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ING  作者: 松原聖羅
高校生編
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第一章 第六話

ING 第一章 第六話

 

 まぶすように雨は地に降り注いでゆく。授業が終わって、ボロボロのアパートへと走って帰ってゆく。今日は漫画研究部の部員たちはそれぞれ用事があるので、今日の部活は休みになった。

 

 途中、画材屋に寄ってスクリーントーンを買おうか悩んだが、金がないので潔く諦めた。

 金があったとしても、兄の負担は増やしたくないと、当時まだ高校生だった潤悟はまた走り出した。

 

 潤悟はアパートに無事到着した。アパートには六つの部屋があり、それぞれが薄い壁で仕切られている。階段は今にも朽ちて崩れそうなほど錆びており、辺りには何に使うかわからないようなベニヤ板がいくつも放置してある。

 

 「ただいまーって、俺しかいねえけど。」

 

 潤悟は玄関で靴を脱いで、六畳一間の部屋の隅に直行する。部屋は畳張りで、壁は少し叩けば隣に音が響くぐらいに薄い。天井には光の強弱さえもコントロールできない、少し大きめの電球が垂らされてある。キッチンは潤悟がいつも丁寧に手入れをしているからか、あまり汚くない。この部屋の唯一の自慢ポイントだと、潤悟の兄・隆弥は笑っていた。

 

 部屋の隅に鎮座している『みかん』と側面に書かれた段ボールの箱がある。潤悟はその箱の上で早速、漫画を描いた。

 描いてはまた消して、描いてはまた消して。小学校3年生から漫画を描き始めて、今は高校2年生。ずっと描き続けてきて、自信を持って漫画賞に投稿してもあと一歩のところで賞は他の誰かに掻っ攫われる。潤悟の賞レースはいつもそんな具合だった。

 

 「なんか……なんか違うんだよな。キャラが不自然な感じ。ストーリーに引っ張られてんのかなぁ。」

 

 潤悟が今描いているのはネームと呼ばれるものである。漫画の下書きの、さらに下書き。漫画の設計図と呼ぶ人が多い。これを最初に描いて、良くないところを更に修正。仕上がったと思ったなら、そこでようやくネームを元に、原稿に入るという流れがスタンダードである。

 

 急に原稿から入って、そこから矛盾点やミスが起きてしまっても、ネームで予めその部分を潰しておけば、余計な手戻りが無くて済む。——ただし、いきなり原稿から入る作家もいないわけではない。——

 

 「うーん、やっぱプロットから見直した方がいいんかなぁ。」

 

 潤悟は鞄から『プロット』と表紙に書いてあるノートを取り出した。今日の授業中に考えた新しいストーリーだったが、綺麗に終わるにはどうしてもページが増えてしまう。潤悟は仕方なくこの話しは一旦無かったことにし、もう一つ考えていたバトルものの漫画を描こうとした。

 

 「えっと、なになに。」

 

 タイトルは『ミッドナイト』。

 

 人口爆発により犯罪係数が大幅に上昇してしまった世界に、とあるマッドサイエンティストが作り上げた『フォルトゥーナ』と呼ばれる装置で、フォルトゥーナの中にある膨大な人工人格と、犯罪を犯した人物の人格を入れ替えることによって、政府は世界を平和にしようとしたのだが、その人工人格は改造されてしまっていて、とても凶暴な人工人格へと変貌してしまっていた。

 無実の人々はその人工人格に殺され、元の犯罪者達の人格は、地下にある肉人形に宿らされ、強制労働を強いられていた。

 主人公達はそんな政府に逆らって、フォルトゥーナを破壊しに行くが……という内容だった。

 

 「ひでぇ……なんて連中だ……。」

 

 潤悟の癖の一つに、『感情移入しすぎる』ところがある。そこが後の漫画を描く時にキャラクターの魅力を発揮できるものなのだが、潤悟はまだ自覚すらしていない。

 そうこうしているうちに、部屋に足音が近づいてくる。潤悟は気づいていないが、足音の主は疲れた様子でゆっくりドアを開ける。

 

 「はぁ、ただいま。」

 「あっ! 兄ちゃんおかえり!」

 

 兄の隆弥だった。帰ってきたのは。隆弥は「おう」と言って、部屋の真ん中で大の字に寝そべった。

 

 「ちょこっとだけ須和すわに会いにいってた。あいつ、新しいキューを買ってやがった……」

 「へぇー。須和さん元気だった?」

 「ああ。もうピンピンしてたぜ。」

 

 潤悟はペンを止めて、隆弥の方に体を向けた。

 

 「今日も疲れたよな。後で銭湯行こうぜ。」 

 「そーだな。」

 

 隆弥はみかんの段ボール箱を見た。かつては艶があって、綺麗なオレンジ色をした、新鮮なみかんが詰まっていた。しかし今は見えない夢と希望が詰まった箱に変貌を遂げている。決して空虚なものではないはずだ。

 

 「漫画はどうだ? 面白いのは描けてるか?」

 

 潤悟は斜めに頭を捻った。

 

 「うーん……面白いものはできたんだけど、話しが長くなりそうなんだよなぁ。」

 「ああ、ページの規定があるんだっけか。」

 「そう。60ページ。」

 

 ふーん。と隆弥は頷いた。漫画の事はよくわからないが、弟である潤悟の夢が叶おうが叶うまいが、生きててくれるだけで、楽しくいてくれるだけでよかった。今こうして全力で生きる潤悟を見て、隆弥はもっと頑張ろうという気持ちになった。

