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第一話

 私の朝は、竹刀の先が床板を打つ音から始まる。


 まだ夜の冷たさが残る道場の板間に裸足で立つと、足の裏からじわりと寒さが上がってくる。窓の外は薄暗く、庭木の向こうの空も白みきっていない。私は面を持ったまま正座して、父が来るのを待っていた。


 やがてここへ来る父に対しては、眠いとか寒いとか、そういうことは口にしない。言ったところで意味がないと、もう何年も前に覚えた。


 襖が開く。


「構えろ」


 挨拶の代わりにかけられる言葉は、いつもこれだった。


 父は道着の襟をきっちり合わせ、髪を短く整え、いつも通り隙のない顔をしていた。私が立ち上がるのを、少しも笑わないで見据えている。子供の頃は、その無表情が怖かった。今は、怖いというより、そういうものだと諦めているけど。


 面をつけ、竹刀を握る。手のひらには豆が潰れて固くなった跡がある。


 父の踏み込みは相変わらず重い。圧がある。真正面からぶつかると息が詰まる。打ち込みが来ると分かっていても、体がすくむ。私はそれを父に悟られまいとして、いつも必要以上に力んだ。


「遅い」「目を泳がせるな」「避けるな。受けろ」


 泣きたくても泣かない。泣いたら、そこから先は何も教えてもらえなくなる。父は泣く子を慰める人ではなかった。泣くくらいなら最初からやるな、と思っている人だった。


 それでも私は、父の稽古が嫌いではなかった。


 苦しかったし、痛かったし、何度やっても上手くならない自分に腹が立った。でも、たまに父がほんの少しだけ頷く瞬間があった。その一瞬のために、私は何日でも頑張れた。


 母は、私が小さい頃に死んだ。


 病気だった。詳しいことはあまり覚えていない。ただ、布団の中で一緒に眠るときは優しい匂いがしたことと、細い指で頭を撫でてくれたことだけは覚えている。


 母がいなくなったあと、家の中は道場そのものになった。朝は稽古、昼は学校、帰ったら雑用と素振り。父は仕事で忙しかったが、その合間を縫って私を鍛えた。


 跡継ぎはお前しかいない、と何度も言われた。


 その言葉を、私は宝物みたいに思っていた。


 必要とされている気がした。私がちゃんと強くなれば、母のいなくなった家でも父を一人にしなくて済む気がした。父に認めてもらえたら、母がいないことも、女の子なのにと周りに言われることも、全部大したことじゃなくなると思っていた。


 道場には男の子ばかりいた。体格差がある年齢になってくると、露骨に舐められることも増えた。


「女は腕力ないからな」

「どうせ飽きたらやめるんだろ?」

「先生も娘に継がせるつもりないんじゃね」


 聞こえないふりをした。聞こえていないわけがない。でも父に言いつけたことは一度もない。そんなことで泣きつくのは弱いと思ったし、父にがっかりされたくなかった。


 その代わり、誰よりも早く道場に来て、誰よりも遅くまで残った。


 でも、最初、私は全然強くなかった。


 体が小さく、踏み込みも浅く、思い切りも足りない。相手を見る前に打ってしまう癖が抜けず、稽古ではいつも負けていた。父にもずいぶん叱られた。


 でも、中学に入る頃には少しだけ分かるようになった。相手がどう動くか、その前に、自分がどう立つか。怖い、痛い、負けたくない、認められたい。そういうものが全部ぐちゃぐちゃに混ざったまま前に出ても、剣先はぶれる。


 私は自分の呼吸を意識するようになった。足の裏の感覚を確かめるようになった。打つ前に一瞬だけ静かになる、その感覚を体に覚え込ませた。


 すると、少しずつ勝てるようになった。


 父は相変わらず褒めなかったが、稽古の内容が変わった。初歩の反復ではなく、相手を見ること、間合いをずらすこと、勝負所で躊躇しないこと。教わることが難しくなったのが、純粋に嬉しかった。


 中学二年の冬、父が再婚した。


 相手の女性は父の知り合いの紹介で出会ったということだった。綺麗な人だったが、私にはどこか距離のある笑い方をした。悪い人ではないのだろうと思った。実際、最初の頃はよく気を遣ってくれていたし、お弁当も作ってくれた。


