引きずる音
女が男の妻となって、今年で二十五年だ。
もうあと数年もすれば、人生の半分を夫の”妻”として生きたことになる。
二人の子どもにも恵まれ、最近では下の息子にせがまれペットとして犬を飼い始めた。
目立つ趣味も特技もないが、それでも幸せな日々を送っている。
その日も、いつものように仕事に向かう夫を見送ると、いつまでも眠る息子たちを叩き起こしてから学校へと送り出す。
ありがたいことに夫の収入だけで生活は送れているので、女は専業主婦として家事をする。
曇天の中、雨が降る前に犬を散歩に連れていく。
帰宅するなりお気に入りのスポットへ向かった犬を横目に、朝食の洗い物を済ませ、部屋中に掃除機をかけていく。
何が面白いのか、その家の犬は毎日窓から庭を見る。
掃除機の電源を入れると、掃除機特有の騒音が鳴り響いた。
しかし、そんなものは屁でもないのだろう。犬は不快そうに耳を震わせるだけで、今日も庭の監視員に徹している。
この犬種はみんなこうなのだろうか。それともうちだけ?
そんなことを考えながら、椅子をどけダイニングテーブルの下や埃の溜まりやすい部屋の隅まで、念入りに掃除機を走らせていく。
犬を飼い始めてからと言うもの、一日で抜け毛が部屋中あちこちに散らばるので、入念に。
うるさい掃除機をかけ終えると、家事の間中つけっぱなしにしているテレビが、どこかポップでおどろおどろしい音を奏で始めた。
どうやら、お昼のバラエティ番組が夏のホラー特集を放送しているらしかった。
掃除機を仕舞うと、夕飯の下ごしらえを進めながらテレビの中のアナウンサーの声に耳を傾ける。
――動物は霊に敏感だというのは有名な話ですが、雨の日だけはいつもと違う行動を見せることがあります。
――吠えたり騒いだりはせず、まるで“音”を聞いているかのように、じっと外を見つめることがあるのです。
――そんな時は、決して窓の外を見てはいけません。
そんな、どこかで聞いたような怖い話を語るアナウンサーに、タレントたちがわざとらしく「こわ~い」などと口にする。
料理をしていた女はそれにクスリと笑い、少し声を張って今も庭を眺めているであろう犬へと声をかけた。
「聞いた?監視員さん、今日のお庭はどうかしら?異常はなぁい?」
もちろん返事などあるはずもない。
しかし、こうやってテレビの内容について犬に語り掛けるのは、女にとっては日常の一コマでもあった。
夫も子供たちもいないと、日中家が静かすぎて落ち着かないのよね。
下の息子の提案で飼い始めた犬だけど、案外一番飼ってよかったと思っているのは自分かもしれないわ。
女は、そんなことを頭に思い浮かべ、また一人小さく笑った。
雨が降り出したのは、そのすぐ後のことだった。
キッチンの勝手口から外で地面を打つ雨音が聞こえてきたのだ。
女は、朝はまだ雲がなかったから洗濯物をベランダに干してしまっていたことを思いだし、慌ててエプロンを外し始めた。
「ママ、ちょっと洗濯物取りこんでくるね」
いつものように犬に一言声をかけると、犬は顔は窓の方を向いたまま、聞いているとでも言いたげに耳を少し震わせた。
二階の寝室からベランダに出ると、降り始めたばかりの雨音はより近く、より強くなっていた。
幸いルーフがあるのでギリギリ雨には晒されてはいなかったが、これがもう少し遅ければ洗濯しなおさなければいけなくなっていただろう。
まだ少しも乾いていないタオルやシャツを取り込んでいると、外から何かを引きずるような音がした。
ずるっ……ずるっ……どしゃっ……。
それは、誰かが何か重い物を引きずっているような。そんな音だった。
女は手を止め、首をかしげる。
こんな雨の中引っ越しかしら。
女の家の斜め前には学生向けのアパートがあるため、引っ越し自体は珍しくはない。
学生ならば特に、引っ越し代を浮かすためにも業者には頼まず、友人知人に頼んで自分で引っ越しをするケースも少なくはない。
この音もマットレスや冷蔵庫など、重い家電をなんとか運んでいるのだろう。
きっとそうに違いないのに、女の頭にはなぜか手足の足りない人間が体を引きずる映像が浮かんでしまう。
ずち……ずっ……ぐちゃ……
あぁ、倒れて頭が地面にぶつかったのね。
そんな馬鹿げたことを思い浮かべた女は、自身の想像力の豊かさに思わずその場で吹き出した。
いくらあんなテレビ番組を見たからって、影響されすぎじゃないかしら。
大方、水を吸ったマットかクッションかを地面に落としてしまったのね。
それにしても、せっかくの引っ越しがこんな雨の中だなんて災難だわ。
何か手伝えることはあるかしら?
結婚するまでは近所同士の付き合いの強い昔ながらの下町に住んでいた女は、「今の時代、お節介かしら?」と思いつつ。それでも同じ年頃の子供を持つ親としてどうしても気になりそわそわしてしまう。
音を聞く限り、人手が足りてなさそうなのも相まって、このままでは濡れ鼠になるのではという心配がよぎるのだ。
ひとまず、洗濯ものをすべて室内に放り投げ。
苦労して何かを運んでいる人に声をかけるため、女はベランダの手すりに近づくと、身を乗り出すようにして下を覗き見た。
―――
夕方、帰宅した子供たちは、いつもなら真っ先に今日はどうだったかと話を聞きに母親がいないことに首をかしげた。
家の中を軽く探すも、どこにも見当たらない。
しかし、たまに抜けているところのある母のことだ。何か買いにでかけているのだろうと軽く考えていた。
だが、あたりが暗くなり、父親が帰宅する時間になっても母は姿を現さなかった。
キッチンには夕飯の食材が中途半端に放置され、二階の寝室にはまだじっとりと湿った洗濯物が無造作に積み重なっていた。
そして、床には部屋の半ばまで泥のついた何かを引きずったような跡が残っていた。
ベランダに続く窓は開いたままで、そこには乱れた片側だけのスリッパと、部屋の中よりもひどい泥汚れがこびりついていた。
妻を心配した夫の手によりすぐさま警察に通報したが、近隣を含めて捜索を行っても彼女の行方は依然としてわからないまま。
ベランダになかったもう片方のスリッパは、こちらもべっとりと泥に濡れた状態で室内の棚の下から見つかった。
以上のことから、警察は事件の線で捜査を進めるとのことだった。
しかし、結局夫は二十五年連れ添った妻を永遠に失ったのだ。
あの日以降、その家で犬が窓の前に居座ることはなくなったそうだ。
それは、まるでもう見る必要がないとでも言いたげだった。