど。
「……埋め合わせが、なくなっている」
二十三通目にはあった。
今度はいつ会えるのか。
何をしようか。
そういう言葉もない。
落ち着いたら連絡する。
それだけ。
実際、その後どうなったのだろう。
思い出そうとする。
確か、三週間ほど会わなかった。
ウォーレンから次に連絡が来たときには、別の用件だった。
会えなかった茶会については、何も言われなかった。
ヴィヴィアンも尋ねなかった。
忙しいのだから仕方がない。
そう思っていた。
四十二通目。
四十三通目。
四十四通目。
読み進める。
『君なら理解してくれると思う』
またあった。
四十七通目。
『ヴィヴィアンなら大丈夫だろう』
五十通目。
『君なら待っていてくれるよね』
ヴィヴィアンは一度、手紙を置いた。
窓の外を見る。
日が少し傾いていた。
部屋の中に伸びた影が、先ほどより長くなっている。
「信頼されているのだと思っていたわ」
声に出してみた。
返事はない。
当たり前だ。
部屋にはヴィヴィアンしかいない。
彼女は五十八通目を手に取った。
それを見つけたのは偶然だった。
封筒の隅に、小さな花の絵が描かれていたから。
ヴィヴィアンの十九歳の誕生日。
ウォーレンから届いた手紙だ。
『ヴィヴィアンへ。
誕生日おめでとう。
本当なら直接言いたかった。
だが領地で問題が起きてしまい、戻れそうにない。
君なら分かってくれると思う。
贈り物は別便で送った。
良い一日を。
ウォーレン』
短い。
ヴィヴィアンは、その日のことをよく覚えていた。
十九歳の誕生日。
両親が小さな晩餐会を開いてくれた。
ウォーレンの席も用意されていた。
けれど彼は来なかった。
領地で水路を巡る揉め事があったと聞いていた。
だから仕方がないと思った。
翌月、ウォーレンの妹と話す機会があった。
そのとき、何気なく知ったのだ。
水路の問題は、ヴィヴィアンの誕生日の前日に解決していた。
ウォーレンは帰ろうと思えば帰れた。
けれど長旅で疲れていたため、領地でもう二日休んでから戻った。
当時のヴィヴィアンは、それを聞いても怒らなかった。
仕事で疲れていたのだから仕方がない。
誕生日は来年もある。
ウォーレンが健康でいてくれる方が大切だ。
そう考えた。
けれど今。
七年分の手紙を並べてから読むと。
「……わたくしが、怒らないから?」
そんな考えが浮かんだ。
ウォーレンは、帰れなかったのではない。
帰らなかった。
ヴィヴィアンなら許してくれる。
そう思ったから。
第五十八通を机に置く。
ヴィヴィアンは次の手紙へ手を伸ばした。
読む速度が少し速くなった。
六十二。
六十五。
六十八。
七十二通目。
『ヴィヴィアンへ。
頼みがある。
母上の誕生日の贈り物を選んでおいてくれないか。
最近忙しくて店を回る時間が取れない。
君は母上の好みをよく知っているし、僕が選ぶより間違いないだろう。
よろしく頼む。
ウォーレン』
「これも覚えているわ」
ヴィヴィアンは侯爵夫人のために、外国から取り寄せたショールを選んだ。
美しい刺繍が施されたものだった。
侯爵夫人は大変喜んでくれた。
ウォーレンも、
「さすがヴィヴィアンだ」
と褒めてくれた。
嬉しかった。
役に立てたと思った。
七十四通目。
『来月の夜会だが、招待客について母上と相談しておいてほしい』
七十七通目。
『叔父上への返事を書いておいてくれないか。僕より君の方が文章が上手い』
七十九通目。
『領地から来る者たちへの贈答品を選んでおいてくれ』
八十一通目。
『先方の夫人への謝罪は君からしておいてほしい。その方が角が立たない』
「…………」
ヴィヴィアンは手紙を置いた。
七十二通目から八十一通目まで。
十通。
そのうち七通が頼み事だった。
しかも、ほとんどは侯爵家に関すること。
まだ結婚していない。
ヴィヴィアンは伯爵家の娘であって、侯爵家の人間ではない。
それでも引き受けた。
なぜなら。
「必要とされていると思っていたから」
言葉にした途端、それまで曖昧だったものに輪郭ができた。
ウォーレンに頼られるのが嬉しかった。
彼の役に立ちたかった。
未来の侯爵夫人になるのだから、今から学んでおくべきだとも思った。
ウォーレンが忙しいなら、自分が支えればいい。
夫婦とはそういうものだと思っていた。