 私は、母のことが過去になっていくのが寂しかった。


 でも、新しい家族ができること自体は嫌ではなかった。父が一人でいるよりいいと思ったし、誰かが家にいてくれる方が安心だとも思った。父にも笑う時間が増えるかもしれないと、そんなふうに考えた。


 やがて弟が生まれた。


 小さくて、ふにゃふにゃで、泣き声が大きくて、でも驚くほど可愛かった。私は授業が終わると早く家に帰って顔を見た。抱っこはまだ怖かったが、ミルクを作るのを手伝ったり、寝かしつけの時に隣で歌ったりした。


 義母はその頃から、少しずつ私に遠慮しなくなった。


 はっきり嫌われているわけではない。けれど、何かにつけて「女の子なんだから」と言うようになった。


「そんなゴツゴツの手になっちゃって」

「試合試合って、進学はどうするの」

「道場の手伝いもいいけど、もう少し家のこと覚えたら?」


 父はそのたび、特に何も言わなかった。肯定もしないし否定もしない。ただ黙っていた。私はその沈黙を、自分への信頼だと勝手に解釈していた。父は分かっている。私は跡継ぎだ。だから揺らがないのだと。


 高校に入ると、部活のレベルが一気に上がった。


 県内でも強い選手が集まっていて、最初はまるで通用しなかった。背の高い相手、足の速い相手、試合運びの上手い相手。私はいちいち壁にぶつかった。でも、悔しく思うたびに、まだ強くなれると思えた。


 父は変わらず、それまで通り厳しかった。


 それでも、高校二年の秋、私は県大会で優勝した。


 決勝の瞬間のことは今でもはっきり覚えている。


 相手は私より背が高く、腕も長かった。お互い一本ずつ取り合って、延長に入った。観客席のざわめきが遠くなり、呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。相手が一歩詰めてきた、その瞬間の体重移動が見えた。私は迷わず踏み込んだ。手応えがあり、気づけば旗が三本上がっていた。


(お父さん……!やった。私やったよ……!)

 勝ったのだと分かった時、それが最初に浮かんだ言葉だった。


 父はきっと驚く。もしかしたら、少しくらい笑うかもしれない。よくやった、と言ってくれるかもしれない。


 そんなことを考えながら、私は賞状と優勝旗を持って帰った。


 その日は少し遅くなった。駅から家までの道は暗く、道場の看板だけが見慣れた場所で灯っていた。


 玄関を開けようとして、私は中から笑い声がするのに気づいた。


 父の笑い声だった。


 珍しい、と思った。


 私は何となくそのまま引き戸に手をかけず、道場側の廊下に回った。板張りの向こうから、弟の甲高い声が聞こえる。


「えいっ!」

「そうだ、いいぞ」


 そっと覗くと、弟が小さな竹刀を持っていた。まだ四歳になったばかりの小さな手で、それでも嬉しそうに振っている。父はその前にしゃがみ、目線を合わせて笑っていた。


 私はその顔を見たことがなかった。


 叱るときにも、指導するときにも、誰かと話すときにも、一度も見たことない。ただ楽しくてたまらないみたいな、そういう笑顔だった。


「もっと腰を入れてみろ」

「こう?」

「そうそう、上手いじゃないか」


 そのやり取りを見て、胸のどこかがすっと冷えた。


 私はあんなふうに教えてもらったことがない。


 父はいつも厳しかった。できないことを叱られたし、泣いたら放っておかれたし、勝っても当たり前みたいな顔をされた。でも、それは私が跡継ぎだからで、期待されているからだと信じてきた。


