第五話
「このあたりに、僕の行きつけの酒場があるんです」
断るべきだ、頭では思っていた。だが、命がけの戦闘の直後で、くたくたに疲れている。それに、初めての巡回でたった一人で魔獣を倒したのに、その手柄を信じてもらえるかどうかも分からない状況だ。ちょうどお腹も減っている。
男は私の迷いを見抜いたようにふっと笑うと、極めて自然な動作で私の腰に手を回し、エスコートするかのような動作をする。
「さあ、こっちです。行きましょう」
半ば強引に連れて行かれた裏通りの小さな酒場は、そこそこ賑わっていた。とはいえ、表の通りの大衆酒場よりはだいぶ落ち着いていて、木の卓や棚もちゃんと手入れが行き届いている。男は慣れた様子で奥の席を取ると、私にも座るよう促した。
「何がいいです?」
そう聞かれるが、私は王都の酒場の相場など知らないし、こういう店で男と向かい合って座る経験も前世から通してほとんどない。なんだか緊張してしまって、うまく言葉が出なかった。
「……おすすめで」
そう答えると、男は小さく笑った。
「君って、可愛い人だな」
可愛い、なんて家族以外の男の人に言われるのは初めてだ。どういう反応をして良いのかわからず、思わず顔が火照る。
ほどなくして、肉の煮込みと黒パン、それから薄いスープが運ばれてきた。
「冷める前にどうぞ」
一口食べた瞬間、身体の奥まで熱が落ちていく感じがした。ほっとしたのが自分でも分かる。
「美味しいです」
「よかった。ここは僕のお気に入りの店なんですよ」
男のフードが少し揺れて、ぼやっとしたランプの光に、彼の顔貌が一瞬だけ照らされる。切長の鋭い瞳を細めて笑っている。くっきりと目鼻立ちが通っていて、まつ毛は長く、妖艶な印象さえある。私がそれまで見た男性の中で、疑いようもなく一番美しかった。
私は目をそらして、もう一口スープを飲んだ。
「それで」
男が口を開く。
「改めて、今日のお礼を。ありがとうございました、騎士様」
「そんな、大げさです。ただ落とし物を返しただけで」
「違いますよ。僕が言ってるのは、その後の方です。まさか、街を1つ救ったことをお忘れで?」
私は返事に詰まった。男は面白がるように笑う。
「貴方みたいな誇り高い女性、好きなんです」
唐突な言葉に、危うく咳き込みそうになった。
「な、何を急に……」
「本心だよ」
男は敬語を崩すと同時に、前屈みになって顔を近づけた。
「母親が若いうちに死んだ影響かな。強くて優しい女性に憧れがあって」
私は持っていた匙を危うく落としかけた。どこか浮世離れした印象の彼だったけど、そんな背景があったなんて。前世の母を思い出してしまって、胸の奥が少しだけ疼く。
「……そう、なんですか」
やっとそれだけ返すと、男はにこりと笑った。
「ええ。だから、貴方みたいな人を見ると、つい目で追ってしまう」
何を言えば良いかわからず、閉口した。前世でも今世でも、恋愛と呼べるような経験はほとんどないのに、突然こんなことになるなんて。前世では剣道ばかりだったし、今世では騎士を目指すことばかり考えてきた。誰かにこんなふうに真正面から口説かれるなんて、未経験もいいところだ。
「それに、貴方は綺麗だ」
さらりと言われて、心臓が変な音を立てた。
「そのうえ強くて真面目で、ちょっと不器用でしょう?僕からしたら、これ以上ないくらい魅力的だよ」
そうして、彼は私に向かって手を差し出した。この手をとれ、ということだろう。手をとってしまった後どうなるのか、私には到底想像もつかないけれど。
顔が熱い。耳まで熱い。今、自分がどんな顔をしているのか想像するだけで恥ずかしかった。
再度、彼の顔を見上げる。「ん?」と微笑気味に首を傾げる姿は、女の私から見ても、なんとも艶かしい。冷静になろうとしているのに、その動作たった1つで、より一層思考が乱されてしまった。
