第一章 第七話
ING 第一章 第七話
夕日は山の中へと滑り込むように傾いていった。病院に向かう潤悟の目には眩しく、それでいて小さな灯火にも見えた。消えかかっていて、どこにも行ってほしくない光。
隆弥だけは、失いたくなかった。自分の生活費が供給できなくなるとか、そうゆう問題じゃない。唯一と言っていいほど、そして育ての親を亡くすことがどれだけ悲しく、虚しいことか。生きている事を願いつつ、潤悟は病院の中へ入り、とめどなく溢れてくる汗にも負けないほど早口で受付に問いかける。
「藤田隆弥は!?」
受付の女性スタッフはその言い方に圧倒され、つい声を抑えながら答えた。
「あっ……六階の607号室です。」
聞いた瞬間、耳に情報が届いた瞬間、潤悟は走り出した。病室にいるというのなら、まだ死んではいない。だが、どんな具合かもわからない。早く確かめて安心したかった。隆弥が重傷を負っている可能性ならかなぐり捨てた。信じたくなかった。
「コラッ! 廊下を走るんじゃない!!」
すれ違った医者に怒鳴られたが、潤悟は聞こえてなかった。エレベーターを一瞬だけ視界に収めた。しかし、九階から降ってくるのに時間がかかると踏んだ潤悟は、咄嗟の判断で階段から行くことにした。
普段の体育の授業でも、こんなに足を使う事は滅多に無い。あるとしても学校の外周を走るぐらいだ。筋繊維がちぎれてゆくのを感じていない。潤悟はそれどころではなかった。
六階になんとか上がることができ、607号室がどこにあるかわからぬまま、院内を駆け回る。しかし、走りすぎてペースは大幅に落ちていた。やっと探し出した607号室はナースステーションのすぐそばにあった。
ドアは閉められていて、息切れして今にも倒れこみたいほど消耗した潤悟は、ハァハァと吸って吐いてを深く繰り返しながら、ドアをノックする。
「どうぞ。」
確かに隆弥の声がした。口調も苦しんだりしているわけじゃなく、いつも通りの優しい口調だと、潤悟は安堵した。スライドドアを何も言わずに開けて、潤悟は部屋に入った。
隆弥はベッドの上で横になっていた。左足には包帯が巻かれ、そこ以外には、特に目立つ怪我はしていないようだった。
「おう、潤悟か。悪いな。怪我しちまった。」
「兄ちゃん……よかった、生きてた。」
「流石にくたばったりはしねぇよ。今回は足だけで済んだ。」
潤悟はそれでも気が休まらなかった。
「ホントのホントに大丈夫なん!? そこ以外ぶつけたりしてねぇよな? 大体何が……」
色々と聞きたいことがあるのだろう。潤悟は息切れをさらに加速させるぐらいの速さで舌を滑らせた。
「まぁまぁ、大丈夫だって。他にはぶつけてねぇから。高いところから落ちたけど、左足で済んでよかった。」
「そ……そう……だったんか。」
「潤悟、息上がりすぎてねぇか?」
そう言って、隆弥はベッドのすぐ横にある給水ポットから水を紙コップに注ぎ、潤悟に渡した。潤悟は喉が渇いていたからか一気に飲み干した。
「っ……はぁ。ありがと。」
潤悟は紙コップをゴミ箱に捨てた。隆弥は窓の外を見ている。視線の先には茜色の空が広がっていて、カラスが庭を駆け回る犬のように空を飛び回っている。
「潤悟……兄ちゃん、仕事を辞めて——新しい仕事を探そうと思う。」
隆弥はなぜ目を合わせないのか。潤悟は少し雑に巻かれた包帯や、夕空の一点を黒く塗りつぶすカラスなんかどうでもよかった。でも、隆弥が決めたことに、潤悟は別に反論する気も決めたことをないものにしようとするつもりは一切無かった。
「土木作業はかなり危険だって前から思ってたけど……今回で身に染みた。」
「そっか……なら、俺もバイト始めるよ。」
「なっ……! 違う、お前を困らせたくて言ったんじゃないんだ。」
隆弥は否定したくて、つい体を立ち上がらせようと体を動かしてしまった。
「うっ!」
「兄ちゃん!」
鈍い痛みが、隆弥の左足を襲う。潤悟は隆弥を元の位置に戻そうと近づいたが、隆弥は手のひらを潤悟に向けて、「大丈夫」とだけ言った。
「んと……俺も、兄ちゃんを困らせたくて言ったんじゃないんだ。逆に、兄ちゃんに今まで甘えすぎてた。バイトしながらでも、漫画も学校もやってけるはずだよ!だから兄ちゃんも、今はゆっくりしてなよ。」
「潤悟……いや、ダメだ。二週間で退院できるみたいだから、退院したらすぐに仕事を探す。」
「兄ちゃん……」
お互いを思いやるからこそ……。無償の優しさは、高すぎるプライドでは決して飲み込めない。自分に価値があるとばかり考えすぎると、それに見合った価値あるものしかフィルターを通さなくなってしまう。