 なのに今、父は剣道を遊びみたいに、愛情のあるものみたいに弟へ渡していた。


 私は立ち尽くしたまま、部屋に入れなくなった。


 その時、居間の方から義母の声がした。


「ねえ」


 父が顔を上げる気配がした。


「大学からは、あの子をちゃんと独立させてくれるんでしょ?」


 心臓が一回、大きく鳴った。


「……あんなに歳の離れた義理の姉がずっといるのも変だし、何より私、ちょっとあの子が怖くて」


 怖い。


 その一言が、耳に引っかかった。


「だって、女の子なのに剣道ばっかりで、何考えてるのか分からないのよ。家にいても静かだし、いつも道場に籠もってるし……」


 違う、と言いたかった。


 私は家族の邪魔をしたいわけじゃない。父の役に立ちたくて、道場の役に立ちたくて、ちゃんと強くなろうとしてきただけだ。


 私は息を殺して、父の返事を待った。


 否定してくれると思った。さすがにそれは違うと言ってくれると思った。


 でも父が口にしたのは、もっと残酷な言葉だった。


「ああ……この道場を継ぐのはこの子だしな。近いうちに出ていってもらおう」


 優勝旗が手から滑り落ちそうになって、私は慌てて抱え直した。賞状の角が腕に食い込む。

 頭の中が真っ白になった。


 お父さん。


 今日、私、優勝したんだよ。


 扉を開けて、優勝したことを伝えれば何か変わるだろうか、と一瞬考え、すぐにその考えが霧散する。何も変わらない気がしたから。父の言葉は、その場の思いつきのような響きではなかった。ずっと前から決まっていたことを、ただ口にしただけのように聞こえた。


 跡継ぎはお前しかいない。


 あの言葉は、いつまで本気だったのだろう。最初から弟が生まれるまでのつなぎだったのか。それとも、弟が生まれた時点で終わっていたのか。私はいつから要らない子になっていたんだろう。


 視界が揺れた。


 私は音を立てないように家を出た。


 誰にも見つかりたくなかった。優勝旗も賞状も持ったまま、靴紐もちゃんと結ばず、気づけば夜道を走っていた。


 泣いていたかもしれないし、泣いていなかったかもしれない。頬が冷たくて、息が苦しくて、胸の中が空っぽで、でも足だけは止まらなかった。


 私は要らないみたい。それなら、何のために頑張ってきたの?


 女の子なのに、と言われるたびに、悔しくて練習した。父に認めてほしくて、誰よりも勝ちたくて、自分の全部をそこに置いてきた。


 なのに、道場を継ぐのは弟。


 じゃあ私は何だったのだろう。


 母がいなくなった家で、父の期待を支えに立ってきた自分は、一体何だったのだろう。


 あのね、お父さん。

 私、全部平気だったわけじゃないんだよ。

 最初は早起きだって得意じゃなかったし、見下されるのも、痛いのも、ちゃんとつらかった。

 女の子らしく可愛い格好をしている同級生を、少し羨ましいと思ったことだってあった。


 ほんの少しだけ残ってるお母さんとの思い出と、お父さんが私のことを信頼してくれてるはずだっていう願いで、ここまで頑張ってきたんだよ。


 本当はずっと、笑ってほしかった。

 普通の子供みたいに、愛されてみたかった。


 顔を上げると、交差点の赤信号が滲んで見えて、クラクションが鳴った。


 その音に気づいた時はもう遅かった。眩しいライトが迫ってきて、あ、と思った。


 次の瞬間、世界がひっくり返った。


 *


 目を開けた時、最初に見えたのは煤けた天井だった。


 板の隙間がある。そこから細い光が射していて、埃が浮いているのが見えた。体が重い。息をするだけで胸が痛い。喉が焼けるみたいに乾いている。


 私はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


 病院じゃない。救急車の音も消毒の匂いもない。布団は粗くて硬く、掛けられている毛布は少しごわついている。知らない天井、知らない匂い。


 私はゆっくり起き上がろうとして、腕の細さに気づいた。


 日に焼けていて、骨が細く、掌も指も小さい。爪は短く切り揃えられていて、明らかに自分の手ではなかった。


 慌てて布団を跳ねのけようとして、全身に痛みが走った。腹の辺りがずきずきする。足にも力が入らない。どうにか肘で体を支えると、少し離れた場所に欠けた木桶があり、水の入った椀が乗っていた。その脇に、磨きの甘い金属板が立てかけてある。それが鏡の代わりなのだと気づくまで少しかかった。私は這うように近づき、そこに映った顔を見た。