ダメだ。これ以上この人といてはダメだ、と、頭のどこかが必死に言っている。
こんなふうに甘い言葉を並べられて、何にも思わないわけがない。彼がどういう人間かもろくに知らないが、とにかくこの胸の高鳴りがおさまらない。
彼の手に向かって自分の手を伸ばそうとした、その時だった。
ふと、家族の顔が浮かんだ。
泣きながら送り出してくれた母。剣の柄を叩いて「折れるなよ」と言った父。手紙を書けと何度も言ったノア。からかいながらも背中を押してくれた兄たち。私は、立派な騎士になると約束したのだ。
ここへ何をしに来たのか――。その気持ちを胸に問い直すことで、高まっていた熱が引いていくのを感じる。
私は深く息を吸い、口を開いた。
「……そういうこと、誰にでも言っているんでしょう」
ようやく絞り出したのは、思っていたよりずっと可愛くない台詞だった。男は一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。
「まさか。でも、確かに性急だったかも。ごめんね」
笑いながら続ける。
「もっと貴方のことが知りたいのは、本当だよ。でも――」
男はそこで少しだけ身を引いた。
「今夜のところは、これで我慢しようかな」
そう言うと男は立ち上がり、私が声をかけるより先に会計まで済ませてしまった。
「え、待ってください、自分の分くらいは」
「今日は僕が誘ったんだから、当然」
そう言ってまた笑う。
「またお会いしましょう、僕の可愛い騎士様。今度は、もっと深く話せたら嬉しいな」
私は何も言えないまま、店の前で彼を見送ることになった。黒いマントが人混みに紛れて、やがて見えなくなる。
そこでようやく、私はひとつのことに気づいた。
彼の名前を聞いていない。連絡先も、住まいも、何も聞いていない。
「またお会いしましょう」というセリフは、さっきまでの時間は、一体なんだったんだ。私はしばらく呆然としたまま立ち尽くした。
まあちょっと、いやだいぶ気になるけど、王都ではこういうこともあるのかもしれない――。
そう思って宿舎へ戻りかけた、その時だった。
ふいに、ペンダントのことが頭をよぎった。
大きく彫られた「友情の証に」という子供っぽい文句。その側面に、まるで隠すように刻まれていた、別の字体の魔法言語。
私は立ち止まった。あれが、妙に引っかかっていた。彼のことは忘れようと決めたばかりなのに、あの刻印だけはなぜだかどうしても頭から離れない。
白薔薇騎士団の宿舎には、小さな資料室があった。騎士団向けの魔獣図鑑や王都の地誌、簡単な家系録、古い報告書が雑然と並んでいるだけの狭い部屋だ。ほとんど使われていないらしく、当然のように誰もいなかった。
「少しだけ。少しだけ見たら寝よう」
誰に言うでもなくそう呟き、棚の前に立つ。
魔法言語で読んだ文字は、<ロアン・ハインベルト>。
少なくとも、私はそう読んだ。
ハインベルトは、平民の姓ではない。
まず家系録を引っ張り出し、目ぼしいページを探す。ずいぶん時間が経って、やがて見つかった。
ハインベルト家。一代限りの子爵家。父が武功を立てたことで爵位を賜った家。
私は思わず指先を止めた。
子爵家――。
あの軽薄そうな笑い方と、黒いマントと、妙に掴みどころのない態度は、貴族の印象とうまく結びつかない。
さらにページをめくる。
すると、その数年後には、家名そのものが記録から消えていた。正確には、爵位剥奪と家の解体だけが、ひどく簡潔に記されている。
理由は、王国への重大な背信。それだけだ。
私は眉をひそめた。
背信とは何か。誰が何をしたのか。処分の経緯はどうだったのか。普通なら残っていそうな情報が、驚くほど何もない。