この兄弟は『自分』ではなく、『相手』の存在している『ありがたみ』を認めているからこそ、相手の意見も、自分の意見も尊重できる。
気づけばカラスはどこかへ去っていってしまった。空は遠くから、二人の尊い愛情を見守っていた。
× × × × ×
「んえぇ!? 少年ピークの新人漫画賞に応募するってぇ!?」
「先輩、パッパと決めすぎじゃないです……!?」
漫画研究部の部室で、潤悟は啖呵を切った。少年ピークの新人漫画賞は二ヶ月後の9月。入選なら賞金は200万円で、準入選なら100万円だった。少年ピークの新人漫画賞は少年漫画雑誌の中でも特に競争率が激しい。潤悟は少年ピークの雑誌から、そのページだけを切り抜いて皆に見せた。
「藤田、バイトしながらでも描けるのか?」
問題はそこだった。潤悟は最終手段として、学校を完全にボイコットして描こうとしたが、隆弥がせっかく学費を払ってくれているため、その選択肢は無いものとした。
「そこなんだ……だから皆に集まってもらったんだ。頼むッ!! 文化祭の準備もあるだろうけど、この漫画を描くことに協力してくれねぇか!? 俺一人じゃ、期限までに間に合いそうにねぇんだ!」
潤悟は頭を下げた。山内は頭を下げないでと身振り手振りで訴え、笹井は頭を抱えた。近藤はただ頭を下げる潤悟を見つめている。
「どうしても、兄ちゃんを安心させたいんだ!! 俺、再来年には卒業だし……好き勝手できる時間は、今しかねぇと思うから……だからっ!」
部室はもっと鎮まりかえった。しかし、最初に声を出したのは笹井だった。
「俺は協力するぜ。隆弥さんには小さい頃から遊んでもらったし。俺の文化祭用の原稿、一番進んでるしな。ちなみにあと3ページで終わり。」
「笹井……」
山内も口を開いた。
「僕も協力しますよ! 背景なら任せてほしいっす! 僕は逆に一番進んでないけど……家でも原稿描くって、なんか漫画家みたいじゃないっすか?」
山内はポジティブに捉え、そう言いながら笑った。
「いいのか、山内? けっこう大変だけど……」
「大変なのは潤悟先輩っすよ! 僕なら大丈夫なんで、パッパとやりましょうよ、パッパと!」
そこに雷を落とすように、近藤が口を挟んだ。
「ふむ。だが潤悟、ネームはできているのか? 内容次第では断るが。俺たちは勉強や部活の時間もあるんだ。その時間を使って本当に描くほどの価値があるのか、見させてもらいたい。」
空気がピリついたのを近藤以外の三人は感じた。それを壊すように、潤悟は明るくネームを取り出した。それは『ミッドナイト』のネームだった。
「これっ! 昨日まで徹夜して描いたんだ。見てみてくれ!」
潤悟は近藤にネームを渡す。近藤はかなりの速度でネームを読み込んでゆく。
「……どうだ?」
潤悟以外の三人はネームを一通り読んだ。笹井はこのネームには納得しているようで頷き、山内も「これならいけるっす!」とつい声に出していた。近藤は——
「——物足りんな。入賞はできるだろうが、せいぜい佳作がいいところだろう。」
「近藤先輩、そんな言い方……」
近藤は黙って潤悟にネームを突き返した。
「俺は今日、塾があるから。これで。」
近藤は部室を後にしようとした。潤悟は皆が面白がらなければ、入賞はできないだろうとタカを括っていた。それでも近藤がネームを気に入らない理由が知りたかった。
「近藤! 教えてくれ。他にどこがダメなのか。」
近藤は振り返って言った。
「ストーリーはいい。画力も他の新人よりはズバ抜けてるだろう。設定は少し古いがな。しかしキャラがダメだ。ストーリーに引っ張られすぎていて、キャラを見失っている。」
近藤はそのまま立ち去ろうとした。
「キャラって、んなん近藤の好みじゃんよ!」
「そうだ。だからお前ら三人で描くといい。俺は納得できないから描かん。それだけだ。」
そう言い残して、ドアを閉めた。
「んだよ、近藤のやつ。潤悟、気にしなくていいからな。」
「いや、近藤も良い奴だよ。俺はあいつが納得するまで、ネーム切り続ける。」
山内は下から覗き込むように、潤悟を見上げる。
「本気っすか!? でも確かに、近藤さんの言ったことも間違いじゃないかも。」
「だろ? あいつの漫画見る目は本物だよ。二人とも、悪りぃけど少し待っててくれ。クオリティを維持しつつ、キャラも磨いてくっから。」
「潤悟……」
潤悟はなにか忘れていると思い、ふと時計を見た。時間は16時45分。
「やべぇ、バイト行かなきゃ! じゃあ二人とも、自分の原稿も頑張れよ! んじゃ!」
潤悟も急いで部室を出た。少年ピークの切り抜かれたページが、寂しそうに部室に残った。