 映っていたのは、知らない少女だった。


 髪は淡い茶色で、ところどころ跳ねている。頬は少しこけていて、唇も乾いている。年齢は八歳か九歳くらいに見えた。鼻筋も目の形も、自分のものではない。


 突然、刺すような頭痛に襲われる。そして、転んだ時の衝撃みたいに、断片的な感覚が流れ込んできた。


 寒さ。高熱。咳。荒い呼吸。泣きそうな女性の声。額に触れる手。誰かが「だめかもしれない」と囁く声。この子は、おそらく死にかけていたのだ。


 ああ、そうか。

 私は死んだのだ。たぶんトラックに轢かれて。


 それで、なぜか、別世界で死にかけていたこの子の体に入っている。何それ、と自分で思ったが、それ以外に解釈しようがない。夢だと思いたかったが、熱や痛みや、毛布の手触りはあまりに生々しかった。


 私はこんな話をどこかで読んだことがある気がした。中学の頃、友達に勧められて、異世界に転生する話を少しだけ。貴族の令嬢がいて、勇者がいて、魔王を倒して、恋愛もして、すごくきらきらした感じの物語だった。


 でもどうやら今の私は、その世界の主人公ではない。見回した部屋は狭く、家具も少なく、どこから見ても平民の家だった。


「……セラ?」


 不意に扉が開いて、私はびくりと肩を震わせた。


 入ってきたのは三十代くらいの女の人だった。エプロンをつけ、髪を後ろでまとめている。目の下に深い隈があったが、その目は、私を見るなり大きく見開かれた。


「ああ、セラ……!」


 駆け寄ってきて、両手で私の頬を包む。手が温かい。


「よかった、本当によかった……」


 その人は泣きそうな声でそう言って、そのまま私を強く抱きしめた。


 私は固まった。


 知らない人だ。なのに、体の奥のどこかがこの人を知っている気もする。母親、という言葉がぼんやり浮かぶ。


「あなた、三日も熱が下がらなくて……お医者様も、あとは神に祈るしかないって……」


 女の人の肩が震えていた。


 私はどう返していいか分からなかった。ごめんなさい、この子はたぶんもういません、なんて言えるはずがない。私はただ、抱きしめられたまま息を止めることしかできなかった。


 やがて別の足音がして、今度は大きな男の人が顔を出した。後ろには年の近い子供が何人もいる。


「本当か?」

「ねーちゃん起きたの!?」

「よかったぁ……!」


 小さな体がいくつも飛びついてきて、私は完全に身動きが取れなくなった。


  後ろで見ていた男の人――たぶん父親は、泣きそうな妻と子供たちの向こうで、目元を赤くしていた。そして不器用そうに笑った。


「戻ってきてくれて、ありがとうな」


 ありがとう、なんて。


 私は何もしていない。ただ死んで、知らない子の体で目を覚ましただけだ。感謝される資格なんてない。なのにこの人たちは、まるで本当にこの子が戻ってきたみたいに、私の生存を喜んでいた。


 罪悪感で息が詰まりそうになった。

 でも、それ以上に、その輪の温かさが眩しかった。


 私が無事でいることをこんなにも喜んでくれている。そんな経験を、私は前世で知らない。


 その日から数日、私はひたすら寝て過ごした。

 熱は下がったが、体力が全く戻らない。医者によればひどい肺の病気だったらしい。もともと痩せていたところに高熱が続いて、ほとんど助からないと思われていたそうだ。しかし奇跡的に峠を越え、あとは回復を待つだけとのことだった。


 私は少しずつ、この家のことを知っていった。


 ここは王都から離れた辺境の小さな領地。父は木工職人で、母は家事のほか近所の洗濯仕事も請け負っている。家は裕福ではないが、極端に困っているわけでもない。兄が二人、私の下に妹と弟が三人いる。私は上から三番目で、名前はセラ。


 最初のうち、私はその名で呼ばれるたびにびくついた。自分じゃない人の名前を勝手に使っている気がして落ち着かなかったからだ。でも誰も疑わない。病み上がりでぼんやりしていると思われたのか、「大丈夫よ、まだ寝てなさい」と優しくされるばかりだった。


 妹のノアは六歳で、私の布団にもぐり込むのが好きだった。弟のリオとマルクは四歳と二歳で、何かあるたび「ねーちゃん」と寄ってくる。兄二人は、十六歳のルークと十四歳のエミル。二人とも日中は父の手伝いや畑仕事をしていて、帰ると私の額に手を当てて熱を確かめた。