別の記録も開いてみる。王都の古い報告書。没落貴族の一覧。貴族間の婚姻記録。それら全てにおいて、ハインベルト家に関わる情報だけ、奇妙なくらい空白だった。
ただ一家が没落した、という事実だけがある。なのに、その裏にあったはずの騒ぎも、裁きも、噂も、ほとんど残っていないし、私自身も聞いたことがない。
こんなことがあるだろうか。
子爵家が背信で潰れたのなら、普通はもっと尾ひれのついた記録が残る。貴族社会はそういう話を好むという話を伯爵夫人から聞いたことがあるし、王都の平民たちがそんなスキャンダラスな噂話を放っておくとも思えない。
なのに――。
時計を見ると、すでに日付が変わっている。
私はそれ以上深く考えるのを諦め、本を閉じた。
――――――――――――――――――――――――
翌朝、白薔薇騎士団全体に急な通達が回った。表彰式に参列せよ、と。
何のことかと思ったが、どうやら昨日のウォーグ討伐に褒章が出るらしい。私はその文面を読みながら、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
もちろん、昨日の第四騎士団の男の言葉は気になっていた。ひとりで倒したなんて上が信じるかは別だ、という、あの妙に含みのある言い方。
それでも。少なくとも、自分が表彰の場に立つこと自体は変わらないはずだと思った。街の人たちも見ていた。増援の騎士たちだって、私がウォーグの前に立っていたのを知っている。少しだけ胸を張って、私は式場へ向かった。
参列した白薔薇騎士は、案の定まばらだった。
第一次募集組らしい女たちはほとんど顔を見せず、第二次募集組も半分近くが欠席している。あまりに堂々と欠けているので、呆れるしかなかった。
式場には第四騎士団の面々が並び、その正面に褒章を載せた卓が置かれていた。騎士団の上役らしい男たちが並んでいる。
やがて式が始まった。壇上に立った役人風の男が、咳払いをひとつしてから、よく通る声で口を開く。
「昨日、王都東区において、突如出現したAランク級魔獣ウォーグに対し、見事なる働きを見せた騎士がいる」
式場の空気が、少しだけ引き締まる。
「街の平穏を脅かす凶悪な魔獣を前にしても怯むことなく立ち向かい、迅速かつ果敢な対処によって被害の拡大を防いだ功績は、まことに賞賛に値する」
聞きながら、私は思わず背筋を伸ばした。ああ、良かった――。思い切って一人で立ち向かったことは、ちゃんと報われたようだ。
「ここに、その勇敢なる騎士を讃え、褒章を授ける」
私は、無意識に息を止めていた。名前を呼ばれる――そう思った、その時。
「第四騎士団、エドガー・フェルマン」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
遅れて、昨日、私に向かって「そういうことにしておいてやる」と言った男が、悠々と前へ進み出るのが見えた。
拍手が起こる。上役は満足げに頷き、ウォーグ討伐の功績を称える言葉を並べ立てた。
嘘だ。そう言いたかった。でも、喉が凍りついたみたいに動かなかった。
違う。倒したのは私だ。
私は一歩前へ出かけて、けれど、その時ちょうど別の男に肩を叩かれた。
「ほら、ぼさっとするな」
振り向くと、白薔薇騎士団付きの役人らしい男が立っている。
「次、お前だ。賞状を渡せ」
差し出されたのは、表彰状の束。私はぽかんとした。
「……どういう、ことですか」
「女なんだから、それくらいできるだろ」
男は当然みたいに賞状を押しつけてくる。私は反射的に受け取ってしまった。
手が、震えた。エドガー・フェルマンが壇上から降りてくる。私はその前に立って、賞状を渡す役。まるで従者だ。
胸の奥が、どくどくと嫌な音を立てる。
