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金庫と模試

作者: 明星院聖真
掲載日:2026/04/22

男は、最後まで「貧乏だった」と言い張っていた。

古びた布団、擦り切れた畳、味気ない食事。

息子はそれを疑ったことがなかった。むしろ、その生活の中で育ててくれたことに感謝していた。

だからこそ、臨終の間際に告げられた言葉は、あまりにも現実味がなかった。

「……一億、ある」

かすれた声で、男は言った。

「生活を切り詰めてな……全部、貯めた。金庫に入れてある」

息子は言葉を失った。

あの質素な暮らしの裏に、そんな事実があったなど想像もしなかった。

「一週間以内に開けられたら……全部、お前にやる。開けられなければ……寄付だ」

男はそう言い残し、目を閉じた。

——それが、最後だった。


息子は必死に金庫と向き合った。

番号式の、古いダイヤル錠。

鍵はない。番号だけが頼りだった。

父の誕生日、母の命日、自分の生年月日、思い出の数字——

思いつく限りを試した。

しかし、開かない。

時間だけが過ぎていく。

三日目。五日目。

そして、七日目。

息子は、ついにダイヤルから手を離した。

「……無理だった」

ぽつりと呟く。

悔しさはあった。だが、それ以上に——

「でも……僕は、自分の力で……父さんの貯金以上に稼いでみせる」

それは、負け惜しみではなかった。

父が見せてくれた背中を、自分なりに継ぐ覚悟だった。

その夜。

男は、まだわずかに意識を繋いでいた。

医者も驚くほど、か細く、しかし確かに。

息子は、枕元に座っていた。

男は、かすかに笑った。

「……お前が……全国模試で……一位を取ったとき……嬉しかった」

息子の目が、わずかに揺れる。

「……金庫の番号はな……その、結果発表の日だ」

息子は息を呑む。

「……八月十日……“0810”だ……」

沈黙。

そして——

息子は、ゆっくりと顔を歪めた。

涙が滲みそうな、けれど——笑っている顔。

「……教えてくれて、ありがとう」

その声は、震えていた。


部屋には、静かな時計の音だけが響いている。

壁に掛けられたカレンダー。

——そこには、今日の日付が「期限最終日」として赤く印されている。

だが、それは本物ではない。

息子が、昨日の夜に貼り替えたものだった。

本当の期限は——もう、過ぎている。

父は、それを知らない。

息子は立ち上がると、金庫の前に座った。

震える指でダイヤルを回す。

「0……8……1……0……」

カチリ。

乾いた音が、やけに大きく響いた。

ゆっくりと扉を開ける。

中には——整然と並べられた札束。

息子は、しばらくそれを見つめていた。

やがて、目を閉じる。

「……ごめん」

小さく呟いた。

それが、父に向けてか、自分に向けてかは分からなかった。

再び顔を上げたとき、その表情はもう揺れていなかった。

金庫を閉じる。

「……約束通り、自分の力でも稼ぐよ」

誰に聞かせるでもなく、静かに言う。

背後では、男の呼吸が、ゆっくりと——途切れた。

息子は振り返らなかった。

ただ、固く拳を握りしめたまま、立ち尽くしていた。

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