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在宅刑事 立花楓 

神奈川県警 警視正 戸田大知の恋

掲載日:2026/07/08

「聞いて聞いて。ちょっとビックニュースがあるんだけど……」

楓宅のリビングに入ってくるなり、大知が興奮したように話しかけてきた。

「ニュースって何ですか?」

一足先に来て紅茶を飲んでいた明日香は振り向いて大知の得意気な顔を見た。

「え~どうしよっかな~」

大知は話したくてたまらないくせにもったいぶってチラチラこちらを窺っている。

イラっとした明日香は大知を無視して楓と話の続きに戻った。


「やっぱり、ドライフルーツの王様って無花果ですよね~」

「ああ、これ本当にうまいな」

二人はどうも明日香が手土産に持ってきたドライフルーツ入りのクッキーの話をしているようだ。

「今度マドレーヌにもドライ無花果入れて作ってみようか?」

「いいですね。それと私、紅茶のマドレーヌも食べてみたいです」

「紅茶と無花果を一緒に入れるというのは?」

「それ、絶対おいしそう」

二人は何やらいい雰囲気で、大知の存在を忘れたように盛り上がっている。



「俺の話も聞いて! 今度さぁ、県警本部で女優の石橋あやなが一日本部長をやってくれることになったんだよ」 

もどかしくなった大知が地団太を踏みながら白状すると二人はやっと大知の方を向いた。

「えっ、そうなんですか? よくそんな大物が出てくれることになりましたね」

明日香がびっくりして目を丸くしている。


明日香と大知の勤務する神奈川県警本部では、毎年3月に著名人を招き、『一日本部長』のイベントを行っている。そこで4月から小学生になる付近の幼稚園児と保護者を対象に、交通安全をテーマとした劇を披露するのが毎年恒例となっている。

そして石橋あやなと言えば日本を代表する演技派女優の一人である。子役から芸能活動している三十代の女優で、超美人という訳ではないが、少女から老人まで演じ分け、その演技力により特に映画界で高く評価されている実力派女優である。


「そのイベントって毎回そんな大物が来るんですか?」

つい数ヶ月前に県警本部の生活安全部に配属されたばかりの明日香は感心しながら大知に尋ねた。

「いやいや。昨年はⅯ1グランプリで準決勝で敗退した芸人だったんだけどね」

「こう言っちゃなんですが、昨年と今年じゃ随分……」

明日香は言い淀んだ。ギャラも随分違う気がする。


「それがさぁ、明日香ちゃんの部署のチームリーダーの中井さんがいるだろ? あの人の口利きで昨年と同じ出演料で出てくれることになったんだ」

「え? リーダーの? あの人芸能界に伝手でもあるんですか?」

明日香はびっくりした。中井は『ザ・公務員』といった何の変哲もない四十六歳の中年男性の風貌だ。性格も実直・温和という感じで、とてもそんな華やかな場所に縁があるようには思えない。


「まさかリーダー、石橋あやなの親戚とか」

首をひねって考え込む明日香に、大知は得意気な顔をして口を開いた。

「実は中井さんの娘さんがこの度モデルのオーディションに合格して石橋あやなと同じ事務所に入ったらしい」

「え~! リーダーの娘さんが!」

(奥さんがよっぽど美人なのか……)

明日香がまだ見ぬ中井の妻に想像を巡らせていると、大知が明日香の手土産のクッキーを口いっぱいに頬張りながらくぐもった声で続けた。

「中井さんの娘さん、中学校三年生でこの春から高校入学らしいよ。4月になったらデビューするんだって」

「えー。楽しみ」


早速瑠奈にも教えないと。明日香はワクワクした。大知は楓が淹れてくれた紅茶のカップを待ちきれないように奪い取り、ごくりごくりと飲んで続けた。

「それでその娘さんが石橋あやなに凄く可愛がられてるらしいんだ。アットホームな事務所らしくて、娘さんが父親の職業の話をしたら、もし自分でできることがあったら是非協力したいって」