悔しいとか、腹が立つとか、そういう言葉では追いつかないくらい、何かが濁っていく感じがした。
賞状の端を持った指先に力が入らない。
落ちる。
そう思った瞬間にはもう遅かった。表彰状が私の手から滑り、式場の床へ落ちる。紙の乾いた音がやけに大きく響いた。
一瞬、場が静まる。
それから、あからさまな嘲りが広がった。
「これしきのこともできないのか?これだから女は――」 「平民騎士って聞いてたけど、こりゃ採用したのは失敗だな」 「そもそも白薔薇騎士団なんてお飾りでしかないのに、こんな公式の場にいらないだろう」
「解体だ、解体!」
一際大きい野次が飛んだ。そのあけすけな言い草に、どっと笑い声が上がる。
私の視界の端で、白薔薇の同期たちが露骨に顔をしかめたり、知らんふりをしたりしているのが見えた。
頭の中がぐらぐらした。悔しい。情けない。逃げたい。
でも、それ以上に腹が立った。何も知らないお前たちが、白薔薇騎士団を笑うな。
確かに、未熟な騎士団だ。真面目に騎士として武功を立てたいと思っている人はほとんどいないし、訓練や任務だって形ばかりの期待外れ。
でも、ここに縋ってきた人間がいる。ここに救われた人間がいる。これから先、この名に希望を見出すかもしれない女の子たちだっている。
何も知らないくせに。
気づけば、声が出ていた。
「……そのお言葉だけは、聞き捨てなりません」
場が静まる。
自分が声を発していたことに、途中まで気づかなかった。でも、気づいた時にはもう止まらなかった。
「少なくとも私にとって、この騎士団の存在は救いでした」
声が震えている。悔しさからか、怒りからか、自分でも分からない。
「そして将来、きっと多くの女性の道を切り開くものです」
上役たちの表情が変わる。半ば面白がるように、半ば苛立つように、その中のひとりが鼻を鳴らした。
「ほう」
初老の男だった。胸元の飾りから見て、かなり上の立場らしい。
「だが白薔薇騎士団は、この半年、何ひとつ手柄を立てていない。実績なき者が一人前に扱ってもらおうなどと、烏滸がましいのではないか」
その言葉に、ぐっと奥歯を噛んだ。たった今、私の手柄を横取りしたエドガーをキッと睨みつけるが、エドガーは気まずそうにニヤつくだけだった。
「……それなら」
自分でも驚くほど、声ははっきり出た。
「それなら、私が手柄を立てます」
式場の空気が、ぴたりと止まる。
男はゆっくり口の端を上げた。
「面白い」
嫌な笑みを浮かべる。こちらを嘲るような、見極めるような笑みだ。
「ならばやってみろ。これから三日間やる」
三日――!短すぎる、と頭のどこかが叫んだ。
「最近、Aランク級の魔獣が街に頻繁に出現している件について調査し、解決してみせろ。もし無事に解決してみせたなら、お前の望みをなんでも聞いてやる。膨大な労力はかかるだろうが、白薔薇を真っ当に騎士団として育成するのも良いだろう。ただし――解決できなかったら、田舎に帰るがいい」
式場がざわつく。当たり前だ。どう考えても無理難題なのだから。
昨日王都へ来たばかりの、ろくな権限も持たない白薔薇の新人に課すような仕事ではない。
けれど、今ここで怯んだら全部終わる。
私は震える手を握りしめた。
「……ええ、お引き受けしますよ」
そう言い放つと、私は振り返ることなくその場を飛び出した。
式場の扉を抜けて、廊下を歩いて、外へ出て、そこでようやく足を止める。
鼓動が速い。呼吸も浅い。
いやいや、私。お引き受けしますよ、じゃないでしょ――。いったい何をどうするつもりなの。
私は額を押さえた。
勢いで啖呵を切ったのはいい。でも、具体的に何から始めればいいのか、まるで分からない。
Aランク級の魔獣が街に頻繁に出現している件。昨日のウォーグも、その一環だろう。
