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ING  作者: 松原聖羅
高校生編
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第一章 第四話

ING 第一章 第四話

 

 ドキュメンタリーの取材が終わってから数日が経った日の土曜日。春は過ぎ去り、梅雨にさしかかり、いよいよ夏本番が近づいてきていた。

 

 この日は午前中授業だけであり、駿輝は部活があるので玲央は先に家に帰った。玲央はインタビューの後に、斎藤から原稿を見せてもらって、潤悟の兄、藤田隆弥に謝罪することを決めた。しかし、まだ母にはそれを伝えておらず、雨が降りきって、霧が朧げに出ている道を歩いて帰った。

 

 × × × × ×

 

 「ただいま。」

 

 家に着いて玄関で靴を脱ぎ、玲央は明日の日曜日に、隆弥のもとを訪ねることを母に伝えにリビングへ行った。

 

 「あら……おかえり。」

 「……ただいま。」

 

 二度目の挨拶だったが、母は気づいていなかった。たった一言、”明日、潤悟さんのお兄さんに謝りに行く”と言えばいいのに、なぜかうまく切り出せずにいた。

 

 言ってしまえば、なんでわざわざ。どうせ相手にされない。と、玲央は否定されるのが怖いのだ。いっそ言わずに行こうか。玲央は階段を上がって自分の部屋に戻りたい気持ちでいっぱいだった。

 

 (——話す理由もないし、この事は別に言わないでおこう。)

 

 階段を一段上がった。隠し事を作って、これからそれを貫き通すのは厳しいが、母に言ったところでプラスにはならない。どうせ知る事は無理なのだからと玲央は階段を上がって、自分の部屋に入ってドアを閉めた。

 

 「いいんだ。これで……無いとは思うけど、止められたりしたら嫌だし。」

 

 ドアに寄りかかるように崩れ落ち、そう独りごちると、階段を一段ずつ上がってくる足音が聞こえた。琴乃はまだ帰ってきていないし、父は単身赴任。どう考えても母だった。

 

 足音が玲央の部屋の前で止まる。玲央は隠し事をしているのもあって、緊張せずにはいられなかった。

 

 

 「——明日、謝りに行くんでしょ?」

 

 

 頭の中が真っ白になった。いや、真っ白な灰が心を埋めていき、玲央の心をも灰に変えてしまった。母がなぜこの事を知っているのかわからない。裏切る事によって、信頼も心もボロボロに崩れ落ちてゆきそうだった。

 

 「あちらさんに持ってくお菓子、買ってあるから持っていきなさい。」

 

 そう言って母は階段を降りていった。勝手に被害妄想に走って、裏切って、隠して。どう接すればいいかなど論外だ。一連の誠意を見せる事が謝罪ならば、隠し事をするような人間が誠意を見せることができるなどあり得ない。玲央は爪をたてて、自分の顔を強く抑えつけた。霧にこだまするように、雨は徐々に、強く降ってきた。

 

 × × × × ×

 

 隆弥の家の住所は、斎藤に聞いて一通り把握している。街の繁華街を抜けた先にある坂の脇道を通って出られる住宅街。そこに隆弥の家がある。

 

 前に行ったアパートには住んでおらず、玲央は母から貰ったお菓子を持って、隆弥の家の近くまでバスに揺られていた。空には雲一つなく、カーテンすらないバスの車内に容赦なく降りそそぐ。

 

 『次は、権方坂ごんほうざか〜。権方坂ごんほうざか〜。』

 

 マイクを通して、バスの運転手が次の目的地を案内する。玲央は菓子折りを持って、バスを降りる準備をした。

 

 2分後にバスは上り坂にあるコンビニ、その近くにあるバス停に停車した。玲央はICカードをリーダーにかざした。ピピッと読み込んだ音が聞こえ、運転手は”はい、どうも。”と一言だけ言って、玲央が降りたタイミングでドアを閉めた。

 

 バスの低いエキゾーストノートが唸り、上り坂をグイグイと登ってゆく。バスがきつめのカーブを曲がったら、とうとうその姿は見えなくなった。

 

 「……行くか。」

 

 車が2台すれ違えるかわからないほどの狭さの道を歩いて、住宅街に出た。斎藤から聞いていた情報を頼りに、玲央は道を進んでゆく。

 

 「あった……。」

 

 斎藤から聞いていた通りの家が、そこにはあった。レンガ模様で、二階建て。それから黄色の二人乗り軽自動車に、もう一台は型落ちの白いミニバン。それらを雨から守る色褪せたカーポートに、直塗装じかとそうした白い扉。ここで間違いなかった。

 

 意外と玲央の呼吸は荒れていなかった。しかし、手足の震えがおさまらなかった。怒鳴られたり、多少の暴力は受けても仕方ないという気でいたが、玲央が一番気にしているのは、謝罪を完全に受け入れられないかもしれないというところにあった。

 

 「僕は、どこまでも自己中心的だな。」

 

 人の心をほだす時こそ、自分の事が可愛く思えるのが人間だろう。自分に魅力があると思い込んで、相手の心を掴もうとするのだから。

 

 玲央は恐る恐る家に近づいてゆく。菓子折りの袋が振り子のように揺さぶられる。その時だった。

 

 「じゃあ、またねー!」

 

