第一章 最終話
ING 第一章 最終話
あれから潤悟は近藤にネームを何度も持ち込んだ。持ち込むたびにここがダメ、そこがダメと、ダメ出しを受けた。
「——良くはなったが、ここのシーンに矛盾が出る。」
「……わかった。直してくっから、待っててくれ!」
「おい、藤田。俺に見せなくていいから、お前はもう原稿に移ったらどうだ? もうあと一ヶ月しかないだろ。」
潤悟は目にクマを浮かべながら、砂嵐が巻き起こる脳内に手をかざし、なんとか言葉を掴み取った。
「いや、読んだ人間全員が納得するような話しを描きたいんだ。それに、前に進んでねぇ訳じゃねぇ。ネームがなんとか終わっても、無理に俺に協力する必要はねぇから。こんなに協力してもらってっし——うおっ」
「藤田っ」
潤悟は連続の徹夜で意識を失いそうになった。倒れようとする潤悟を、近藤はがっしりと体を支えて、倒れるのを止めた。
「あ、ああ……悪りぃな、近藤。」
「……。」
近藤は無言で潤悟を立ち上がらせる。潤悟は足取りが上手く掴めないまま、教室に戻る。
「今日もありがとな。バイトで部活には参加できねぇけど、明日も持ってくっから。」
潤悟は近藤と別れ、教室に戻り鞄を持った。バイト先のコンビニまで、眠気を覚ますのを兼ねて、走り出した。
コンビニに着いてからは、コンビニの制服に着替え、レジを打ち、商品棚に商品を補充し、コピー機の使い方をお年寄りに教える。そうこうしているうちに4時間が経過し、今日の勤務を終わらせて、潤悟はコンビニを出た。
「おつかれ様ーっす……。」
視界はグラグラと歪み、手足は感覚を引きずり落としながら痺れ、胸が脈打つに伴って、吐き気もしてきた。体力の限界はすぐそこに来ていた。
(うわ、やっべぇ……。)
玲央は意識を失いそうになった。容赦ないほど硬いアスファルトに顔から倒れそうになった。
「藤田っ!!」
バイトに行く前にも、こんな風に支えてもらったな。潤悟は人の温かさに触れた。潤悟に触れていたのはまたしても近藤だった。彼は今度は逆に潤悟と一緒にそこに座り込み、潤悟を横にした。幸いにも駐車場の一番端っこの方だったため、車がぶつかって来ることはなさそうだった。
「少し待ってろ。」
近藤はコンビニの中へ入っていき、スポーツドリンクと栄養補助ゼリーを購入して、潤悟の元に戻ってきた。
「飲め。」
潤悟のペースでスポーツドリンクとゼリーを飲ませてゆく。しばらくして、潤悟の顔に血色が戻ってきた。
「近藤、悪いな。ここまでしてもらってよ。でも、なんでここに?」
「お前がバイトを終わらせるのを待ってたんだ。ネームも協力してやるから、家に帰ってとっとと取り掛かるぞ。」
「あん? ああ?」
潤悟は理解できなかった。わざわざバイトが終わるまで自分を待つ意味も、家に来てまでネームに協力する姿勢も。自分の何が近藤の心を打ったのか。
「急にどうしたんだ?」
「もう見てられん。俺は漫画に正直だ。つまらんものはつまらんと思うし、面白いものは面白いと思う。しかし、俺は人間にも正直でな。嫌いな奴もいれば、気に入った奴もいる。俺は嘘をついてしまうと、何かに不平等な行いをした気がして、自分を許せなくなるんだ。」
「どーゆー事だよ。」
近藤は少し恥ずかしそうだった。スポーツドリンクのペットボトルをコンコンと膝に叩きつけていた。
「お前は確かにペナルティを背負っているかもしれない。でも、そんな状況下で努力し続けるお前を見て、助けないという選択をしてしまえば、自分の『正直』に嘘をついてしまうと思った。」
「んじゃあ、俺のことが気に入ったから、助けるってゆう事を本当の事にしたかった訳だ。」
「……っ 黙れ。」
近藤は顔を赤くした。目も合わせるのが恥ずかしくなったのか、レジ袋にペットボトルとゼリーの容器を入れて、袋の口を結ぶ。その動作は焦っているのかぎこちなかった。
「ハハッ。あんがとな!!」
「……フンっ」
こうして二人は、潤悟の家に帰って眠っている隆弥を起こさぬよう、ポソポソと喋りながらネームを描いていった。
紙に直線を引いて、引いて、引いて、その枠の中でキャラクターに息を吹き込み、人格が乗っ取られた人間を倒したり、政府の闇を暴いたり、巨大なロボットを破壊したりした。
物語を紡いでいる時間は楽しい。しかし、ここにはその感情を共有する人間がいる。白いものに色を落とすと、何者にも染まっていく。純白な心と心が重なりあった時、深くとも鎮む事のない浄心へと生まれ変わる。
無我の境地に入ったのだ。潤悟と近藤は心一つにそう思った。
夜が明ける頃にネームは完成した。近藤がチェックを欠かさず行ったのもあって、潤悟も近藤もこれは会心の出来だと感じた。
腹が減った二人は、冷蔵庫に何もないのを確認し、ファミレスに行って朝食を食べ、そのまま学校へと向かった。学校で笹井と山内に見せたあとは、泥のように潤悟と近藤は眠った。
そして、締切までちょうど残り一ヶ月となった頃、漫画研究部の部員たちの最も熱い夏休みが始まった。四人は二階堂を通して、学校に寝泊まりの許可を取り、来る日も来る日もペンを走らせた。近藤も原稿作業に積極的に参加し、原稿は出来上がっていった。
そして、8月30日——
「……できた!! できたぞ!!」