「だいぶ顔色よくなったな」

「無理して動くなよ?こないだ死にかけたんだから」


 前世の私は、熱を出しても部屋で一人寝ていることが多かった。父は看病の仕方が分からない人だったし、再婚後は義母に世話をされるのがどこか気まずかった。だから、誰かが当たり前みたいに心配してくれる状況に、なかなか慣れなかった。


 私はこの家で、自分の立ち位置を探した。


 子供は役に立たなくていい、という空気が信じられなかったのだ。


 何かしなければいけない。何かできることを見つけなければ、いつか邪魔者になる。そう思っていた。たとえ口に出さなくても、その恐怖は体に染みついていた。


 熱が下がって回復してきたある日、私はこっそり台所に立とうとした。まもなく母に見つかり、静かに名前を呼ばれた。


「セラ」


 私は肩を跳ねさせて振り返った。声のトーンから、怒られる、と瞬時に思った。


「何してるの」

「……お皿、洗おうかと」

「誰が?」

「わ、私が」


 母は少し黙ったあと、溜め息をついた。でもその顔は怒っていなかった。ただ、困ったように眉を下げただけだった。


「子供が病み上がりで働こうとするんじゃありません」


 私は言い返せなかった。


「でも、何もしないのは……」

「一体さっきから、何を言ってるの」


 母は私の手から皿を取り上げ、代わりに椅子に座らせた。


「あなたがあなたでいてくれるだけで、私たちは幸せなのよ」


 その言葉は、前世の私が一度も聞いたことのない種類のものだった。


 いてくれるだけでいい。


 役に立つからではなく。強いからでも、跡継ぎだからでもなく。ただ存在しているだけでいいと言われた。


 私は返事ができなかった。


 うまく飲み込めず、喉の奥がきゅっと詰まってしまって。


 母はそんな私の頭を軽く撫でると、「それでも何かしたいなら、もう少し元気になってから、リオたちの遊び相手をお願いしようかな」と笑った。


 遊び相手?戸惑いが加速する。親からの期待の質が違うことに、私はその後も何度も戸惑うことになった。


 食事の席でもそうだった。


 パンを落とせば「もったいないわねえ」と笑われるだけで、箸の持ち方みたいに細かく注意されることもない。兄弟喧嘩が始まっても、父は怒鳴るのではなく、まず何があったかを聞く。ノアが泣けば母が抱き上げ、ルークが悪戯をしても父は額を小突くだけだ。


 家の中に、怖さがない。私はそのことに、少しずつ、心にのしかかっていた何かが消えていくのを感じた。


 もちろん、すぐに馴染めたわけではない。


 夜になると前世の記憶が戻った。道場の匂い、父の声、優勝旗の感触、聞いてしまった言葉。思い出すと胸が苦しくなった。


 そんな時、隣の寝台で寝ていたノアが半分眠りながら腕を伸ばしてくることがあった。


「ねーちゃん、こっち」


 寝言みたいな声でそう言って、私の服を掴む。それだけで、涙が出そうになった。


 私はしばらく、自分が誰なのかよく分からなかった。前世の私なのか。この体の持ち主だったセラなのか。もし元のセラが本当に死んでしまったのなら、私はこの家の幸せを盗んでいることになる。そう思うと申し訳なくてたまらなかった。


 でも、どれだけ考えても答えは出なかった。だから私は、せめてこの体とこの家に不誠実ではいたくないと思った。与えられた優しさを無駄にしない。大切にしてくれる人たちを大切にする。それだけは違えないと決めた。


 体調が戻るにつれ、私は家の仕事を少しずつ覚えた。


 薪割りはまだ危ないから駄目。水汲みも桶が重いから一人では駄目。代わりに、野菜の皮を剥いたり、洗濯物を畳んだり、弟たちの相手をしたりした。リオはよく転ぶ子で、膝をすりむいては私のところへ来た。マルクは言葉がまだ拙くて、でも抱きつく力だけは強かった。ノアは何でも私と一緒にやりたがった。


