借りた傘
学校からの帰り道。まだ幼さが残る顔立ちの青年は、今にも落ちてきそうな灰色の空を見上げ、ぽつりと降り出した雨にため息をつく。
今朝、散々母に「今日は雨が降るから傘を持っていけ」と言われていたのに。
面倒がって聞き流してしまった自分が恨めしい。
最悪なことに、今カバンには親の印鑑が必要な進路相談の用紙が入っていた。
濡れて破れでもしたら、また担任に用紙をもらいに行かなければならない。
そうなれば、「受験生の自覚が足りない」などと説教されることになる。
そんな面倒はごめんだ。できれば雨の中帰ることは避けたい。
そんな願いとは裏腹に、雨脚はどんどん強くなる。
数分前、「これくらいなら土砂降りにはならないだろう」と軽く考え、道中にあったコンビニを通り過ぎたのが悔やまれる。
家からも最寄りのコンビニからも、中途半端に距離がある。
しかし、これ以上雨の中を走れば、カバンの中のプリントは確実に水浸しになるだろう。
すでに水を吸い込み重くなった通学カバンを抱え、青年は舌打ちをする。
これから雨脚が落ち着くことに一縷の望みを託し、雨宿りできる場所を探すため、近くのシャッター街へと進路を変える。
青年が物心つく頃には、すでに複合スーパーの出現によりそのほとんどが閉店した商店街。
青年は広めの軒先がある店の一つへと逃げ込むと、雨が滴る服の裾を絞りながら、カバンの中のプリントの無事を確かめた。
幸い、紙はくしゃくしゃにならないよう分厚い資料集に挟んでいたため、まだ無事だった。
普段から書類を守るファイルの一つも持ち歩いていなかった自分を恨みつつ、顔についた雫を濡れた袖で拭う。
しかし、肝心の資料集もカバンに染みた水を吸って端の方がふやけている。
これではプリントが濡れるのも時間の問題だろう。
「最悪……」
青年はそう独りごちた。
「傘、貸してさしあげましょうか?」
突如かけられた落ち着いた女の声に、青年の体がびくりと跳ねる。
いつの間にか目の前に見知らぬ女が立っていた。
女がさした傘に雨があたり、ぱたぱたと軽快な音が鳴る。
家族でも学校のクラスメイトでもない。大学生くらいだろうか、見知らぬ女性に話しかけられ、青年は少しばかりたじろいだ。
どうやら雨音のせいで、女の接近に気づかなかったらしい。
少しどぎまぎしながら女の手を見ると、確かにそこにはもう一本別の傘が握られていた。
「助かりますけど……これ、いいやつですよね?返せないかもしれないですよ」
ぱっと見ただけでもコンビニのビニール傘などではないことがわかる。
しっかりとした木の持ち手には傷一つなく、磨かれた家具のようにぴかぴかだ。
それに物怖じしながらそう言うと、女はただにこりと笑みを作った。
「あぁ。かえってこなくても構わないの」
それは青年にとってはありがたい申し出だった。
何せ、返すとなればいつどこで返すのか。なんなら、これほど立派なものを借りたとなれば、母親に問いただされること必須だ。
そして、やれお礼の品を買えだのなんだの、口うるさく指示されることは目に見えている。
返す必要がないのであれば、それこそ駅かコンビニにでも適当に置いておけば誰かしらが持ち去ってくれるだろう。
しかし、この女性はなんのメリットがあってこんな親切をするのだろうか。
青年が女の意図が読めず訝しげな表情を浮かべると、女はおかしそうに笑った。
「要らないなら無理にとは言わないわ」
確かに疑問に思う点はいくらでもある。
しかし、青年にはその日見たい番組があったし、何より提出物のプリントを濡らして母に怒られ、また教師にもらいに行き説教を受けるのは嫌だった。
「……じゃあ、借ります。ありがとうございます」
女から傘を受け取ると、思ったよりもずしりと重みがあった。
やはり、お高い傘は材質からして違うらしい。
青年はその傘をひとまず地面に寝かせると、改めてプリントを分厚い資料集の中心にしっかりと挟み込み、カバンの中でも比較的無事なところを探そうと整理し始めた。
「でも、決して見上げて傘の中を見てはだめよ」
「は?それってどういう……」
女の不思議な言葉に青年が顔をあげると、すでにそこに女はいない。
慌てて周囲を見渡すも、姿はなく。青年は、すぐ隣の細い路地にでも入ったのだろうと当たりをつけた。
理由は皆目見当がつかないが、青年は一応女に言われた通り、傘をさすとその中が見えないように俯きがちに家路を歩いた。
足元ばかり見ていると、意識も足に集中する。
すでに浸るほどに濡れた靴の中が気持ち悪い。
意識をそらそうと、傘にぶつかる雨音に耳を傾けていると、不意に後ろから何かが聞こえた気がして足を止めた。
パッと振り向くが、そこには雨で煙る静かないつもの登校路が続いているだけで、特段変わったものは見当たらない。
気のせいか?と首を傾げ、再び前を向いた時。今度は先ほどよりもはっきりと、”声”が聞こえた。
勢いよく後ろを向くも、やはりそこには何もない。心臓がバクバクと嫌な音を立てている。
先ほどの”音”は、明らかに”人の声”だった。
左右くまなく視線を向けるが、やはり人ひとり見当たらない。
ざあざあと降りしきる雨の音の中。再度、先の声より近く鮮明に、「おい」と自分を呼ぶ低い男の声が聞こえた。
傘を打つ雨音よりも近い距離。内側に反響するようなその声は、自身のすぐ後ろ、それも少し上から聞こえてきた。
そこには何もないはずだった。
いや、正確には先ほど女に借りた”傘”以外、何もない。
―――決して見上げちゃだめよ。
一瞬女の言葉が脳裏をよぎった。
得体のしれない恐怖に体が固まる。
とんでもないものを借りてしまったかもしれない。
しかし、そんな感情とは裏腹に、心にふとした疑問が芽生えた。
この傘の内側には、いったい何があるのだろうか。
そんな危険な好奇心が首をもたげた。
ざあざあと降りしきる音だけが辺りに響く。
いっそ、先ほどの声はただの幻聴ではないだろうかと思えるほどの静寂だ。
だが、それを否定するように青年の耳元に妙に生ぬるい吐息がかかる。
直感的に、頭上の何かが笑ったのだと青年は確信した。
少し。ほんの少しだけ。ちらっと視界の端に見るだけだから。
青年は、誰に言い訳をするでもなく、そっと目だけを動かして、借りた傘の内側を見た。
その日、青年は忽然と姿を消した。
警察と家族の必死の捜索もむなしく、青年が見つかることはなかった。
――――
その日、パートを終えた主婦は従業員出入り口でため息をついた。
カバンに入れたと思っていた折り畳み傘が見当たらないのだ。
すでに降り出している雨は強く、到底傘なしでは進めない。
幸い、家までは歩いて二十分ほどだ。濡れることさえ厭わなければ、帰れないほどの距離ではない。
覚悟を決め、カバンの中を探していた視線をあげると、目の前に高校生くらいの青年が傘をさして立っていた。
青年は、手に携えた立派な傘を主婦に差し出しながら口を開いた。
「傘、お貸ししましょうか」