そう、本来ならウォーグの出没自体、もっと大きな問題として扱われるべきだった。なのに手柄だけが横取りされ、肝心の原因には誰も触れようとしない。
私は歯を食いしばった。悔しい。でも、悔しがっているだけでは何も進まない。
とにかく、街へ出よう。足を使うしかない。見て、聞いて、拾えるものを拾うしかない。
そう決めて王都の裏通りへ入った時だった。
人気の少ない路地の奥で、怒鳴り声がした。
「やっと見つけたぞ!」 「お前のせいでこっちは大恥かいたんだぞ!」
私は反射的に足を止めた。聞き覚えのある声だ。
路地裏を覗いてみると、昨日のAランクパーティーの若者たちだった。
何人かが路地奥に座っている一人の人物を取り囲み、その人物に掴みかからんばかりに詰め寄っている。今の私の状況で止めに入るべきか一瞬迷ったが、やはり放っておけず、私は足早に近づいた。
すると、もうひとつ、聞き覚えのある声がした。
「そうは言ったって、お客さんたち」
ぞくりとした。
「あんた方が望んだことでしょう。リスクについてはお伝えしたはずですよ」
軽やかなのに、妙に耳に残る声。
「それに」
続く言葉に、私は思わず足を止めた。
「君たちは僕をこんなふうにリンチするより、さっさと逃げた方が良いんじゃないかなあ。これから、もっとたくさん獣が来るみたいだから」
黒いマントが、路地の奥でひらりと揺れた。
私は思わず息を呑む。昨日の――薄暗い酒場で私に手を延べた――あの男だ。
その瞬間、足元で小石が鳴った。
しまった、と思った時には、若者たちが一斉にこちらを振り返っていた。
「騎士だ!」
彼らのうちの一人が叫ぶ。
昨日の失態がよほど堪えているのか、彼らはもう誰かを庇う余裕も見栄もないようだった。蜘蛛の子を散らすように路地から駆け出していく。
あっという間に、そこには黒いマントの男だけが残った。
私はゆっくり前へ出る。奇妙なことに、男は慌てる様子もなく、むしろ楽しそうですらあった。
「僕の可愛い騎士様。今日も会いましたね」
腹が立つくらい、昨日と変わらない自然な口調だ。
「あんた、いったい何者――」
問い詰めようとして、途中で言葉を飲み込む。
何者、というより……。
「ああ。あんたね、闇の情報屋っていうのは」
男は、えー、と困ったように笑った。
「昨日の時間を忘れたの?君と僕と、二人だけの」
甘やかすみたいな猫撫で声。ああ、この男――。
「ね、だからそんなに怒らないで」
さっきのことがなければ、私はまたこの仕草に心を乱されていただろう。でも、今は明確に違う。
私はまっすぐ男を見た。何も言わずに。
男はその視線を受け止め、数秒の沈黙ののち、小さく息をついた。
「……ああ、そうだよ」
とうとう認めた。
「僕こそが闇の情報屋。不正ランク上げの犯人さ」
さらりと言う。その言い方にまた苛立った。
「女性騎士からなら良い情報が手に入ると思って、近づいてみたんだけどなあ…どうやら、もう難しいみたいだ」
「あんた――!」
「あ、怒鳴らないでね。大きい音嫌いだから」
肩をすくめる。先ほどとは打って変わって、なんとも気だるそうな様子だ。これがこの男の本性なのかと思うと、余計に腹が立つ。
「ああ、僕の正体を暴こうったって無駄だよ。この街に、僕の素性を知っている人間は一人もいない。それに、僕はたくさんの顔を持っているからね」
そう言って、男はわざとらしく両手を広げた。
今すぐ剣を抜いて拘束したい。騎士としてはそうすべきなのだろう。
けれど、昨日のウォーグのこと、さっきの「もっとたくさん獣が来る」という言葉、不正ランク上げの話――。
「あんた、いったい何を知ってるの」
低い声で聞くと、男は口元だけで笑った。
「さあ」
そのまま、ひらりと身を翻す。逃げる気だ。
「――待ちなさい」
私は咄嗟に呼び止める。
