第一章 第二話
ING 第一章 第二話
朝が来た。冬を抜けたとはいえ11頃まではまだまだ肌寒く、玲央は体温で暖かくなった毛布を引き剥がし、体に鞭を打って登校の準備をした。
制服を着て顔を洗い、歯を磨く。前髪が少しだけうねっているが、これくらいなら別にどうでもいいと、特に気にせずリビングへ向かった。
リビングのテーブルにはビール缶が未だに残っており、テーブルの中央には500円だけ置いてあった。
玲央はさっきまで母の気配を感じていた。琴乃は今日の朝からバイトであり、その後大学の授業もあるので先に出ているのだろうと思った。——実際その通りだが——
そしてリビングに隣接している両親の寝室には、母が履いているスリッパが床に転がっている。寝室のドアが開いていて、遠目からでも確認できる。母も寝ているのだろうと玲央は確信した。
朝食は用意されていない。いつものことかと、玲央は昼食用の500円を指でつまんでポケットに入れた。
× × × × ×
家を出ていつものルートを難なく通って、玲央は学校に到着した。この街には坂がたくさんあり、日本でも一番と言えるほどだ。玲央の通学路にも漏れなく坂があるが、そんなことでは憂鬱になったりせず、むしろいい運動だと思って、ほぼ毎日登坂している。
学校に着くと玄関で靴を履き替え、三階にある教室に向かって階段を登る。教師とすれ違いそうだから一段飛ばしで歩くことはしないが、一段上がるだけでも、屈曲と伸展で大腿二頭筋に刺激が加わる。
そして三階に上がって教室に入り、椅子に座るとじんわりと筋肉が弛んでいくのを感じられる。
冷たい氷を握りしめた後、手を温めているような。海の中では息を止め、海から出た時に思い切り空気を吸って肺が満たされるような。苦痛の後に来る快感で、玲央の脳内は満たされてゆく。
少し恍惚としていると、朝からサッカーの練習をしていた駿輝が帰ってきた。
「よっ おはよ。」
「ああ、おはよ。」
何気なく言葉を交わし、駿輝は隣の席に座った。
「なんか目がうっとりしてないか? んん?」
「なんてゆーか……体を一通りシバき倒したあとに休むと気持ちよくない?」
駿輝は何度か玲央の家に遊びに行ったことがある。そのおかげで玲央の登下校のルートは知っているのだが
「あ! お前また平和公園の坂から通って来たんか?」
駿輝が話しているのは、大昔に原子爆弾がこの街に落とされた後に、核兵器の悲惨さや、世界平和を願うために作られた総合公園のことである。
「バカだなぁ。エスカレーター使ってもバレねえってのに。あそこからのほうがよっぽど楽だろ。」
公園の入口の一つはエスカレーターとなっており、横に幅の広い階段もありはするのだが、駿輝が話しているのはエスカレーターを使って、公園内のゆるい坂を歩けばいいのではということを、以前も玲央に訴えたことがあるのだが——
「ダメでしょ。校則でエスカレーターは使うなって言われてんだから。」
「別にエスカレーター壊したり、人に迷惑かけてるわけでもねぇんだから。別にいいと思うけどな。俺は。」
「意見が別れたね。」
意見が別れたからといって、玲央のことを駿輝は嫌ったりしなかった。むしろ飄々として
「そっちがいいだろ。なんでもかんでも”うんうん、そうだね”って言われる方が気持ち悪さがあるな。逆にハッキリとした意見を言ってくれるなら、”ああ、対等に接してくれてんだな”ってなるからなぁ。」
「ハッキリ言ってくれるのがいいんだ?」
駿輝は「もちろん。」と笑顔で親指を立てた。玲央は清々しく、そして明確な考え方を持って生きる彼のことを心の底から尊敬し、自分の親友であることを誇りに思い、そして目には見えずとも、自分と駿輝の間にある——一つの糸を尊く思った。
「おーい。霧島。」
教室の出入り口から玲央を呼ぶ声が聞こえた。呼んでいたのは担任である石川だった。化学の教師であり、いつも気だるそうにしている目を今日も開きながら、玲央のことを呼んでいた。
「校長先生が呼んでるから、ちょっと校長室まで来い。」
教室中の目線が玲央を刺す。校長との関係なんてすれ違った時に軽く挨拶する程度で、呼ばれる理由など心あたりが無かった。
「え? なんでっすか?」