「まさかそのノリで娘さんが石橋あやなに出演交渉したとか?」

「そのまさかなんだ」


チームリーダーもビックリしただろうなと明日香は同情した。

「その娘さん、幼稚園の時に県警のイベントに来てたみたいで。その時の劇がすごく楽しかったって彼女に話したみたいなんだ」

「え~っ。中三の子が幼稚園の頃って、十年も前の話ですよね。よくそんな昔の事覚えてましたね」

明日香は感心した。

「そう。それで石橋あやなの女優魂に火がついたみたいなんだ」

大知はいたずらっぽい表情で続けた。

「子供の記憶に十年間も残る劇を私も演じたいって」

「すごい。心の底から女優なんですね」

なんかカッコいい。明日香は石橋あやなにますます好感を持った。


「うちもまだ誰にもオファーを出す前だったから喜んで出演してもらうことになったってわけ。あ、楓おかわり」

大知が黙って聞いていた楓に空のカップを突き出した。楓が立ち上がりキッチンに向かう。

「明日香は? 桃のフレーバーティーもあるよ」

楓がキッチンから声をかけてくれる。

「ありがとうございます。頂きます」

フレーバーティーなんて珍しい。きっと私のために用意してくれたんだと明日香は嬉しくてにやにやした。


「俺はルフナにしてくれる?」

大知の言葉に紅茶の缶を手にした楓が振り返った。

「珍しいな」

「このクッキーに合いそうじゃない?」

よほど気に入ったのか大知がまたクッキーをもそもそと頬張っている。

「そうそう、さっきの話の続きだけど、今回俺がそのイベントの責任者になったんだ」

「え? そうなんですか? 凄いですね」

明日香はびっくりしたが、よく考えたら大知は神奈川県警横浜市警察部の部長、階級は警視正で本部長の一階級下の部下である。若干32歳でこの階級はスーパーエリートなのだが、こののほほんとした顔に全く緊張感が湧かない。


大知は喉が渇いたのか物欲しそうに楓の方をチラチラと窺いながら口を開いた。

「本部長がさ~、イベントがある週に奥さんと銀婚式で一週間ハワイに行くんだって。絶対確信犯だよね~。それで俺にその役割を押し付けてきたってわけ」

「押し付けられたって……。その割には大知さん嬉しそうな顔してますけど」

明日香が冷やかすと、大知はしまらない顔でえへへと笑った。

「実は俺、彼女のファンなんだよね~」

「石橋あやなって演技力すごいですもんね」


明日香は相槌を打ったが意外な感じがした。石橋あやなは男性受けする可愛らしい感じの女優ではない。役が憑依するような演技で映画通の人たちもうなるような存在だ。

(大知さん、意外……)

明日香は大地を見直した。ゲームしか興味がないオタク男子だと思っていたが意外と映画にも造詣が深そうだ。

「実は彼女、売れない頃『エバードルチア』っていうゲームの声優をやっててね。毎日声を聞いてたから、他人だとは思えなくて」

大知がはにかんだように思い出し笑いをしている。

(やっぱり……)

「明日香」

優しい声で呼ばれて振り向くと楓が新しいカップに紅茶を注いでくれる。桃のフルーティーで華やかな香りが鼻腔をくすぐる。

「いい香り。頂きます」

明日香は胸いっぱいにその香りを吸い込み幸せな気持ちで楓に笑いかけた。


(ちょっと早かったかな)

約束の時間の十五分前、一階の入口近くでうろうろする大知を受付の女性事務官がジロリと見た。石橋さんが来られたら部長の所に案内するので奥の準備室で待っていて下さいとさっきも言われたばかりだ。

(なにもあんな面倒くさそうな顔しなくても)

大知はちょっと傷ついていた。あの表情見たことある。明日香ちゃんが時々俺に向かって見せる表情だ。そしてそれは楓には決して見せない表情だ。

(悔しい)

大知は唇を噛んだ。

(いけない。今眉間に皺が寄っているに違いない)

大知はトイレに行き、鏡を確認した。良かった。前髪が乱れているのに気づかなかった。大知は乱れたその数本の毛を丁寧に撫でつけ、鏡に向かって表情を作った。

(うん、この角度結構イケてる)