 

 「まぁ、後で考えればいいだろ。やっぱ今から銭湯行っちまうか。その後スーパーで飯買って帰ろうぜ。」

 「おう!」

 

 雨が降っていても構わない。お互いにお互いがいてくれれば、この兄弟は幸せを享受できる。兄のために頑張れる弟と、弟のために頑張れる兄。共依存だけでは得られぬ、もっと特別な何かが、兄弟の間で育まれていた。

 

 アパートを出て、二人は銭湯に向けて歩きだす。水溜まりを踏んで、水が跳ねる。水は足にべったりとかかって、水面には何も残らない。それでも、底にある泥には確かに、深い足跡が残っていた。

 

 × × × × ×

 

 漫画研究部の部室は図書室のすぐ隣にあり、他の文化系の部の部室と比べるとわりかし狭いものだが、漫画を描いたり、部員達のお気に入りの漫画を置いたりする分には全く苦労はしなかった。

 

 「んなぁ、なんで潤悟は漫画家になりたいんだ?」

 

 茶髪でショートカットに髪を切っている漫画研究部の部員、笹井が聞いてきた。笹井の茶髪は地毛であるらしく、入学そうそう担任から怒鳴られるという洗礼を受けたが、笹井は特に気にする事なく受け流し、後になって笹井の母が担任をどうにかこうにか説得して、彼は校内で唯一茶髪でもかまわないと受け入れられている。

 

 「え? どう説明すりゃいいんだろ。」

 「笹井さん、確かに気になるけど早くベタ塗り終わらせてくださいよ。パッパと終わらせましょう。そう! パッパとね!」

 「んあぁ、うるせーよ山内。今やってるってば。」

 

 山内は潤悟達の一個下の後輩であり、漫画研究部の中では背景を描くのが一番上手い。ボサボサの長い髪に、ぐるぐると渦を巻いたような、レンズの厚いメガネを掛けている。

 

 「山内、集中線が少しずれているぞ。もう一度やり方を教えるから、少し顔を貸せ。」

 「え、申し訳ないっす! パッパと行くんで、少し待っててください。」

 「焦ってインク瓶を倒すなよ。」

 

 山内に色々教えようとしているのは近藤。フランス人の祖父を持つクォーターで、目が説明も上手くできないほど青く、スラリと伸びた脚に、着痩せしやすいが、意外とがっしりした体を持っている。父が医者だが特に家業を継がせる気は無く、近藤の夢である、漫画編集者の道を素直に応援している。

 

 今潤悟たちが描いているのは文化祭で販売する予定の一次創作同人誌であり、まだ三ヶ月はあるのだが、一人一作品描かなきゃいけないため、潤悟達も急ぎ目で描いている。去年は文化祭まで残り20日のところで描き終えた。

 

 「んほら、俺ら別のクラスじゃん? 部活の時ぐらいしか潤悟と話せねぇからさ。」

 「そうか……まあ、俺がいた証ってのを、残したいからかな。」

 「んあ? 証? んなもんいくらでも残せるじゃんよ。」

 

 潤悟は少し考えて、顎に指をあてた。今まで当たり前すぎて認識できなかったものを、脳内から舌へと、必死に手繰り寄せた。

 

 「俺たち兄弟の事は、笹井も知ってんだろ。そんな俺たちはさ、ハッキリいって、いろんなペナルティを背負って生きてるんだと思う。そんな俺の過去を、俺の好きな漫画を通して肯定したいのかな。だから漫画家になりたいんだと思う。」

 「んじゃあ一人で描いて満足しないわけ?」

 「……俺さ、実は漫画家さんとか、小説家さんが、どんな生き方でどーゆーのを描いてるのかがすげえ気になんの。」

 

 急に話しが逸れたと思って、笹井はぶっきらぼうに口を開く。

 

 「んはあ?」

 「そこでさ、身体的なハンデを背負いながら執筆を続ける小説家さんがいたんだよ。その人、過去に嫌な目で見られたり、いじめられたり、体の事で色々できない事があったりで、相当苦労したって聞いて、それ聞いてメチャ感動しちゃってさ。ああ、夢だった小説家になれたんだって。」 

 「……それで?」

 

 潤悟はペンを止めて、笹井の目をしっかり見つめる。インクで汚れた手をかざしながら、潤悟は答えた。

 

 「だからさ、俺たちの過去を漫画で通して知ってもらって、『俺たちはこうやって生きてきたけど、それでも夢は叶うんだ』って事を、俺やキャラクターを通して伝えて、元気をあげたいんだ。——誰かの背中を押してあげたいんだ。その人が俺の漫画で頑張れたら、俺もすげぇ幸せな気持ちになれんだ。なんかそう思うんだよ。」

 「んへぇ……。立派じゃんよ。」

 「そうか? あんがとな!」

 

 そう話して、二人は山内や近藤と同じように作業に戻ろうとした。その時、部室のドアを思い切り開けて、人が焦って入ってきた。

 

 「藤田! 藤田いるかっ!?」

 「二階堂せんせー? どうしたっすか?」

 

 入ってきたのは漫画研究部の顧問である二階堂だった。彼はただごとならぬ声で、潤悟に衝撃の事実を伝える。

 

 「お前の兄さんが仕事中の事故に遭ったって! とにかく病院に行ってこい!!」

 「……嘘だろ?」

 

 インク塗れの手から、ペンが落ちていった。

 

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