付け焼き刃だが、私の手札は――これしかない。
「ハインベルト家。……ずいぶん綺麗に消されてるんですね?」
一か八かの問いかけだった。が、明らかにその男の空気が変わった。
男が振り返る。さっきまでの軽妙な薄ら笑いが消えていて、その眼差しは過去になく鋭い。
「……何の話?」
少し低い声で、そう問うた。私は一歩ずつ近づく。
「一代限りの子爵家。王国への重大な背信を理由に爵位剥奪」
男の背中は動かない。
「それほどの事件だったはずなのに、記録が不自然なくらい空白ですよね。処分の経緯も、噂話も、何も残っていない」
水の滴る音だけが、路地に落ちた。
「まるで、意図的に抹消したみたいに」
沈黙が落ちる。
やがて男は、ほんの少しだけ肩越しにこちらを振り向いた。
「いや――平民の騎士が、どうして魔法言語なんてわかるんだよ」
「こう見えて私、辺境伯夫人のお気に入りだったんですよ。文字も、礼儀作法も、書物の扱い方も、ずいぶん厳しく教えていただきました。特に夫人は魔法学が達者だったので、貴族でも教わらないところまで叩き込まれたものです」
男は小さく息を吐いた。笑っているのか、呆れているのか分からない。
「それで?」
やがて、気だるそうに聞く。
「その空白を見つけたから、なんなの?捕まえる気?」
「いえ、脅迫します」
私は迷わず答えると、男が目を見開いた。
「え、何それ……」
「もちろん、本当は捕まえたいです。闇の情報屋で、不正ランク上げの犯人。騎士としてそうするべきなのは明らかです」
男は肩をすくめる。
「でも今は、それより重大な事件を解決する必要がある。そのためにはきっと、貴方の力が役立つはず」
フードが揺れて、男の目が見える。怪訝そうに細まっていた。
「助けてくれますよね?名前が表に出たら、どうやら困るみたいですから」
男がまとう空気が、ぴんと張り詰める。だが数秒後、男は片手で額を押さえてため息をついた。
「……あ〜、人選間違えた。可愛くないなあ」
その言い方に、少しだけ昨日の軽さが戻る。
ハッキリと違うのは、もうこちらを甘言だけで操れるとは思っていなさそうだった。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてないよ」
男は小さく笑ってから、壁に背を預けた。
「で、何?僕は何をすればいいの」
私は息を吸った。
「最近、Aランク級の魔獣が街に頻繁に出ている件。貴方、何か知っているんでしょう」
男は露骨に顔をしかめた。
「ああ、言ったねえ。言ったけど……やなこと覚えてるなあ」
「地獄耳なんです、昔から」
私はさらに一歩近づく。
「私のために」
それだけでは足りない気がして、もう一度言った。
「……それに、白薔薇騎士団のために。貴方の力を貸して」
男はしばらく黙っていた。路地の外から、遠く市場のざわめきが聞こえる。
やがて彼は、面倒くさそうに肩を落とし、唐突に口を開いた。
「まず前提ね。僕は捕まりたくないし、協力なんてもっとしたくない」
「……でしょうね」
「でも――君に僕の存在を言いふらされたら、ちょっと厄介なのは確かだ」
「……それじゃあ」
「協力するよ。条件付きなら」
男はピンと人差し指を立てる。
「まず、僕のやり方の邪魔をしないこと。そして、僕の素性を他人に漏らさないこと。あと、この任務が終わったら僕のことは綺麗さっぱり忘れること」
私は頷いた。これで手がかりを掴める。
「――ということは、やっぱり何か知ってるんですね」
「ま、少しはね」
男は笑う。そして、流れるような所作で、初めてフードを外した。
金髪に碧眼。鋭い目つきは蛇のようにも猫のようにも見える。そして、やっぱり、美しい。
「改めて、騎士様。貴方の三日間だけのパートナー、ロアンと申します。よろしくね」




