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濡れた乗客

 雨の日の通勤電車は、心底うんざりする。

 車内にこもった湿気のせいで漂う生臭さと、人の体温で立ち上る体臭。それらが混ざりあったむっとするような臭い。

 すし詰めではないものの、そこそこ混んでいるせいで、身動きもままならない。


 イヤホンを耳に差し音楽を流しながら、女はなんとなく乗客を見回していた。

 濡れた傘、濡れた靴、濡れた肩口。誰も彼も、雨のせいで体のどこかしらが濡れていた。

 雨である以上、仕方がないことだけど。それでも服が濡れた人の隣には立ちたくはない。

 体のどこかが濡れている。それ自体は珍しいことではないはずなのに、その中に一人だけ、妙な男がいた。


 その男は、体の一部どころではなく、全身がびしょ濡れだったのだ。

 髪から水が滴り落ちていてもおかしくないほどに濡れそぼり、ワイシャツも肌に張り付いている。

 うつむきがちなせいで、その顔はまったくわからない。


「うわ……」


 女は、無意識にそう呟いてしまった。

 ただでさえ人の多い電車内。なのに、その男の周りにはぽかりとスペースが開いている。

 そりゃそうだ。誰だって、ずぶ濡れの誰かの側に立ちたくない。

 すし詰めではないものの、人の多い電車内。はっきり言って迷惑だ。

 電車に乗るなとは言わないが、他の乗客のことも考えてほしいと、一人頭の中で文句を言う。


 一度男から視線をそらし、ほかの乗客に目を向ける。

 しかし、いつもの帰りの電車内。ずぶ濡れの男以上に気になる存在などいるはずもない。

 ただ電車に揺られているだけなのも退屈で、女はついあの男へと視線を戻した。


 そこでふと、女は不思議なことに気が付いた。

 男は遠目から見てわかるくらいに濡れている。そのはずなのに、男の周囲の床は濡れていないのだ。


(どうして?)


 確かめるように、じっと彼の足元を見つめる。

 濡れたシャツがべったりと肌に張り付き、ズボンも絞れそうなくらいなのに、電車の床は乾いたままだ。


(……濡れてない?いや、濡れてる。間違いなく。)


 わけがわからない。

 濡れているように見えるだけで、本当は濡れていないのだろうか、とも考えた。

 でも、濡れていないのであれば周囲の乗客があの男の周りを避ける意味も分からない。


 女はもっとよく観察しようと試みたが、ちょうどその時。電車内にアナウンスが流れ、女の降りる駅についた。

 扉が開くと、とたんに人波が動き出す。

 女はその流れに押されるように出口へ向かい、ふと振り返ったときには、あの男の姿は人垣に隠れもう見えなかった。



―――――



 次の日も、あいにくの雨。

 女は、いつもの通勤電車に乗りながら、昨日の男のことをふと思い出す。

 女と同じ時間の電車に乗っていたということは、あの男も通勤途中の可能性が高い。

 それならば、今日も同じ電車に乗り合わせるかもしれない。

 女は、昨日からずっと気になっていた。あの濡れそぼった男の正体が。

 だから、もしあの男が今日も同じ電車に乗っていたら、もう少し近くでしっかり見てやろうと思ったのだ。


 女の前にいつもの電車が到着し、それに乗り込む。

 いつも女が乗り込む扉からではなく、昨日男が立っていた場所に一番近い扉からだ。

 電車に乗り込んですぐ、昨日のあの男を見つけた。

 昨日と同じく、滴り落ちそうなほどに濡れた姿とは裏腹に、周囲に水滴を落としていない。

 後ろを向いていて顔を確認できないので、男の隣にさりげなく並び立つ。

 ばれないように、ゆっくり、男の顔を覗き込む。



―――――



 ある男は、その日大学への通学電車で、びしょ濡れの男女を見た。


 どちらも、まるで雨に打たれた直後のような格好で、ぴたりと張りついた服、重たそうな髪、青白い肌。控えめに言っても、あまり関わり合いになりたくない風貌だ。

 その男女を避けるように、二人の周りはぽかりと空間ができていた。

 電車が動き出し、男は不審な二人から視線をそらせてスマホをいじりだす。


 湿った空気の中で、濡れた二人は何も言わず、ただじっと立っていた。

 誰も、その二人を気にも留めないまま。

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