這い出るもの
特にバイトも他の用事もない平日。大学の講義が教授都合で突然休みになり、完全なオフに男は暇を持て余していた。
ふと空を見上げると、あいにくのくもり。じめっとした高温多湿の日本の夏は、それだけで何もかものやる気を奪う。
出かける気がおこらない。
しかたがないので暇そうな友人数人にあたってみたら、ちょうど一人。同じく暇を持て余している友人がいたので、コンビニで酒を買い込み昼間から男の家で酒盛りすることとなった。
まぁ、大学生などそんなものだ。
いったいどういう流れでその話になったのか。
最初はお互い取っている講義について話していたのがサークルやバイトでの人間関係についての話に変わっていき、気づけばお互いの嫌いなものの話になっていた。
酔っていることもあり、はじめは嫌いな人への愚痴で盛り上がっていたのだが、内容はどんどん自らが抱える『恐怖』に焦点を絞っていく。
「あー、俺あれなんだよね。集合体恐怖症。蓮コラとかああいうのマジで無理。ぞわぞわしねぇ?」
男の言葉に友人は妙に神妙な面持ちで頷いたかと思うと、言いにくそうにもごもごしてから、意を決したように口を開いた。
「俺、雨の日が怖いんだ」
思ってもいなかった内容に、男はきょとりと目を見開いた。
それこそ一年の三分の一は雨の日だ。
それが怖いだなんて、変わっている。と、いうか。生き辛そう。
「雨の日怖ぇってやばない?なんかきっかけあんの?」
ちらりと窓から見える空は、曇天。天気は先ほどよりも悪化して、今にも降り出してきそうだ。
しかし友人はそれに気づいてはいないようだ。
まるで自身を守る様に、膝を抱えて重い口を開く。
「だってさ……ナメクジとか、ウジとか、ミミズとか……ああいうのが這い出てくるんだ」
「……いや、それって地面とか、花壇のあたりだけじゃね?見なきゃよくね?」
なんだ。雨自体が怖いのかと思ったら、雨の日に出てくる虫が怖いのか。
安堵半分でそう返すと、友人は妙に真剣な顔で、ぽつりとつぶやいた。
「あいつらは……這い出るんだよ」
「は?」
要領を得ない友人からの返答に男は困惑した。
そして、普段の友人からは想像できないくらいに低く、感情を無理やり抑え込んだかのような平坦な声にゾッとする。
そもそも、這い出ようが何だろうが、その這い出る場所を避ければいいという話をしているのに。
その返答が「這い出る」というのはどういうことだ。
友人は、そんな男の様子などもはや見えていないとでもいうように、震える体を抱きしめながら、少し上ずった声で小さく叫んだ。
「あ、雨水で、あいつらは這い出てくるんだ……ッ。どこからでも!」
あまりにも真に迫った友人の様子に気圧される。
男は思わず地面の中から無数の虫たちがうぞうぞと這い出てくる様子を想像し、気分が悪くなった。
その想像を振り払うように、わざと明るく声をあげる。
しかし、陽気さとは程遠い、乾いた笑いしか出てこない。
「い、いや!それはさすがにお前が過敏すぎなだけだろ!」
男が友人の肩を強く叩く。
けれど、友人は笑うどころか、逆に、一層思いつめたような顔で黙り込んでしまった
やってしまった。
友人が震えながら自身の恐怖を打ち明けたのに、茶化すような真似をしてしまった。
なんとかその空気を変えたくて、男は視線をふっと窓の外へ向けた。
「あー……その、今日はうちに泊まってくか?もう少しで降りそうだろ、雨」
男の言葉に、友人はびくりと体を震わせてから慌てて窓の外を見る。
そこには、朝よりも確実に重たい雨雲が広がっていた。
それを視界にとらえた友人は「ヒッ!」と小さく悲鳴を上げる。
そして、半ば急き立てられるように立ち上がると、そのまま男の家から逃げ出したのだ。
友人が男の家を飛び出したほんの数分後。
黒い雨雲から、ついにポツリポツリと降り出した雨つぶは、すぐに地上を塗りつぶした。
その日降り出した雨は、結局翌日も降り続けた。
男は大学で講義を受けながら、窓の外の土砂降りを心配そうな面持ちで眺めた。
男は昨日から、雨の日が怖いと言った友人が無事に帰ることができたのだろうかと心配していた。
男と友人の家の距離を思えば、途中で降られていてもおかしくないからだ。
昨夜から幾度となく送ったメッセージに返事はなく。雨の日だからか、講義にも顔を出さない。
―――あいつらは……這い出るんだよ。
友人の低くゾッとする声を思い出し、男は慌ててかぶりを振った。
そうだ。昨日、あんな状況で帰してしまったから気にかかるだけ。
今日はもう他に取っている講義はない。この後、あいつの家に様子を見に行こう。
男はそう決意をし、講義の終了を知らせるベルの音と共に立ち上がった。
――――
結局、その日男は友人に会うことはできなかった。
家まで行ったのだが、チャイムを鳴らしても出てこなかったのだ。
しかし、その数日後。男は予期していなかった方向から友人の様子を知ることとなる。
一週間ほど経ったある日、警察が男の家を訪ねてこう言った。
「あなたのご友人が、自宅で亡くなられた状態で発見されました。ご遺体が非常に”特異”な状態で見つかりまして。何か心当たりはありませんか?」
寝耳に水のことで驚き、首を横に振ることしかできない男に、警察はただ一言。「そうですか」とだけ口にする。
それはまるで、はじめからわかっていたかのような口ぶりだった。
「あの……。友人は、そんなに変な死に方したんですか」
まだ自体が飲み込めておらず、呆然とそう問うた男に、警察は渋い顔をしてこくりと一つうなずいた。
「ご友人は、全身の皮膚に無数の穴が空いた状態で発見されました」
―――這い出るんだよ。
友人の低い声が脳裏によぎる。
いや、まさか。そんなこと、あり得るわけがない。
きっと偶然の一致だ。そのはずだ。
しかし、男の脳裏には、無数のミミズやナメクジが友人の体を食い破って這い出る映像が浮かぶ。
「あ……の。葬式とか、そういうの、わかったりしませんか……」
「……残念ながら、近しい親族がいらっしゃらないようでしたので。無縁仏として埋葬されるとのことです」
――――
友人の死からしばらく。その日はパラパラと小雨が降っていた。
男がアパートから出ると、ちょうど吹いた風によって雨が廊下部分に吹き込んできた。
濡れた腕を手で払い、家の扉に鍵をかける。
若干の違和感を腕と手のひらに覚えた男は、何気なく自身の腕に目を落とす。
ぷくりと膨らむ血管の横。薄い皮膚の下で、わずかに何かが蠢めいた。
耳の奥で、死んだ友人の低いあの声が聞こえた気がした。
―――這い出るんだよ。