「ねーちゃん、これ読んで」

「ねーちゃん、髪むすんで」

「ねーちゃん、外いこ」


 ちょっと生意気で、でも可愛らしい小さな声が、私を頼って発せられることが嬉しかった。


 前世の私は、役に立たなければ意味がないと思っていた。でもここでは、頼られることが義務ではなく、ただの生活の一部としてある。ノアの髪を結ぶことと、道場を継ぐことの重さは全然違うのに、今の方が感謝される回数が多い。その感覚は新鮮だった。


 数年が経ち、私はこの世界について少しは詳しくなった。

 王国には騎士団があること。領主ごとに兵がいて、王都にはもっと大きな部隊があること。森には魔獣が棲み、人里近くまで下りてくることもあること。魔族という、人間を襲う恐ろしい存在がいること。


 子供向けのおとぎ話みたいに聞こえる部分もあったが、街の大人たちの顔は真剣だった。


 春先、隣村との間の道で羊が何頭か食い荒らされた。夏には森に入った薬草採りの若者が一人戻らなかった。秋の終わりには、領兵が森の入口をしばらく封鎖した。


 この辺りはまだましな方だと父は言った。もっと北では、魔獣の被害で畑を捨てた村もあるらしい。


 私はその話を聞くたび、落ち着かない気持ちになった。怖いからではない。もちろん怖くないわけではないが、それ以上に、大切な人たちが脅かされることが許せなかった。


 前世で私は、守りたいと思える人はいなかった。父は監督者であり、常に私の上に立つ人だった。今の家族は違う。大切な彼らを、私は守りたい。大切な家族が理不尽な何かに傷つけられるかもしれないと思うと、思わず血の気が引く。


 冬のある日、私はノアとリオを連れて家の近くの水場まで行った。


 母に頼まれた洗い物を届ける途中で、ノアが道端の白い花を見つけて立ち止まった。雪の前の短い時期だけ咲く、小さな野花だった。


「きれい」


 ノアがしゃがみこみ、リオも隣で真似をする。


 私は二人を見守りながら、少し先の林に視線をやった。


 何か、気配がしたのだ。


 前世にはなかった感覚だった。視線というより、肌にざらりと触れるような違和感。風が止まったみたいに空気が張る。


「ノア、リオ、こっち来て」


 緊張のせいか、自分でも驚くくらい低い声が出た。二人がきょとんとする。


 数秒間の沈黙の後、林の陰から犬ほどの大きさの獣が飛び出してきた。


 狼に似ていたが、口が裂けるように大きく、目が赤い。魔獣だ、と頭のどこかで理解した。


 ノアが悲鳴を上げる。


 私は二人を庇って前に出た。手にあったのは洗い物の入った籠だけだ。武器になるものなんて何もない。でも体は勝手に動いた。


 魔獣が飛びかかってくる。私は横にずれて籠を叩きつけた。籠は壊れ、皿が割れたが、その隙にノアとリオを背後へ押しやる。噛みつこうとした口に近くの枝を突っ込むと、一瞬魔獣が嗚咽しながら後ずさる。


「走って!」


 二人が泣きながら駆け出すのが見えて、一旦安堵したが、一息つく暇はない。


 私は手の中の枝を握り直した。前世の剣道とは全然違う。間合いも、得物の長さも、相手の動きも違う。でも。それでも。

 低く構え、跳ねるように動いた魔獣の頭を、枝の太い部分で横殴りに打つ。鈍い音がした。怯んだ隙に距離を取り、次に来たところで喉元を思い切り突いた。


 握っていた枝が、真っ二つに折れた。

 ああ、もうダメかもーー。


 その時、ちょうど背後から怒号が飛んだ。


「セラ!」


 ルークだった。鍬を持って駆けてきた彼が、魔獣の横腹に一撃を入れる。続けて父も斧を持って現れ、獣は悲鳴を上げて林へ逃げていった。


 私はその場で膝をついた。


 体が震えていた。遅れて恐怖が来たのだと思う。ノアとリオが泣きながら抱きついてきて、父は珍しく顔色を変えて私の元に駆けつけた。


「怪我はないか」

「ううん……」


 そう答えたら、父は何も言わず私を抱きしめた。その力が思ったより強くて、なんだかぼうっとしてしまった。


 家に帰ると大騒ぎになった。母は青ざめ、ノアとリオは泣き止まない。エミルは「お前ほんと無茶なやつだな」と半分怒りながら、お皿が割れた時についた切り傷を消毒してくれた。


