金庫と模試
男は、最後まで「貧乏だった」と言い張っていた。
古びた布団、擦り切れた畳、味気ない食事。
息子はそれを疑ったことがなかった。むしろ、その生活の中で育ててくれたことに感謝していた。
だからこそ、臨終の間際に告げられた言葉は、あまりにも現実味がなかった。
「……一億、ある」
かすれた声で、男は言った。
「生活を切り詰めてな……全部、貯めた。金庫に入れてある」
息子は言葉を失った。
あの質素な暮らしの裏に、そんな事実があったなど想像もしなかった。
「一週間以内に開けられたら……全部、お前にやる。開けられなければ……寄付だ」
男はそう言い残し、目を閉じた。
——それが、最後だった。
息子は必死に金庫と向き合った。
番号式の、古いダイヤル錠。
鍵はない。番号だけが頼りだった。
父の誕生日、母の命日、自分の生年月日、思い出の数字——
思いつく限りを試した。
しかし、開かない。
時間だけが過ぎていく。
三日目。五日目。
そして、七日目。
息子は、ついにダイヤルから手を離した。
「……無理だった」
ぽつりと呟く。
悔しさはあった。だが、それ以上に——
「でも……僕は、自分の力で……父さんの貯金以上に稼いでみせる」
それは、負け惜しみではなかった。
父が見せてくれた背中を、自分なりに継ぐ覚悟だった。
*
その夜。
男は、まだわずかに意識を繋いでいた。
医者も驚くほど、か細く、しかし確かに。
息子は、枕元に座っていた。
男は、かすかに笑った。
「……お前が……全国模試で……一位を取ったとき……嬉しかった」
息子の目が、わずかに揺れる。
「……金庫の番号はな……その、結果発表の日だ」
息子は息を呑む。
「……八月十日……“0810”だ……」
沈黙。
そして——
息子は、ゆっくりと顔を歪めた。
涙が滲みそうな、けれど——笑っている顔。
「……教えてくれて、ありがとう」
その声は、震えていた。
部屋には、静かな時計の音だけが響いている。
壁に掛けられたカレンダー。
——そこには、今日の日付が「期限最終日」として赤く印されている。
だが、それは本物ではない。
息子が、昨日の夜に貼り替えたものだった。
本当の期限は——もう、過ぎている。
父は、それを知らない。
息子は立ち上がると、金庫の前に座った。
震える指でダイヤルを回す。
「0……8……1……0……」
カチリ。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
ゆっくりと扉を開ける。
中には——整然と並べられた札束。
息子は、しばらくそれを見つめていた。
やがて、目を閉じる。
「……ごめん」
小さく呟いた。
それが、父に向けてか、自分に向けてかは分からなかった。
再び顔を上げたとき、その表情はもう揺れていなかった。
金庫を閉じる。
「……約束通り、自分の力でも稼ぐよ」
誰に聞かせるでもなく、静かに言う。
背後では、男の呼吸が、ゆっくりと——途切れた。
息子は振り返らなかった。
ただ、固く拳を握りしめたまま、立ち尽くしていた。