けれど。
ヴィヴィアンは一通目をもう一度手に取った。
『君が帰ってから、もっと話しておけばよかったと思った』
七十二通目。
『母上の誕生日の贈り物を選んでおいてくれないか』
一通目。
『次に会えるのは五日後だと聞いている。ずいぶん先に感じる』
七十九通目。
『領地から来る者たちへの贈答品を選んでおいてくれ』
「いつから……」
会いたい相手ではなくなったのだろう。
いつから、頼み事をする相手になったのだろう。
ヴィヴィアンは次の封筒を取った。
八十六通目。
それを読んだ瞬間。
今度こそ、完全に手が止まった。
『ヴィヴィアンへ。
先日の件だが、母上が少し困っていた。
僕の婚約者なら、あれくらい事前に察してほしかった。
君ならできると思っているから任せているんだ。
次からは気をつけてくれ。
ウォーレン』
何の件だったか。
思い出すまで少しかかった。
侯爵家で開かれた晩餐会。
招待客の一人が、最近身内を亡くしたばかりだった。
ヴィヴィアンはそれを知らず、祝い事を連想させる花を客室に飾ってしまった。
幸い、相手は気にしなかった。
それでも侯爵夫人から注意された。
ヴィヴィアンは謝罪した。
自分の確認不足だと思った。
けれど。
「どうして、わたくしが知っているはずだったの?」
声が漏れた。
その客は侯爵家の知人だった。
ヴィヴィアンは一度しか会ったことがない。
身内の不幸についても、侯爵家には知らせが来ていたが、伯爵家には届いていなかった。
知りようがなかった。
なのにウォーレンは、
『僕の婚約者なら、あれくらい事前に察してほしかった』
と書いた。
そしてヴィヴィアンは謝った。
『申し訳ございません。今後はもっと注意いたします』
そう返した。
どうして。
今になって初めて、その疑問が浮かぶ。
どうして、謝ったのだろう。
ヴィヴィアンは八十六通目を机に置いた。
そして九十通目。
九十四通目。
九十七通目。
九十九通目。
最後に、今日届いた百通目。
『ヴィヴィアンへ。
急な仕事が入った。
今日の話し合いには行けそうにない。
招待客については、君の判断に任せる。
君なら問題なくできるだろう。
ウォーレン』
ヴィヴィアンは一通目と百通目を並べた。
七年前。
『親愛なるヴィヴィアンへ』
今日。
『ヴィヴィアンへ』
七年前。
『もっと話しておけばよかった』
今日。
『君の判断に任せる』
七年前。
『次に会えるのは五日後だ。ずいぶん先に感じる』
今日。
次にいつ会うのかすら書かれていない。
「…………」
ヴィヴィアンは長い間、二枚の便箋を見ていた。
泣きたくなると思っていた。
ところが涙は出なかった。
代わりに、不思議なほど頭が静かだった。
百通。
一通ずつ読んでいたときには気づかなかった。
けれど並べてみれば、全部書いてある。
ウォーレンがいつから変わったのか。
いや。
違う。
ある日突然、変わったわけではない。
少しずつだった。
謝罪がなくなった。
埋め合わせがなくなった。
会いたいと言わなくなった。
頼み事が増えた。
感謝が減った。
最後には、できて当然になった。
ヴィヴィアンは椅子から立ち上がった。
そしてベルを鳴らした。
侍女が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「お願いがあるの」
ヴィヴィアンは百通目の手紙を持ち上げた。
「侯爵家へ使いを出してちょうだい」
「はい。お返事ですか?」
「いいえ」
ヴィヴィアンは少し考えた。
それから言った。
「ウォーレン様に、明日の午後こちらへ来ていただきたいと伝えて」
「かしこまりました」
侍女が一礼する。
扉へ向かいかけたところで、ヴィヴィアンは呼び止めた。
「ああ、それから」
「はい」
「明日は紅茶を一人分だけ用意して」
侍女が振り返った。
一瞬だけ驚いた顔をする。
「……かしこまりました」
扉が閉まる。
ヴィヴィアンは机へ戻った。
そして七年間の手紙を、一通目から順番に並べ始めた。
◇
翌日。
ウォーレンは約束の時間から二十分遅れてやって来た。
「すまない、待たせた」
応接室へ入ってきた彼は、いつもと変わらなかった。
濃い茶色の髪。
整った顔立ち。
昔より背が伸び、肩幅も広くなった。