 私は謝ろうとしたが、母に遮られた。


「二人を守ってくれたんでしょう」


 そう言って、お茶のカップを出してくれる手がふるえている。


「ありがとう」


 また、ありがとうと言われた。


 どうしてこの家の人たちは、私が何かするとまず感謝するのだろう。前世では、足りないことばかり指摘されてきた。だから私は、何かをしてもそれが当然だと思っていた。


 でもここでは、守れたことを喜ばれる。無事でいたことを喜ばれる。無茶をしたら心配される。そのことが、なんだか、わからなかった。


 夜。父が珍しく私の寝台のそばに座った。


 弟たちはもう寝ていて、部屋は静かだった。


「魔獣に遭遇した時、三人で逃げようとは思わなかったか」


 父が聞いた。


 私は少し考えてから、首を振った。


「……少しも考えつかなかった。あそこで止めないと、家族みんなや、町の人も危なくなるかもしれないって、そう思って」

「……そうか」


 父はしばらく黙っていた。


「お前は立派だ。俺はお前のことを、心から尊敬するよ」


 私は目を見開いた。


 立派。尊敬。


 前世では、父からそんな言葉をかけられることはあり得なかった。


「お前はいつか、人を守る人になれると思う」

「お父さん……」

「でも」


 そこで一拍置いて、父はまた口を開いた。


「今はまだ子供だ。頼むから一人で背負おうとしないでくれ」


 切実なその言葉に、私は何も言えなかった。

 そこにあるのは疑いようもないほどの大きな愛情で、そんなものを向けられたら、どうしていいのかわからない。


 父はそんな私の顔を見て、少しだけ困ったように笑った。


「セラ。お前は家族を守りたかったと言ったな」


「……はい」


「家族みんなも、お前のことを守りたいと思ってるんだ」


 不意に涙がこぼれた。泣くつもりなんてなかったのに、前世の父の前では絶対に見せなかった涙が、どうしてか止まらなかった。


 父は慌てたように私の頭を撫でた。撫で方はひどく不器用で、子犬を相手にしているみたいだった。その様子がおかしくて、今度は笑いながら泣いた。


 あの時、県大会の優勝を報告したかった自分。父が庇ってくれるのを待っていた自分。家から飛び出して、何もかも終わらせたいと思った自分。そういうものが、ようやくほどけていく気がした。


 この家の父は、前世の父ではない。


 当たり前のことなのに、この数年間、私はずっと心のどこかで比べていたのだと思う。


 でも、この人はこの人で、私を道場の跡継ぎとしてではなく、娘として見ている。私が役に立つことなんかではなく、生きていることを願ってくれている。そのことが、ようやく腑に落ちた。


 ある日、領都から騎士が来た。


 馬に乗り、銀色の甲冑を身につけた男たちだった。子供たちは皆、目を輝かせて後を追った。私もその中に混ざった。


 領主の命令で、近隣の森の警戒を強めるらしい。最近、魔獣の動きが妙だと。


 騎士の一人が、子供の群れに向かって笑った。


「森には近づくなよ。俺たちが退治してやるからな」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。こういうふうに言える人になりたい。


 ただ強いだけじゃない。守る側として立ち、人を安心させられる人。理不尽な脅威があるなら、それに剣を向けられる人。

 私がかつで歩んでいた剣の道も、あんなふうに人を守るため、安心させるために使えるようになるだろうか。

 確かに父の言うとおり、今は家族が守ってくれるかもしれない。本来はそうあるべき、というのもわかってきた。でも、他の誰でもない私自身が望むことを考えた時に、やっぱり「彼らを守れるようになりたい」という気持ちが一番に浮かぶ。絶対に失いたくない、大切な人たちだから。