 後ろから声がした。感覚的に、声のベクトルが自分以外に向けられているのは察知できたが、いかんせんかなり近い距離で放たれた声だったので、ビクッと背中が硬直してしまった。

 

 「うん? どうかされましたか?」

 

 玲央が振り返ると、中学生ぐらいの男の子が立っていた。柔らかい雰囲気の少年で、優しそうな目つきに、目元の黒子が印象的で色白な少年だった。少年が手を振っていたのはガールフレンドらしき女の子で、少年は隆弥の家の中へ入ろうとしていたところだった。

 

 「えっと……藤田隆弥さんは……」

 「お父さん? 今日は居ると思いますよ。呼んできましょうか?」

 「えっ あっ……」

 

 ここで断る事もできるが、そうするとまた家を訪ねるのが気まずくなってしまう。玲央はまだ覚悟ができていなかったが、ゆっくりと頷いた。

 

 「わかりました。待っててくださいね。」 

 

 少年は家の中に入っていき、数秒後に『おとうさーん』と呼ぶ声が中から聞こえ、それからまた時間が経つと、家の中から足音が聞こえた。足音は母が階段を上がってくる時とは違い、若干の警戒さを醸し出しながら近づいてくる。

 

 「はい。」

 

 中年の男性が出てきた。玲央はアパートで出会った男性と同一人物だと一目でわかった。少し皺が増えた顔に、相変わらずのスポーツ刈りにかなりガタイが良いのも変わらなかった。

 

 「えっと……藤田隆弥さんですか?」

 

 男性は特に臆する事なく、正直に「そうです。」と答えた。

 

 「僕……霧島玲央って言います。」

 

 隆弥の目つきが鋭くなったのを、玲央は見逃さなかった。

 

 「玲央……くん。ああ、久しぶりだね。」

 「えっと、お久しぶりです……。」

 

 久しぶりと言っても、玲央は隆弥の事を正直あまり覚えていない。あの時母とどんな会話をして、あれから自分の気持ちにどう決着をつけたのか——玲央は隆弥そっちのけで考えてみたかった。3秒ほど経って、先に隆弥の方から話題を切り出した。

 

 「どうしたのかな。もう14年になるけど、突然訪ねて来たもんだからビックリしたよ。」

 「ああ、すいません……」

 

 玲央は挙動不審な様子で頭を下げた。隆弥はいやいや、と軽く手を振った。そうだ、目的を果たさなければ。玲央はハッキリ謝ろうと覚悟を固めた。

 

 「僕、この前ドキュメンタリーの取材を受けて。そこで自分の本音に気づいて。それでも、斎藤さんは何があるかで自分を見てって。僕には償う心と、その根底には犯した罪があります。取材を通して、もう一度、改めて、ハッキリと謝りたくて、今日は来ました。」

 

 とても早口だったが、玲央はそんな事どうでもよかった。怖くてよく隆弥の顔は見えない。見ているつもりでも、隆弥の表情がハッキリと認識できる、『目』を見つめる事ができないのだ。隆弥はただ唖然として立っていた。そして、深々と玲央は頭を下げる。

 

 「あの時は本当に、本当にすみませんでした……!!」

 

 隆弥はしばらく黙ったあと、怒りとも悲しみとも言えない口調で語り出した。

 

 「俺と潤悟は……特に潤悟は、母親に虐待を受けながら育ってきた。」

 

 玲央は顔を上げた。ギャクタイ。その言葉を聞いて、自分の罪深さが未だ信じられずにいた。

 

 「母は……いわゆるアルコール中毒だった。潤悟を産んだ直後に親父がくたばって、母は潤悟が親父の命と引き換えに生まれてきたと、そう本気で思っていた。俺は中学を卒業すると同時に就職して、その時に潤悟と一緒に家を出た。」

 

 隆弥は目に涙を浮かべ始めた。隆弥の口調が悲しみに囚われ始めた。大人が泣く瞬間を生で初めて見た玲央は、どうすれば良いのかわからず、自分にある数多の選択肢を手探りで当てようとする。しかし答えは出ず、隆弥はそれでも話しを続けた。

 

 「潤悟には漫画家ってゆう夢を……叶えてほしくて……!! 二人で一生懸命頑張ったさ。俺は生きるために金を稼いで、潤悟は夢を叶えるために描き続けて……俺の、何歳だったかなぁ……クリスマスに漫画賞を取った時は——嬉しかったなぁ……!!」

 

 手探りで探し当てた結果、時間に解決させる。という他力本願の選択肢を、混乱する頭でもぎり取った。しかし解決はしないし、その時間も隆弥がもうすぐ決めようとしていた。

 

 「潤悟は俺にとって、過去であり、現在であり、未来だった!! 俺の全てを賭して、潤悟を育ててきた!! でも、でもっ……もう……!」

 

 何もできなくて。自分が犯した業はあまりに深くて。玲央はいろんな感情を混ぜ合わせ、結果的に隆弥と一緒に泣いてしまった。

 

 「……すまない。でも、君が謝っても、潤悟はもう帰ってこない。俺も混乱してきた。今日はもう帰ってくれ。」

 

 静かにドアは閉められた。菓子折りの持ち手は、込められた力でぐしゃぐしゃになり、初夏の風は、優しく玲央を撫でた。

 

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