七年前の少年らしさはもうない。
「急に呼び出してどうしたんだ?」
「お座りくださいませ」
ヴィヴィアンが促す。
ウォーレンは向かいの椅子に腰を下ろした。
そこでようやく、机の上に並んでいるものに気づく。
「手紙?」
「はい」
「僕が書いたものか?」
「すべて」
ウォーレンが目を見開いた。
「全部残していたのか」
「ええ」
「そうか」
「昨日のもので、ちょうど百通でした」
ウォーレンは感心したように笑った。
「君は昔から几帳面だな」
その言葉を聞いても、ヴィヴィアンは笑えなかった。
「こちらを読んでいただけますか?」
一通目を差し出す。
「今?」
「はい」
ウォーレンは怪訝そうにしながら受け取った。
読み始める。
やがて、口元が緩んだ。
「懐かしいな。こんなことを書いたのか」
「覚えていらっしゃいます?」
「いや。さすがに七年前だからな」
「蜂蜜菓子は?」
「ああ……なんとなく」
ウォーレンは笑った。
「若かったな」
ヴィヴィアンは次の手紙を差し出した。
二十三通目。
彼が読む。
「これがどうかしたのか?」
「次はこちらを」
四十一通目。
五十八通目。
七十二通目。
八十六通目。
ウォーレンの表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「ヴィヴィアン」
「最後です」
百通目を差し出す。
「これは昨日送ったものだろう」
「はい」
「何が言いたい?」
ヴィヴィアンは一通目と百通目を彼の前へ並べた。
「違いがお分かりになりますか?」
ウォーレンは眉を寄せる。
「七年も経っているんだ。当然、文章くらい変わるだろう」
「そうですね」
「僕も忙しくなった。十五歳の頃みたいな手紙を毎回書けと言われても困る」
「それをお願いしているのではありません」
「では何だ?」
ヴィヴィアンは彼を見た。
七年間、好きだった人。
いや。
今も好きなのかもしれない。
だからこそ、確かめなければならない。
「ウォーレン様」
「何だ」
「この七年間で、わたくしに『ありがとう』と書いてくださった手紙が何通あると思います?」
ウォーレンが黙った。
「……そんなことを数えたのか?」
「昨日、数えました」
「何通だった?」
「最初の三年間で十七回」
ヴィヴィアンは答えた。
「次の二年間で四回。その次の一年で一回」
ウォーレンの顔から表情が消えていく。
「そして、この一年は一度もありませんでした」
「…………」
「『会いたい』という言葉は、最後にいつ書いてくださったと思います?」
「ヴィヴィアン」
「四年前です」
「何が言いたいんだ」
今度は少し強い声だった。
ヴィヴィアンは息を吸った。
「婚約を解消したいのです」
ウォーレンは動かなかった。
聞こえなかったのかと思うほど。
やがて。
「……何を言っている?」
「婚約を解消してくださいませ」
「なぜ?」
本当に分からないらしい。
ヴィヴィアンは机の上の手紙を見た。
「全部、ここに書いてあります」
「何がだ」
「わたくしたちが結婚しない方がいい理由です」
「意味が分からない」
ウォーレンが立ち上がった。
「僕が浮気でもしたか?」
「いいえ」
「君を侮辱したか?」
ヴィヴィアンは少し考えた。
「少なくとも、あなたにはそのつもりはなかったのでしょう」
「なら、どうして婚約解消なんて話になる!」
「疲れたのです」
初めて。
その言葉を口にした。
ウォーレンが黙る。
ヴィヴィアン自身も、言ってから驚いた。
疲れていた。
ずっと。
「あなたに会いたいと言ってはいけないと思っていました。お忙しいから」
ヴィヴィアンは一通の手紙を取った。
「約束を破られても怒ってはいけないと思っていました。事情がおありだから」
別の一通。
「侯爵家の仕事を頼まれたら引き受けるべきだと思っていました。将来、あなたの妻になるのだから」
もう一通。
「失敗すれば謝りました。もっと努力しなければと思いました」
「僕はそんなことを強制していない」
「はい」
ヴィヴィアンは頷いた。
「だから、気づくのが遅れました」
「……何に?」
「あなたが強制しなくても、わたくしが断らないことを知っていたのでしょう?」
ウォーレンの口が閉じる。
「わたくしなら待っている。わたくしなら怒らない。わたくしなら引き受ける。わたくしなら許す」