「よっしゃーーー!!」
『ミッドナイト』は無事完成した。部員たちは疲れなど忘れて大喜びした。
「みんなッ ありがとな!! ほんとーにありがとな!!」
「良かったっす! 先輩!」
「フッ……よし、郵便局に持って行くぞ。善は急げだ。」
原稿を封筒に入れ、部員を代表して近藤が潤悟に原稿を渡す。
「おう。行ってくる!」
郵便局は平和公園から400メートルほど離れた場所にあり、ちょうど路面電車の停留所の近くにある。そこを目指して、潤悟は走り出した。
しばらく走っていると、郵便局が見えてきた。しかし潤悟の目についたのはもっと大事な別のものだった。
「ったく、ちゃんとしてくれないと困るよ!!」
「す、すいません!」
配送トラックの横で、二人の男が話していた。話していると言うより、男が一方的に配達員を怒鳴っていた。どうやら荷物の届ける時間に問題があったらしい。
「再配達なんだから、僕がいるって分かってるんだから! もっと早く来てくれよ! おかげでデートの時間に間に合わないじゃないか!」
「すいません……っ!」
怒鳴られている配達員こそが、隆弥であった。側から内容を聞くだけでも、到底納得できないようなやり取りだが、隆弥はぐっと堪えて、必死に謝っていた。隆弥の手は角度によっては見えないが、ズボンをギュッと握りしめ、怒りをズボンの皺へと変換しているようだった。
潤悟はそれでも手を差し伸べたりする訳じゃなかった。兄弟間で必要な困難は二人で乗り越えたが、個人の問題に対しては各々を信じて何もしないでいるのが藤田兄弟だ。
(兄ちゃん……絶対に受賞してみせっから!)
隆弥の配送トラックの横をバレないように通り過ぎて、潤悟は郵便局へと入っていった。
「普通郵便の定形外で、お願いします。」
× × × × ×
12月の寒空の下、今日も業務を全うして、俺は家路に着く。潤悟はもう家に帰ってっかな。
今日も何件もの配送を終わらせて体がクタクタだった。ベッドのフレームを三つも運んだのは流石にきつかった。けど、生きるための痛みなんだ。腱鞘炎も、肩腰の痛みも、至る所にある筋肉痛も、全てが金に換わる。その金で、俺と潤悟は飯を食って寝ることができる。
でも、潤悟には言いづらかった。土木の時と同じぐらい、心身にダメージが来ていることを。働くことはできるが、シフトを減らして休まないと、限界が来てしまう。潤悟のバイトの量にも限りがあるだろうし、どうすればいいものか。
街は前から匂っていたクリスマスムードに侵食されてしまって、至る所にカップルが跋扈していた。そうか、今日はクリスマスか。恋人がいない俺には関係ないけど。
ふと、真横にあるアパレルショップに目が奪われた。厳密にはショップの中にあるチェスターコートがとても輝いて見えた。暖色混じりのライトの光がそう錯覚させているのかもしれないが、とても買う金なんかない。潤悟は気にしない風だが、同級生はコートを着ているのに、あいつだけがコートを着れずにいる。別に禁じられている訳じゃないのに。ただ金が無いだけなのに。ただ、ただ……!
「クソッ……!!」
自分を責めても仕方がない。俺はとっとと家で寝てりゃいいんだ。そう思って家に帰った。
「ただいま。」
ボロボロのアパートの一室に入ろうとする。木製のドアの下の部分は表面が剥がれてしまっている。しかしそんなことは気にせず、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けた。
「「「おかえりー!!!」」」
六畳一間の空間に、潤悟の他、三人の学生が足を崩して座っていた。一人は見たことがある。笹井だ。小学生の頃よく遊んだっけ。
「おお? なんだぁ?」
「ほら、兄ちゃん、早くこっち来て座って!」
俺は潤悟に言われるがままに、外国人風のイケメンと、ぐるぐるメガネの男の子の間に、潤悟と対面になるように座った。机の上にはケーキと人数分のチキンが置かれており、何かの間違いなんじゃないかと思った。
「な、なあこれって……」
「兄ちゃんに、発表したいことがあるんだ。」
そう言って潤悟は漫画雑誌を取り出した。少年ピーク。潤悟がいつも漫画を投稿している雑誌だ。
「月例賞には最近投稿してないよな。どうしたんだよ。」
「ここ見て。」
新人漫画賞結果発表と、大々的に書かれてあるページだった。そこの1ページ目に、見慣れた絵が掲載してあった。
「入選・『ミッドナイト』・藤田潤悟……お、お前——」
「俺からの、クリスマスプレゼントだよ。」
涙が溢れた。体の痛みがすっかり無くなったような、アパレルショップに飾ってあったコートの暖かさも超越するような。
生まれてきて一番の、暖かいクリスマスになった。
× × × × ×
「そんな事もあったなぁ。懐かしいな。」
月夜を見ながら、しっぽりと日本酒を今日は嗜んでいた。あの後は漫画研究部の皆んなとケーキやチキンを食べ、賞金で生活費を賄いながら、潤悟には担当編集がついた。まだまだ試練はあったが、それでも楽しくやっていたと思う。
「俺は……あの子を許せないんだろうか。」
どんな困難があっても、俺には光があればよかった。夜の帷が落ちていても、ただ一点に、俺を照らしてくれる一筋の、月の光。
月の光とは、例えば——