自信を取り戻してトイレから出ると入口のあたりで何か揉めているような声が聞こえる。


「えっと。石橋さんは日本では知らない人がいない位の大女優ですよ。私も顔を知っていますが明らかにあなたではないです」

「え、でも私なんです」

「たしかに背格好は似ていますけど……。それに石橋さんほどの大女優が一人で来るわけないでしょう」

あの女性事務官が胡散臭そうな声を出してボサボサ頭でパーカーにデニム姿の女性を舐めまわすように見ている。

「本当に私なんです。マネージャーは寝坊したみたいであと十分位で来ます。私はここから家が近いので一人で走ってきたんです」


周りの職員までもが彼女を胡散臭そうな顔で見ている。大知は急いで駆け付けた。

「間違いない。石橋さんだ。奥に通してくれ」

「えっ?」

事務官が呆然とした表情で大知を見た。

「間違いない」

大知はもう一度事務官に向かって頷いた。

「失礼しました。テレビの印象と違いましたので……」

慌てた様子で謝る事務官に対して彼女は人懐っこい顔でほほ笑んだ。


「いえ、昨晩遅かったものでぎりぎりまで寝てしまってメイクしてこなかった私が悪いんです。私メイクで顔が変わるんです」

「そんな……」

優しい言葉に事務官が涙ぐんでいる。やっぱり思っていた通り気取らない素敵な人だと大知が思っていると、入り口からドタバタと若い男が走り込んで来たなり声を上げた。


「スッピンじゃないですか!」

石橋を見て男が白目をむいた。

「その姿、人に晒しちゃいけないって言ったでしょ。眉無いじゃないですか!」

随分ひどい言いようだ。だが彼女はまるで気にする様子もなくあっけらかんと言った。


「仕方なかったのよ。起きたら約束の二十分前だったんだから。メイクボックスとドライヤー掴んで走ってきたの。ギリギリ間に合ったわ」

彼女は男の方に手をやり優雅に頭を下げた。

「私が石橋あやなでこちらがマネージャーの坂口です。皆さまよろしくお願いします」

「私がこのイベントの責任者の戸田です。今日はよろしくお願いします」

ドタバタの挨拶になってしまった。


「それにしても眉くらい……」

まだ坂口が未練がましい口調で文句を言っている。

「この世界は信用が第一なのよ。遅刻なんかしたら次の仕事が貰えないわ。私の眉なんかどうだっていいのよ」

彼女はぴしゃりと言ってのけ、大知に向かって声をかけてきた。

「一室用意して頂けませんか? 急いで支度しますので。と言ってもヘアメイク一時間程かかりますが……」

「えっ? 本番まで二時間ないんですが。劇の練習もありますし……」

大知がスケジュールを説明する。


「分かりました。これからぴったり五十分後にメイクに着替え、そしてセリフも全て頭に入れておきますから」

彼女はそう言ってスマホのタイマーをセットした。

「坂口君、セリフの音読頼むわね」

「はい」

そう言って二人は台本と衣装が用意された準備室に入って行った。


「石橋さんが来られて今準備をされている。メイクにしばらく時間がかかるようだからそれまでもう一度頭から通してやってみよう」

集まっている役者、スタッフは県警本部の比較的若い有志のメンバーだ。過去に演劇部に所属していた者や、脚本を書くのに興味がある者が集まって日々劇の練習をしてきた。


今年のメインイベントの劇はシンデレラのパロディーの寸劇だ。もちろん王道のあのストーリーではなく、台本は交通安全を周知するストーリーに作り替えてある。

大知の言葉に皆がざわめいた。期待と興奮で満ちている表情の中に、一人だけ異質な人間がいた。

「おい、上田どうした?」

白いスーツを着た王子様役の上田の顔が真っ青になっている。額からは大粒の汗がいくつも吹きだしている。


「うっ、さっきからお腹が痛くて。でも大丈夫です」

上田はよろめいて隣の家来役の塚本に支えられている。

「おい、その様子は大丈夫じゃないぞ。腹膜炎かもしれない」

大知は急いで上田の側に駆け付けた。