ヴィヴィアンは百通目を指で押さえた。
「君なら問題なくできるだろう」
昨日届いた言葉。
「わたくしはいつから、あなたにとって何でも問題なくできる人になったのでしょう」
「それは……君を信頼しているからだ」
「では、わたくしができないと言ったら?」
ウォーレンは答えない。
「侯爵夫人への贈り物を選べない。夜会の調整もできない。あなたを待つこともできない。約束を破られれば怒る。誕生日には会いたい。寂しいときには寂しいと言う」
ヴィヴィアンは彼を見た。
「そんなわたくしでも、あなたは妻にしたいですか?」
沈黙。
それが答えだった。
ウォーレンはすぐには答えられなかった。
ほんの数秒だったかもしれない。
けれどヴィヴィアンには十分だった。
「……そうですか」
「待ってくれ」
ウォーレンが慌てる。
「違う。急に聞かれたから驚いただけだ」
「はい」
「もちろん君と結婚したい」
「今の質問に答えてくださいませ」
「だから――」
「何もできなくても?」
ウォーレンが言葉を失う。
ヴィヴィアンは笑った。
不思議だった。
昨日までなら、その沈黙だけで傷ついていただろう。
けれど今は違う。
答えを知っている。
「最初の手紙のあなたは、わたくしに何かしてほしいとは一言も書いていませんでした」
一通目を手に取る。
「ただ、会いたいと書いてくださった」
ウォーレンがそれを見る。
「わたくしは、この手紙が大好きでした」
「なら――」
「でも」
ヴィヴィアンは静かに続けた。
「この手紙を書いた十五歳のあなたと結婚することはできません」
ウォーレンの顔が歪んだ。
「僕は変わったというのか」
「わたくしも変わりました」
「だったら直す」
「何をです?」
「全部だ」
ウォーレンは机へ手をついた。
「君が嫌だったことを言ってくれれば直す。手紙も書く。約束も守る。侯爵家のことだって、もう頼まない」
ヴィヴィアンは黙って聞いていた。
「誕生日も必ず祝う。会う時間も作る。昔みたいに――」
「戻らなくてよろしいのです」
ウォーレンが止まった。
「……何?」
「昔のあなたに戻らなくてよろしいのです」
「どうして」
「わたくしも、昔のわたくしには戻れませんから」
十五歳のヴィヴィアン。
好きな人から手紙が届くだけで嬉しかった。
五日会えないだけで寂しかった。
蜂蜜菓子をもらって、夜眠れなくなるほど喜んだ。
十九歳のヴィヴィアン。
誕生日に婚約者が来なくても笑った。
二十歳のヴィヴィアン。
侯爵家の仕事を任され、必要とされていると喜んだ。
二十一歳のヴィヴィアン。
失敗を責められ、もっと頑張ろうと思った。
そして二十二歳。
百通の手紙を読み返したヴィヴィアン。
「もう、頑張りたくないのです」
その言葉だけは、驚くほど簡単に出た。
ウォーレンが椅子へ座り直す。
「……僕は、君がそんなふうに思っているなんて知らなかった」
「わたくしも昨日まで知りませんでした」
「だったら」
ウォーレンは顔を上げた。
「昨日気づいたことだけで、七年を終わらせるのか?」
ヴィヴィアンは少し考えた。
そして首を横に振った。
「昨日気づいたのではありません」
「なら――」
「七年間ずっと感じていたのだと思います」
言葉にできなかっただけ。
我慢という名前すら付けなかった。
理解。
信頼。
献身。
将来の妻として当然のこと。
いくつもの綺麗な名前をつけて、見ないようにしていた。
「昨日ようやく、それに名前をつけられたのです」
ウォーレンは何も言わなかった。
窓の外で鳥が鳴いている。
テーブルには紅茶が一つだけ。
ヴィヴィアンのためのもの。
ウォーレンの分はない。
それを見て、彼も何かに気づいたようだった。
「……今日は、僕の紅茶がないんだな」
「はい」
「いつも用意してくれていた」
「ええ」
「僕の好きな茶葉だった」
「そうですね」
ウォーレンは俯いた。
「ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間。
ヴィヴィアンは少しだけ目を見開いた。
七年間。
百通。
今年初めて聞いた気がした。
遅かった。
あまりにも。
でも。
「どういたしまして」
ヴィヴィアンは微笑んだ。
それでよかった。
◇