 家に帰ってからも、ずっとそのことを考えていた。


 私は夕食のあと、家族が揃っている前で言った。


「私、騎士になりたい」


 食卓が静かになった。


 ノアが口をぽかんと開け、リオはよく分からないまま私を見る。ルークが最初に吹き出した。

「いきなりでかいこと言うなあ」

「騎士?メイドとかじゃなくて?」とエミルが続ける。


 母は驚いた顔をしたが、笑いはしなかった。父は腕を組んで私を見た。


「どうしてそう思った」


 私は少し息を吸った。


「家族を守りたいから」


 言ってみると、思った以上にすんなり出た。


「この世界には魔獣がいて、絶対に誰か守る人が必要でしょ?私は、その誰かになりたい。……ううん、何よりもまず、家族みんなのことを守れるくらい強くなりたいの」


 私はこの家が好きだ。母の作る薄いスープも、父の大きな手も、兄たちの雑な優しさも、ノアたちの騒がしさも。ここで生きていきたい。この人たちが笑っていられるようにしたい。そのために剣を振るいたい。ただそれだけだった。


 父はしばらく黙っていた。無理だと笑われるかもしれないと思った。平民の女が騎士なんて、前世の感覚で言っても難しい。実際、この世界でも現実的ではないだろう。


 でも父の言葉は、予想と少し違った。


「簡単じゃないぞ」

「はい」

「女だからと馬鹿にされることもある」

「はい」

「平民ならなおさらだ」

「わかってる。それでも」


 父は私を見た。目を逸らさずに見返す。


 やがて父は、静かに頷いた。


「分かった」


 母が「あなた」と小さく声を上げる。


 父は母の方を向き、それからまた私に視線を戻した。


「なりたいものがあるなら、目指せばいい。ただし、途中で投げるな。自分で決めたなら最後まで食らいつけ」


 その言葉は厳しいのに、前世の父のものとは全然違った。試すためでも、縛るためでもない。私が選んだ道を、自分の足で歩けと言っている。


「……はい!」


 私は大きく頷いた。


 母は少し心配そうにしながらも、「怪我だけは本当に気をつけてね」と言った。ルークは「じゃあまず俺に勝ってからな」と笑い、エミルは「騎士様になっても俺らのこと忘れるなよ〜?」といたずらっぽく肩をすくめた。ノアは「ねーちゃん、おひめさまじゃなくてきしになるの?」と真剣な顔で聞いてきたので、私は笑って「うん、そうなの」と答えた。


 夜、寝台に入ってからも胸が高鳴っていた。


 私は天井を見上げた。転移してから毎日見てきた、隙間のある木の天井だ。風の日には少し鳴り、冬は冷えて、夏は暑い。それでも、大好きな家の天井。ここで目を覚ましてよかったと、改めて強く思った。


 前世の私は、認められたくて剣を握っていた。でも今度は違う。私は守りたいから剣を取る。大切なひとに胸を張って、剣を持つ騎士になる。


 その夜、私は夢を見た。久しぶりに前世の夢。黒と白の幕で囲われた一室の中で、中央にはかつての私の写真が飾られている。あの日、私が道端に放り出してしまった賞状と優勝旗も立てかけてある。

 その前に、前世の父が立っていた。なんだか肩を落としているようで、現実味がない。現実味がないのは夢だから当然かもしれないけどーーそれは、夢にしてはリアルな空気感だった。


 「すまない」


 ぽつりと呟く父の声は、人生で聞いた中で一番頼りなくて、情けなかった。声をかけようと思った瞬間、目がさめる。

 ただの夢だったのか、前世に繋がったのか、本当のところはわからない。でも、なんだかすっと胸が軽くなっているのを感じた。


 私は立ち上がった。

 ふと寝台の横の小さなテーブルを見ると、できたばかりであろう木剣が置いてあった。添えてあるメモには、「怪我すんなよ ルークとエミルより」と書かれてある。昨日はあんなにからかっていた兄たちだが、一晩で仕上げてくれたのだ。私はたまらない気持ちで剣を構えてみた。ああ、ぴったりと手に馴染む。


 朝の支度を一通り終えたら、剣の稽古だ。父は仕事に行き、母はパンを焼き、ノアたちは騒いで走り回り、兄たちはおちゃらけて絡んでくるだろう。その当たり前の暮らしを守れるくらい強くなるまで、私は何度でも立ち上がる。


 私は騎士になると決めたから。


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