「部長……大丈夫ですから。俺……ちゃんとやり遂げてから救急車呼びます」

上田は痛みのためか息が荒くなっている。


「何言ってるんだ。手遅れになったらどうする。後のことは俺に任せろ」

そう言って大知は救急車を呼ぶように指図し、上田をソファーに横たえた。

「部長、部長がやって下さるなら安心です。この御恩は忘れません」

上田が手を握って涙目で見上げてきて、代役を探すつもりだった大知は固まった。そこに部下の塚本が上田の着替えを持ってやって来て、さらに追い打ちをかけてきた。


「これ上田の着替えです。部長と上田って身長同じくらいだから衣装大丈夫だと思います」

上田の衣装を脱がせている塚本を見ながら大知は呆然としていた。

(え? 俺? 王子様って……。俺、三十超えてるんだけど、この白いスーツ着るの?)

ふと周りを見渡すと皆が不安な表情で大知を見ている。もう四の五の言っていられない。時間がない。俺がやるしかない。何度も通し稽古を指導していたおかげで王子の動きとセリフは何となく頭に入っている。


「俺が……やるか」

大知の苦渋の決断にその場の全員が歓声を上げた。ちょうどその時救急車が到着して、上田は総務の担当者と共に救急搬送されて行った。大知はそれを見送った後、台本を受け取りセリフを頭の中に叩き込んだ。


ちょうどその時ヘアメイクを終えた『これぞシンデレラ』の風貌の石橋が声をかけてきた。

「お待たせしました。こちらで皆さんが練習されてるって聞いて」

大知は焦って時計を見た。上田の件で彼女を迎えに行くのをすっかり忘れていた。それにしても彼女の変身ぶりは見事である。長い睫毛にぱっちりとした大きな目。ぷっくりと可愛い唇にはくすんだピンク色の口紅。長い髪は緩くウェーブして白い小花の髪飾りを挿している。沢山のフリルが施されたピンク色のドレスに銀色のパンプス。先ほどの女性と同一人物とはとても思えない。


大知がこっそり見惚れていると、マネージャーの坂口が不審そうな表情で尋ねてきた。

「あの~、救急車が来てたみたいですけど何かあったんですか?」

大知は王子様役が腹痛を起こして倒れた旨を二人に説明した。

「それは心配ですね」

彼女は冷静な声で言った。

「でも彼の事は医療関係者の方に任せましょう。私たちが今、集中すべきは子供たちを夢中にさせる劇を演じる事です」

彼女は女優らしく毅然と宣言した。大知は彼女の肝の据わった態度に惚れ惚れした。

「代役の王子様はどちらの方?」

「私が演じようと思います」

大知がそう言うと石橋は手袋をはめた手を差し出し、ドレスをつまんでとても優雅なお辞儀をした。

「では王子様、エスコートをおねがいしますわ」


劇は中盤の見せ場に差し掛かっていた。

「待ってください」

王子の止める声も聞かず、シンデレラは周りを見渡しもせず、道を走り去る。そして角を曲がったところで出合い頭に馬車に轢かれて重傷を負ってしまう。

シンデレラは病院に運ばれ、命はとりとめるが、入院している間に靴を持って探しに来た王子様とすれ違いになり、王子さまは別の女性と恋に落ちて結婚する。


シンデレラは病院の寝巻を噛みしめて最後の決め台詞を放った。

「あの時、私がちゃんと周りを見渡して道路を渡っていたら、こんなケガをしないですんだのに」

そして別の女性の足元にひざまずいて、プロポーズをしている王子にスポットライトが当たった。

「そして、あそこにいたのはきっと私だったはずなのに」

彼女の哀愁たっぷりの演技に観客の幼稚園児と保護者はまるで動きを忘れたかのように固まり、静まり返った。



「うわ~。小銭入れ落としちゃった」

仕事終わりに駅に向かう途中にポケットの中に小銭入れがないことに気づく。

(ズボンのポケットに穴空いてたからな~)

初めは小さな穴だったがずんずん広がって大きくなってしまっていた。だが小銭入れが落ちてしまうほどではないとタカをくくっていたのが甘かったようだ。


(どうしよう。県警本部の部長が落し物で交番に行くの恥ずかしい……)