婚約解消には、少し時間がかかった。
両家の話し合い。
書類。
親族への説明。
幸い、ウォーレンが最後には同意したため、大きな争いにはならなかった。
侯爵家から慰謝料の申し出もあったが、ヴィヴィアンは最低限だけ受け取った。
誰かを罰したかったわけではない。
ただ、終わらせたかった。
一か月後。
ヴィヴィアンは自室で、あの木箱を開けていた。
百通の手紙。
侍女には、
「処分なさいますか?」
と聞かれた。
けれど捨てなかった。
燃やすつもりもない。
一通目を手に取る。
『親愛なるヴィヴィアンへ』
今でも好きな手紙だった。
それでいいと思う。
過去まで嫌いになる必要はない。
ウォーレンを好きだった自分を、愚かだったとも思わない。
嬉しかった。
楽しかった。
幸せだった。
それは本当だ。
同じように、疲れていたことも本当。
二つは矛盾しない。
ヴィヴィアンは手紙を箱へ戻した。
蓋を閉じる。
そして新しい便箋を一枚取り出した。
ペン先をインクに浸す。
『ウォーレン様へ』
そこまで書いて、一度手を止める。
何を書こう。
七年間のこと。
言えなかった不満。
謝罪。
感謝。
恨み。
思い出。
書こうと思えば、いくらでも書ける。
けれど。
ヴィヴィアンは短い文章を選んだ。
『ウォーレン様へ。
七年間、ありがとうございました。
あなたからいただいた百通の手紙を、あの日すべて読み返しました。
最初の手紙を読んだとき、わたくしは確かに幸せでした。
だから、あの頃のことまで否定するつもりはありません。
最後の手紙まで読んで、ようやく自分の気持ちが分かりました。
百通もの言葉をくださったあなたへ、わたくしからも一通だけお返しします。
どうか、お元気で。
ヴィヴィアン』
読み返す。
昔なら、ここから何度も直しただろう。
冷たくないだろうか。
ウォーレンを傷つけないだろうか。
もっと感謝を書くべきではないか。
もっと優しい表現があるのではないか。
そんなことを考えて、便箋を何枚も無駄にしたはずだ。
ヴィヴィアンはペンを置いた。
「これでいいわ」
封筒に入れる。
封蝋を落とす。
これが百一通目。
ただし、初めてヴィヴィアンからウォーレンへ送る手紙だった。
ベルを鳴らす。
侍女が入ってくる。
「こちらを侯爵家へ届けてもらえる?」
「かしこまりました」
手紙を渡す。
侍女が退出しようとする。
その背中を見ながら、ヴィヴィアンはふと思った。
「あ、待って」
侍女が振り返る。
「はい?」
「明日の予定はどうなっていたかしら」
「明日は午前中に仕立屋が参ります。午後は特にご予定はございません」
「そう」
予定がない。
以前なら、その時間に何を入れるか考えただろう。
侯爵夫人へ挨拶に行く。
ウォーレンの代わりに誰かへ返事を書く。
結婚式の準備を進める。
将来の侯爵夫人として必要な勉強をする。
けれど、もう必要ない。
「では、午後から街へ行きたいわ」
「お買い物ですか?」
「ええ」
ヴィヴィアンは少し考える。
「蜂蜜菓子を買いに」
侍女が不思議そうな顔をした。
「蜂蜜菓子、ですか?」
「昔、好きだったの」
そう答えてから、ヴィヴィアンは首を傾げた。
違う。
「今も好きだったわ」
誰かが覚えていてくれなくても。
誰かが買ってきてくれなくても。
自分で買えばいい。
「評判のお店を調べておきます」
「お願い」
侍女が今度こそ部屋を出ていく。
扉が閉じた。
机の上には、もう何もない。
百通の手紙は木箱の中。
百一通目は、もうヴィヴィアンの手を離れた。
窓を開ける。
夏の風が部屋へ入ってきた。
ヴィヴィアンはカーテンを押さえながら、外を見る。
明日の午後は何をしよう。
蜂蜜菓子を買ったあと、服を見てもいい。
本屋にも寄りたい。
少し遠回りして、公園を歩くのも悪くない。
誰かの予定を確認する必要はなかった。
誰かからの連絡を待つ必要もない。
そう考えて、ヴィヴィアンはようやく笑った。
百通の手紙に返事を書くために、七年もかかってしまった。
けれど百一通目を書き終えた今、ヴィヴィアンにはもう、誰かの返事を待つ理由がなかった。
お読みいただきありがとうございました!
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