駿輝は石川に聞いてみた。玲央が何か良からぬことを犯したとは考えられず、あるとするならば、困っている人をどうにかこうにか助けて、その人から感謝の電話なんかが来て——そういう風に考えてみた。しかし瞳が不安定に、細かく揺れ続ける玲央を見ると、やはり心あたりが無さそうだった。
「いいから。とりあえず朝礼まで時間ねぇから、早くしな。」
玲央は言われた通り、校長室に行くため教室を出ようとする。クラスメイトの視線を背中に浴びながら、ゆっくりと教室のドアを閉めた。
× × × × ×
玲央は職員室の隣にある校長室の前まで来ていた。緊張で手が震えている。校長は優しそうな人。とか、夏以外は黒いスーツを着て、少し細い体でゆったりと歩く。鼻が長く、欧州の人の顔つきに似ているな。という印象を抱いていた。
「じゃあ、俺は小テストの採点あっから、校長先生と話したら教室に戻るんだぞ。」
「……はい。」
校長室の前で、石川は職員室へと消えていった。玲央は覚悟を決めて、校長室のドアをノックした。
「どうぞ。」
印象通り優しそうな声だった。
「失礼します。」
玲央はそう言ってドアを開けた。
「やあ、おはようございます。」
いの一番に校長から挨拶を受けた。先に挨拶をしたかったのだが、玲央はしまった、と軽くショックを受けた。校長室の中は学校にあるどの部屋とも似つかなかった。黒い一人用ソファーが片側に二つずつ、中央を向くように設えてあり、校長がいつも使っている机は幅が16〜170cmはありそうだった。
そして、見慣れない人物がソファーに軽く腰掛けていた。
「おはようございます。君が、霧島玲央くん……だよね。」
「おはようございます……はい、そうです。」
なぜか玲央の名前を知る人物は男性で、一重まぶたで細い目に、少しふっくらとした顔つきを持ち、髪を茶色に染めている、そして服装は薄いチェスターコートに、黒いパーカーを着たいかにも都会から来たような男だった。
「私、宗安社という出版社で、週刊少年ピークの編集者をしています、斎藤と申します。」
漫画雑誌の編集者、という自己紹介で、玲央はなんとなく『あの人』の関係者なんだ、と勘づき、ドキッとした。
「今回は藤田潤悟先生のドキュメンタリーを制作するにあたって、霧島くんに撮影協力をお願いしたくて来ました。」
「ドキュメンタリー……撮影協力……?」
突然のことで玲央は事態をうまく飲み込めていなかった。
「そうなんです。藤田先生が亡くなられてもう14年が経ちました。その間にも、彼の代表作・『ネーヴィス戦記』は全世界シリーズ累計発行部数が1億部を越え、世界中にコアなファンを生む結果となりました。そして、宗安社では藤田先生の生まれてから漫画家としてデビューするまで、それから——亡くなられるまでの全てを記録したドキュメンタリーを制作しようという企画が立ち上がりました。」
斎藤の話に続いて、校長が口を開いた。
「霧島くん、君の過去は概ね把握している。大変な思いをしてきたね。でも、だからといって今回の話しを無理に引き受けることはないし、”自分が犠牲になれば”なんて思うことはない。じっくりと考えて、答えを出すといい。」
玲央は気になることがあった。
「すいません、その……ドキュメンタリーはどうして作ろうと思ったんですか? それに、なんで僕に……?」
斎藤は一拍置いて、再びゆっくり話し始めた。
「好き嫌いの話しになってしまうんだけど……我々は藤田先生が本当に好きでした。明るくて、誰にもマイナスに接することはなく、貧しい生まれながらも懸命に努力してきた。そんな彼を失ったのは、あまりにも悲しみが大きかった。彼のことを、一人でもいいから、生涯忘れることなく、愛して欲しいと願うからドキュメンタリーを作ろうと。」
藤田潤悟のことを、玲央はよく知らない。しかし、そんな彼を死なせてしまっているわけだから、悲しそうに話す斎藤の言葉に、玲央は重く打ちのめされそうになった。
「そして……藤田先生”の”これまで関わってきた……逆に、藤田先生”に”関わった人たちの話しも聞かないと、今回のドキュメンタリーは成立しないと考えました。過去があって、彼がいたハズだから。だから、彼の過去の一部でもある、君からも話しを聞きたいんだ。」
とめどなく不安が溢れてくる。恐怖が脈をうつ。玲央はそれでも、許してほしかった。潤悟のファン全員に、母に、遺族に。そして——自分自身にも。
謝らなければ。玲央の”生き残ってしまった”罪が、彼の背中を加速度的に押してゆく——。