立ち止まって悶えていると、前から来た帽子を被った女性が怪しんだのか、遠回りをして通りすぎようとした。


「あ、すみません。落し物をしたもので」

大知が一言声をかけるとその女性が驚いたように問いかけてきた。

「もしかして戸田さん?」

この声は……。

「え? 石橋さん?」

「良くお分かりになりましたね。私こんな格好なのに……」

彼女は不思議そうだ。帽子を深くかぶり、パーカーにデニムの服装の彼女を女優だと気づく人はいないだろう。大知は彼女が昔声優をしていたゲームにハマっていたこともあり、彼女のファンだったことを話した。


「そう、それで」

彼女は嬉しそうに笑った。

「初めてお会いした時、戸田さんだけが私の事石橋あやなだって分かってくれましたよね」

彼女は人懐っこい顔で大知を見上げて続けた。

「この人はよほど耳がいいか、もしかしたら私のファンなんじゃないかって思ったんです」

うぬぼれてすみませんと彼女は笑っている。

うぬぼれるどころか全くその通りなので大知は照れて頭を掻いた。


「そうだ、この間のイベント大盛り上がりで大成功でした。本当にありがとうございます」

大知はお礼を言った。劇が終わった時、一瞬の静寂の後、幼稚園児と保護者全員のスタンディングオベーションとなった。こんなことは初めてだと県警本部内で数日間噂になったほどだ。

(おかげで俺は陰で王子って呼ばれるはめになっちゃったけど……)

大知は恥ずかしさのあまり首をガックリとうなだれた。ちなみに上田はやはり腹膜炎であのまま劇に出演していたら危なかったらしく、見舞いの時に会った家族に感謝された。

(まあ終わりよければ全てよしとしよう)

大知は遠い目をして自らの心を落ち着かせた。


こちらの気も知らず石橋は嬉しそうに大知を見上げてきた。

「私も本当に楽しかったです。子供たちに勇気と力をもらってこれからも仕事頑張れそうです」

彼女の笑顔につられて大知も微笑んだ。

「落し物、何ですか? 私も一緒に探します」

彼女が天真爛漫な顔で聞いてきたので、大知はびっくりして固辞した。

「いえ、そんな。小銭入れなので大丈夫です。それにロッカーに忘れてるだけかもしれませんし」

こんな大女優に探し物などさせるわけにいかない。大知は話題を変えた。


「石橋さんもお仕事帰りですか?」

「そうなんです。ちょっと夜桜を見ようと思って車を手前で降りたんです」

「綺麗ですよね」

「ほんとに……」

二人は一緒に頭上の桜の枝を見上げた。

「まだ五分咲きといったところでしょうか」

「そうですね。今週末には満開になるみたいですよ」

「そうですか。気を付けてお帰り下さい。私はこれで」

軽く会釈して歩き出そうとした大知を彼女が呼び止めた。


「あの、もしよかったら今度、ここで一緒にお花見しませんか?」

「え?」

驚きのあまり目を見張る大知に彼女は恥ずかしそうに続けた。

「ご迷惑ですよね。戸田さんご家族や彼女さんいらっしゃるでしょうから」

「いえ、独身です。彼女もいません」

熱く力説する大知に彼女は少し恥ずかしそうな顔で続けた。


「私、もう何年もお花見してなくて。これまで仕事しかしてこなかったから、誘う友達もいなくて」

「あの、私で良ければ喜んで。週末はいつもゲームばかりして暇なので大丈夫です」

寂しい生活をアピールしすぎて赤面した大知に彼女はふわりと笑って尋ねてきた。

「では、今週の土曜日の十一時でいかがですか?」

「はい、大丈夫です」

「私、お弁当二人分買ってきますね。戸田さんはビールをお願いできますか?」

「はい、もちろんです」

念のためアドレス交換をした後大知はどきどきする胸を抑えつつ、ふらつきながら駅へ向かった。そして改札で気づいた。

小銭入れ、パンパンで重かったので落ちないように鞄に入れたんだった……。


土曜日の朝、大知は花見の場所取りのため、三十分程前に到着して場所を探していた。

(彼女の顔が皆から見えない場所で、桜がきれいなところないかな……)

大きな桜の木の陰にちょうど目立たないスペースがあり、大知がそこにシートを敷こうとかがみこむと木の真後ろから男女の声が聞こえた。

「スッピンで歩いちゃダメだって言ったじゃないですか?」

「この姿の方が誰にもバレなくていいのよ。今日は仕事終わったんだから、あなたも帰っていいわよ」

(この声は……)

間違いない。彼女の声だ。


「スッピンで誰と会うんですか? お弁当二つ買ったりして」

男の苛立った声に大知は出て行くタイミングを逸してしまった。

「ウフフ。ちょっとね。お花見なの」

「誰と? あなた友達いないじゃないですか?」

この声は間違いない。あの坂口というマネージャーだ。相変わらず失礼な奴だ。

「失礼ね。まあ友達がいないのは確かだけど。でも新しくできそうなの」

「どんな人か教えてください。マネージャーの俺には知る権利があります」

今出て行かないと、もう出れなくなる。そう思った大知が声を出そうとすると彼女が一足先に口を開いた。

「この間のイベントで出会った県警本部の戸田さんよ。とてもいい人なの」

「いつの間に連絡先交換したんですか?」


苛立ったような坂口の口調に大知は悪い予感がした。このマネージャー、もしかして彼女の事が好きなのでは。どうしよう。大知が迷っている間に坂口は彼女の行く手を遮った。いわゆる壁ドンだ。いや桜の木ドンだ。

「行かせません。あなたのスッピンは私だけのものです。ずっと前から好きでした」

「そんな……」

彼女が心底驚いたような声を上げた。大知は木の真裏で祈った。彼女が彼の気持ちを拒絶しますように。それなのにその祈りは残酷な形で裏切られた。

「どうして今頃そんな事言うの?」

彼女の声が涙声になった。

「やっと諦める決心がついたのに……」

大知はそっと木の裏から立ち去った。しばらくして振り返るとまだ二人は抱き合っている。


大知はもう振り返らずに駅へと歩いた。そして改札に入る前に彼女に向かってメッセージを打った。

「今日は急用ができました。お花見は彼と一緒に楽しんでください」

そして電車に乗り、自宅の最寄りの駅で降りて歩き出した。だが途中で思い返したように駅の構内に戻りスマホを取り出し電話をかけた。

「楓、今から行ってもいい?」

「え? お前今日花見って言ってなかったか?」

「うん、だけどダメになった」

「……そうか。これから来たらいい。今日泊っていってもいいから」

「うん……」


玄関に迎えに出た楓に大知はクーラーボックスを差し出した。

「楓、急にごめんね。明日香ちゃんは?」

「さっき帰った。大知の話を聞いてやってくれって」

「そっか。明日香ちゃんに気を遣わせちゃったな。でも俺、楓に聞いて欲しかった」


楓はクーラーボックスを受け取り、リビングまで運びテーブルの上に置いて自分は椅子に座った。大知はその中からビールを二本取り出し、楓の向かいに座った。そして一本を楓に渡し、自分は一気に飲み干した。そして楓に先ほど見た二人の様子を話した。楓は黙って聞いている。胸の内を全て吐き出してしまってから、大知は気が抜けたようにぽつりぽつりと言葉を繰り出した。


「俺、今週凄く幸せな気分だったんだ。朝、通勤でいつも見てる桜道の景色も、こんなに綺麗だったんだって……初めて気づいた」

「そうか……」

「仕事帰りにもあの桜道を通ってあと三日、あと二日って、数えて……」

「彼女の事、本気で好きだったんだな」

「うん……」

大知は涙ぐんで鼻をすすった。

「おかしいよね。花見に誘われた位で好きになっちゃって。でも諦める。彼女が幸せならいいや」

楓は静かに口を開いた。

「おかしくなんてない。人を好きになるのに時間なんて関係ない」

「うん……。今日楓がいてくれてよかった」

大知は二本目の缶のプルタブを引いた。


桜の木の下でメッセージに気づいた彼女がスマホを見てため息を漏らした。

「彼、きっと見てたのね。悪いことしちゃったわ。ほんとにいい人だったのに……」

つぶやく彼女の唇を坂口が口づけて黙らせた。


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